悪魔の手

ぬのむめさうか?

第1話 身割 T

汗ばむ手を、シーツに擦り付ける。上から下へ、上流から下流へ、赤みがかった指先が僅かに喜ぶ。安らぎを求める指先にふっと、息を吹きかけ。乾き切ったそれらは、瑞々しく憂いた唇に落とされる。僅かに滑る歯、反発し埋まる歯肉、柔らかい舌先、奥につれ固身を帯びていく舌裏、侵入を阻もうとする喉の奥の奥までゆっくりと触れる。痛いのだろうか…濡れた歯が、指の付け根をわずかに刺激する。


「うぉぇ・・・」


彼女は洗面器に向けて盛大に、アルコールと消化しきれなかった何かを吐き出す。

役目を終えた指を引き抜き、鼻に引き寄せる。酸味と甘みと塩味が複雑に絡んだ匂いがする。クセになりそうだ。ベットから立ち上がり、1人洗面台に向かう。水で洗い流し、再び鼻へ近づける。匂いはまだ取れない。石鹸をつけると、匂いが少し優しくなる。擦って、水で流すが、まだ匂いは取れない。柔らかな石鹸の香りの中に、半年ほど洗われていない実家の獣のような雑な匂いがする。


タオルで手を綺麗に拭き、ベットへ戻る。洗面器を抱えた女性が幸せそうに寝ている。髪が短くてよかった。髪が長ければ、排泄物に髪が落ち、可哀想な事になっていたはずだ。女性から洗面器を奪い、上から布団をかけてやる。スーツで寝ているからシワにはなってしまうだろうが、自己責任というやつだ。…阿呆のような顔で、寝返りを打ち仰向けになる。涎が口の端から、こぼれ落ちる。先ほどまで、自分の指に纏われていたそれに、手が延びそうになり。


鞄を持ち、部屋を出る。エレベータで下まで降りると、スタッフがいってらっしゃいませと声をかけてくる。もう、戻ってくることはないと思いつつその場を後にする。


すでに終電を過ぎていて、帰る方法もないので駅前まで歩いていると、案の定タクシーが拾ってくれた。


「荻窪まで」

「はい、わかりました。」


新宿の夜の街は、意外と物静かで、今日は路上で吐いている輩もいないようだ。ボーッと眺めていると前から


「飲みの帰りですか?」


と会話のお誘いが来る。


「そうですね。」

「コロナでね、随分とここら辺は結構早くしまる店増えちゃったんだけど、やっぱりそこは歌舞伎町という感じですよね。もう客足は完全に戻ってきてますよ。」

「ハメを外す輩が多くて、こちらは困ったものですがね。酔っ払いたちの割を喰うのはいつだってシラフですから。」

「…はは、そうですね。」

「少し窓を開けてもいいですか?」

「あっ、はい、いまお開けしますね。」


後部座席の窓が開き、夜風が顔に吹き付けてくる。僅かに火照った頭が段々と冷めていき、家に着く頃にはすっかり気が楽になっていた。


「お代はいくらでしょう?」

「えーと、8千と9百円です。」

「カードで」


車を出ると、部屋の灯がついているのがわかった。こんな夜遅くなってもまだ、あかりさんは起きて待っているのか。私は鍵を取り出し、いつもと変わらない様子で玄関のドアを開けるのだった。

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