第7話

 目が覚めて現実に戻る。


 上半身だけ起こし、粗くなっている呼吸を整えながら、じっとりと汗ばんでいる額を手のひらでぬぐった。不快な粘りけのある液体がまとわりつく。僕はそれをズボンの脇で拭きとった。床に転がっている水のペットボトルを手にして、ふたくちほど飲み下す。長く細い息を吐きだす。


 いつになくリアルな悪夢だった。夢ではあるが、それはおそらく現実の窮状を表しているのだろう。悪夢、という意味では現実も同じなのかもしれない。視線を上に向けて部屋を見渡してみる。


 部屋じゅうにはびこっている乳房はもはや不気味なものでしかなく、常に圧迫感を感じさせる。それは精神的なものでもあったが、もはや物理的にも居住空間を狭く感じさせるほどにまで成長していた。この数日で膨張の速度が確実に早くなっている。正確に見積もることができたとしたら、ひょっとすると綺麗な指数関数のグラフになるのかもしれない。


 過去に発表された研究論文のなかに、乳房の指数関数的な膨張説を唱えているものがあったことを思い出す。現状の膨張率は微々たる数値であるものの、ある時点を境として爆発的に膨張し数日で国が滅ぶ、というセンセーショナルな内容であった。根拠薄弱な説として誰もまともには取りあわなかったが、かといってその理論を否定する証拠があるわけでもなかった。


 去来する様々な思いを振りはらって体を起こし、まずトイレに向かう。朝の尿意もさることながら、とにかくどうにかして便器内のスマートフォンを回収することができないかどうか、毎朝の日課としてトライすることとしていた。それでも絶妙にはまりこんだ筐体が上がってくる気配はない。あとは便座ごと取り外してひっくり返す、という最終案があるが、そこにまで踏みこめていない。それで回収できても、そもそも壊れてしまっている確率が高い。さらに、上手く修復しないと便器側も使えなくなる可能性もある。そうなると、いよいよ一大事になるのだ。


 この日もすぐにスマートフォン回収は諦めて用を足し、乳房で埋め尽くされたキッチンスペースをそろりそろりと歩いて抜けてベットルームの方に戻る。プライベートパソコンを開く。すでにキーは乳房で埋め尽くされているが、さいわい電源ボタンは生きている。いろいろな制約はあるものの、マウスだけは使える状態のため、ネットサーフィンだけはどうにかなる。


 いつもの手順でパソコンの電源を入れ、そのままの流れでブラウザを立ち上げる。




 ――ここ数ヶ月の公安による検挙数の増加は、〈クロフネ〉の動きの活発化によるものか。


〈世界樹の館〉のトップページに、今日付けで現れた見出しだ。


 ――政府は、近く海外渡航を厳しく制限する法律を発令する方針を明らかにした。


 すこし潜ると、このような記載もあった。

 旅行などの個人的理由での海外渡航に関しては禁止されてから久しいが、今まで交易やビジネスでの出入国に関しては正式な申請の手順をふめば、ほぼ制限されることはなかった。もちろん〈女性党〉政権にとって都合の悪い情報や物、人が流入するリスクは避けられないが、それよりも景気が優先されていた形だ。


 それが一転して禁止ともなると、とくにメーカーにとっては大きな戦略の転換を余儀なくされる。自分の生活にもなにか関わるのではないか、とふと思うが、それよりも――。と現実に戻る。


 それよりも今はこの乳房地獄から抜け出さなければならない。すべてはそれからだ。


 乳房、壁、床、天井、増殖、などのキーワードで検索を続けるが、今の状況を打開するヒントはどこにも見当たらない。棚の奥に眠っていた貰い物のブランデーのボトルを足元に常備し、少しずつ口をつけながらディスプレイの文字を追う。

 平日の昼間ではあったが、もうなにも関係ない。そう断言できるまでに、事態は悪化している。不安に押しつぶされないようにするためにも酔いは必須だ。そう判断した。


 備蓄していたカップ焼きそばを準備し、水道水で割ったブランデーで胃に流しこみながら、ひたすら〈世界樹の館〉に潜る。


 検挙数の増加に伴い新しい体験談がネットにアップされる件数も増えていた。もちろん、昔からこういった類の手記は多々あった。ちょっとした出来心で女性の胸を見つめてしまったことへの反省をつづった文や、公安に捕まって数日監禁された様子を、ありのままに記述したものもある。なかには冤罪を訴えるような内容もあったが、そういったものは数日後にはサイトから削除されていた。


