第2話 残り香 T

6時目が覚める、いつものように掛け布団を軽く畳み消臭スプレーをかけた後、ふっと隣のベットに眼をむける。隣で寝ている妻は、昨日遅くまで私を待っていたせいか、まだ布団の中でうとうととしている。軽く肩を揺すってみるが、反応は薄い。寝させておくのが肝要だろう。寝室を後にし、階下の台所に向かう。朝は寝ぼけていることも多いから、手すりを丁寧に触りながら階段を降りる。台所につき、コップを棚から出して、蛇口を捻り、水を出す。漢方薬を取り出し、水と一緒に煽る。口周りが少し濡れてしまったので、タオルで口を拭う。その時、右の指に微かな酸っぱい匂いがした気がした。体がつい、硬直し動けなくなる。タオルから手を離し、改めて指を鼻に近づけるが、やはり臭いはしなかった。


リビングに向かい、ソファに深く深く腰を落とす。何故だろう、朝なのにどっと気がやられている。深く深く息をする。朝の空気が肺に入り込み、段々と癒やされていくのがわかる。思えば、ここ数日は多忙で中々休みを取れていなかった。そんな時分にあのような飲み会をすれば、なるほど体に祟るだろう。


今回の飲み会は研究室で開かれたものであり、OB、OGも参加した。私は数年この研究室で、生徒を教えている立場だから、生徒が毎年開いてくれるこの行事に参加しないわけにもいかず、もちろん感謝しながら君は今どこで何をしているのかね?体は丈夫にしているか?心が病むことはないだろうか?色々なことを聞いて回った。幸いなことに、皆辛いことはあるが今は修行と割り切り社会人生活を楽しんでいるようだ。中には後輩ができた。教える立場になった。チーム牽引する立場になったのだと、そう報告してくれる面々もおり、そう言ったものには大いに話を聞き、その辛さに同情し、心砕いて話を聞いた最後に、修養録を勧めてあげた。どうにも分厚く、高いものだから、さてあの中の何人が買ってくれるだろうか。そうこうしているうちに時間は過ぎ、若い面々は2次会へ向かう。お暇しようと思ったが、先生も是非にと言われて腕を引かれて仕舞えば仕方なく、私も共に2次会の席に連れ添った。夜の23時かかった頃だろうか。段々と酔い潰れそうになるものたちが増え、私は軽く介抱しながら彼らを駅に送った。


その帰り道、上原春奈という女性に出会った。路上に座り込み動かなくなり、厄介な男たちがチラチラと彼女を見ている。あれはまずいと思い、大丈夫かと、家はどちらの方にあると聞き、タクシーを呼んだ。家のものはいるかと聞いたが、一人暮らしで実家は福岡にあるそうだった。ともあれ、タクシーに押し込むしかあるまいと思っていると急に吐きたいと言い始めたのだ。


上の階から、誰かが降りてくる音がする。どうやら、あかりが起きてきたようだ。少し寝癖がついて、眠そうな顔をしている。私より8も若い彼女はどうにも可愛らしい。パジャマの裾で瞼を軽く撫でる。


「泰介さん、おはよう。」

「おはよう、あかりさん。もう少し寝てても良かったんですよ。」


そういうと彼女は首を小さく振って答える


「うんうん、朝ごはんの準備しなきゃ、泰介さん今日は出るの遅いんでしょ?少しでも二人でゆっくりしたいもん。」

「そうですか。では、すみませんが後でコーヒーをもらっても良いですか?やはり、自分で入れるとどうにも美味しくなくて、君が淹れたものは格別に美味しいですからね。」


はーい、というと少し機嫌よさそうに洗面台に向かってゆく。

私は、立ち上がり玄関へと向かう。つっかけを履いて、外に出ると平日とはいえこの時間帯はまだまだ静かで、淡い光が隣家を照らしている。ポストから新聞を取り出し、小脇に挟むとそのまま家に入る。洗面台の方からはドライヤーの音が聞こえてくる。私は元の自分の場所に腰を落ち着けて、新聞を開く。


一面は今日もウクライナの戦争の話だ。軽く目を通し、次の記事をみやる。

株価変動に苦言とタイトルが書かれていた。そこにあるのは、業績が下落し、株価が下がったの会社が謎の復活を果たしたと書かれている。奇妙な話だが、会社の大株主が売りに出された多くの株を買い取ったようだ、それも通常の倍の値段で…。

気になる記事だが、終わりの方は何だか韓国の会社のよくわからない数字が出てきて最後に「何でも、北朝鮮の策略らしい。」とまとめられていた…。まぁ、どこかで聞いた話だし何なら有名なはずだが、この新聞社はそこら辺のことには一言も触れていなかった。一通り読み終えると、新聞を畳んでソファの横に置く。丁度あかりさんがコーヒーとホットココアをお盆に乗せて持ってきた。私はコーヒーを受け取ると


「ありがとう。」


と一言いい、左手で器を持ち、コーヒーを口に含む。あかりさんは僕の前のソファに座り、ゆっくりと手でホットミルクを冷ましているようだった。折られたパシャマのすそが下がり、指の付け根を隠している。茶色に染められた髪が、窓からの朝の光を僅かに受け、細い毛の一本一本が明確に見えるようだった。それは、一つの絵のようで、癒される自分がいた。私の視線に気がついたのだろう。明かりさんは少し不満げに頬を膨らませる。


「そんなに見ないで、だって暑いの苦手なんだもん。」


その様子にクっと笑いが溢れてしまう。目が責めるようにこちらに向いてくる。しまったと思いフォローに入った。


「そうですね、私の好みの温度にしてくれましたから。あかりさんには少し暑かったですよね。すみません。」

「誤魔化してもう。」


そう言いながら少し嬉しそうにも感じる。この戯れ合いが私たち夫婦の会話なのだ。いつも通りそういつも通りだ。


「ねぇ、泰介さん。どうして左手で飲んでるの?」


はっとした。自分でも気づいていなかったのだ。無意識に右手が鼻に近づくことを嫌がり、不慣れな左手を使っていた。そして、意識的にそれに気づかないようにしていたのだと気がついた。


「いや、今日は今朝から右手に痺れがありましてね。」

「え?大丈夫なの?」


咄嗟に嘘が出る。深く追求されたくなくて、少しでも本当のことを言えば、その後何一つ偽れなくなる気がしてしまったのだ。だから100%の嘘をついた。その事に罪悪感を感じるが、それを構っている必要はないと理解して会話を続けた。彼女が本当に心配してくれるのがわかる。


「お医者さんとかは…」

「大丈夫ですよ。指先が少し震えるだけですから、安静にして入れば治ります。もしかしたら、昨日のアルコールがまだ残っているのかもしれませんね。」


そんな苦し紛れの嘘を、私は今綺麗に笑えているだろうか?いつも通り。

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悪魔の手 ぬのむめさうか? @NunoMumeSasuka

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