 漫然とネットの海のなかをさまよいながら〈膨張禁止令〉にまつわる情報を拾い読みしていくと、ある体験談に目がとまった。


 ――付き合っていた恋人が、実は公安の犬だった。


 ひやり、と悪寒が走る。投稿日を確認すると、数年前のものだった。ただ、これだけならよくあるハニートラップだ。読み飛ばしてしまってもよい。


 ――いいね、その感じ。


 なにげなく書かれていたこの文に、マウスを動かす手が止まる。一瞬、息が止まったような気もした。酔いもさめてくる。


 その手記のなかでは女性の言葉として頻繁に登場するフレーズだ。三谷ナナの口癖と同じ――いや、偶然ではない。この女性は三谷ナナ本人だ。僕はそう断ずる。同じ時期、公安の犬で同じ口癖をもって男をひっかけていた女性がそう何人もいるはずがない。


 ある匿名男性の手記だ。その膨大なテキストを、ただひたすら読みこむ。が、どこまでいっても女性の名前は出てこない。あえて伏せているように感じられた。半分ほど目を通したところで一旦置いた。ディスプレイから目を離す。背もたれに体を預ける。と、視界の隅に入ったブランデーのボトルを手に取り、グラスに注いだ。ほぼストレートのような濃さのそれに口をつける。喉が焼けるような感覚のあと、胃のあたりが熱を持つ。一気に酔いが戻ってくる気がした。もう一度、今度は思いきって何口か飲んでみた。感覚の麻痺した身体からは拒絶反応はなく、ただ酔いだけが広がっていく。さらにもう一口飲んだ。


 ディスプレイの文字が二重になって揺れている。文字だけではない。視界も回っている。それでもどうにかネットの海に踏みとどまり、検索を続けている。

 これ以上ないほど泥酔しているにも関わらず、頭は冷え切っていた。


『三谷ナナ』そのものの検索結果、出てきたのは僕の知る女とはまったくの別人だった。公安から派遣されて男を誘惑する女性として一部で有名だということはわかった。ただ、幼い丸顔でややぽっちゃりとした体型、そしてシルバーの短髪、という僕の記憶にない女性の特徴が羅列されていた。舌足らずな喋り方、というのもまったく正反対なイメージだ。


 無意識にブランデーを口に含み、そして検索を続ける。


 今度は『金髪 メッシュ』と入力してみる。多数出てくる表題を飛ばし読みしながら、公安の女が、という文章がひっかかりクリックする。出てきたサイトには、強烈な既視感を覚える。最近はまったく訪れていなかったが、一時期はむさぼるように読んでいた情報サイトだ。


 ――美しい黒髪に金のメッシュを入れた女は、実は公安の手先だった。


 そうだ。自分はこの文章を何度も読んだことがある。それはいつの頃だったか。三谷ナナに会ったあとだったか――。いや、違う。もっと昔だ。


 揺れ続ける視界で、文章が流れていく。


 ――そのメッシュの女は、実はあの有名な『遠藤さくら』だった。出会ったときは偽名を使われていたのだ。


『遠藤さくら』は公安の犬としてポピュラーな名前だ。それは知っている。


 自分の知らない人物が三谷ナナで、知っているはずの女はまったくの別人だ。どういうことなのか、酔いも手伝って思考停止に陥る。わかっているのは、自分がこれらの文章をかつて何度も目にしていたことだ。それは、三谷ナナと付き合っていた記憶のある時期よりも過去になる。


 ブランデーのグラスを持つ手が震えているのがわかる。そのまま一気にあおってグラスをおき、ディスプレイに向き直った直後、こらえきれない吐き気に襲われて席を立った。キッチンスペースへと走る。


 トイレにかけこみ便座を上げる。顔を近づける前に喉から溢れてきた吐瀉物が口いっぱいに広がる。こらえきれずに吐きだす。どうにかほとんどの個体物は便器に収まったが、一部床にも飛散してしまっている。鈍い思考を駆使してそれらをふきとって便器にいれ、そのまま流してしまう。

 流水の音ですべては綺麗に流されていく。だが、頭のなかは散らかったままだ。なにがどうなっているのか、もう一度整理しなければならない。そう思うと急に気分が悪くなって、また便器に向かって吐いた。水を流して、もう一度吐いて、また流す。吐き気はしてもなにも出なくなるまで繰り返す。考えなければならないが、もうなにかを考えられるような状況でもない。

 しばらくそのまま床に這いつくばっていると、すこしだけ気分が上向いてきた。トイレから出て水道水を限界までがぶ飲みして、そしてベッドルームへ向かう。


 ベッドに倒れこんで目を閉じると、上下の感覚がなく浮遊しているような気分になった。気分が悪いような、それでいて心地よいアルコールの酔いのなかを漂っているような、なんとも不思議な感覚だった。

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