『魅惑の女』

「あなたのこと嫌いでもないのよ」


 女は言う。

 それを言われた男は、声を荒げながら女に言い寄った。


「だったらいいじゃないか。僕もいい年だ結婚したいんだよ」


 男と女は薄暗いバーの中にいた。女はいつもそのバーの一番隅の席に座っては男を待つ。男、というのは特定の誰かを指す言葉ではなく文字通りの男である。今、女に言い寄っている男もその女に群がる有象無象の一人なのだ。


「そうねえ」

「しっかりとした返事をくれ。いつもそんな返事ばかりではないか。別の男が来るのを待っているのか?」


 女は誰か男が来るたびに隣にいる男を帰らせていた。男を帰らせ、違う男を隣に座らせる。もちろん、今女に言い寄っている男も別の男を追い出して女の隣に座った。男の前に女の隣に座っていた男はそれなりの厚さの札束を女に渡して、返事を待っていると言って帰っていった。男はまだ、金を渡すようなことはしていなかった。

 カランカラン。と静かなバーにはやかましい音が鳴った。


「どいてもらえるかね」


 男の背中に今バーに入ってきた男が声をかけた。男は静かに席を立った。ここで反抗するような男を女は最も嫌う。それを知っている奴は、反抗する男を殴っては蹴る。だから男も何も言わずにバーを出た。


 男は着ていたジャケットを腕にかけ、車のライトを浴びながら夜道を歩く。男は焦っていた。男が女と出会ったのはほんの数週間前で、女の顔を見た途端に頭を金属バットで殴られたような衝撃を受けた。男はその場で女に言い寄った。何かに取り付かれたように、必死に、それこそ死が直前にまで迫ったかのような形相で。女の隣に座る男を押し倒し、押し倒された男はそのまま帰っていった。


 男には目的がなかった。働き、金を稼いでは、コンビニで買ったビールを飲んで寝る。ただそれだけの日々に吐き気を催すほどの嫌悪感を持っていたのだ。実際に何度かは吐き散らかし、一週間一睡もしていないかのような死んだ目で眠りについた。


 そんな男にも目的ができるかもしれなかった。稼いだ金は溜まる一方だ。趣味もなく、金を何に使えばいいのかがわからない。男には欲がないのだ。その、今まで知らぬ間に溜まっていた欲のすべてが女に向けられた。男は、すべてを捧げるつもりだった。金は好きに使ってもらって構わない、言われたことは何でもしよう、だから自分のものになってくれ。そうなれば、男のやることなすことには意味が生まれる。すべては女のためだ。男はその一心で女に言い寄っていた。


 翌日。男は仕事の帰りに女がいるバーに行った。今日、男には一つの作戦があった。簡単なことだ、すべてを捧げてしまおうと、それだけだ。女がどうしたいのかどうするのかそんなことは関係がないことに気づいたのだ。これからは言い寄るだけでなく、捧げよう。そして、女を自分のものにしよう。


 カランカラン。


 男はバーの入り口を開いた。女は右斜め前、カウンター席の一番端に座っている。もちろん、女の隣には知らぬ男がいた。だが、男の目には女しか映っていない。

 空いた女の隣に男は座った。


「今日も来たのね」


 女の声、艶やかな唇、漏れる息、香水の匂い、すべてが男のありとあらゆる感覚を刺激した。酒など一滴も飲んでいないにもかかわらず男の頭はフワフワと空を飛んでいるかのような心地になる。


「ああ。今日は聞きたいことがあったんだ」

「また、結婚の話?」

「それは時期を見てすることにしたよ。まずは君を満たすところから始めたい」

「へえ」


 女の口から甘い匂いと酒の匂いの混ざった息が漏れた。男はそれだけで気を失ってしまいそうなほどの快楽を得た。頬を叩き、気を取り戻す。


「何をしてくれるの?」


 なんでも、そう答えそうになってしまったがそれはまだだ。男は女が自分のものになってくれないと気が済まないのだ。女が許すのなら、これから来るであろう男どもを嬲り殺して、自分だけが女の隣に座りたいと思っている。唇を噛みしめ血をにじませる者、握った手のひらに爪が食い込んで血が指を伝っている者、そういうやつが沢山いた。男も例に洩れず、そういった異常な感情を持っていた。


「そうだなあ。何かプレゼントがしたい。欲しいものはあるか?」

「バッグが欲しいわあ。とびっきり高いやつ」


 女は目を見開き、薄く開いた口からは声以上に吐息を漏らしながら言った。


 カランカラン。


 男は席を立って店を立た。


 仕事の休み時間に男は、手袋をした店員のいる店に入った。もちろん、扉も店員が開けてくれた。ひたすらに溜まり続ける金の使い道ができて男は純粋に嬉しかった。


「一番高いバッグをくれ」


 男はそう言う。男はその年代の人からしてみれば相当稼いでいた。年代という枠を排除しても収入の多さは上位に食い込むだろう。だから余計に虚しさが募っていたのだ。


 そのバッグを女はとても喜んだ。仕事の終わりにバーに行き、女の隣にいた男を追い出し男は女に買ったばかりのバッグをプレゼントしたのだ。女は男の手を握り、顔を寄せてそっと頬に口づけをした。


 それからも男は女に毎日のようにプレゼントを持っていった。アクセサリーや服や靴。一か月のうちにプレゼントしたバッグの数は十を超えていた。それでも男の金はマイナスにはならなかった。金が溜まっていったのだ。


 男は空のビール缶が積み上げられている机に通帳を投げる。金が増えるたびに、男は何かがすり減っていく感覚に襲われていた。それが何かはわからないが、それは確かに男の内面をがりがりと荒く削っていた。


 カランカラン。


 男はバーの中に入る。女は隅の席に座っており、その隣にはやはり男が座っている。女の隣に座る男は開いた扉を一瞥したが席を立つ様子はない。男は女の隣の席に座る男に向かって声をかける。


「どいてもらっていいですか?」


 男は胸の辺りに鈍い痛みを感じた。女の隣に座っていた男が空になったグラスを投げてきたのだ。グラスは割れることなく、床を転がる。


「どっかいけ」


 男の怒りは頂点に達した。誰もがその女が欲しくてたまらないのだ。その気が狂いそうな、あるいは狂ってしまった気すらも押さえつけてその席を譲っているというのに、この男はグラスを投げつける程度の苛立ちで反抗してきたのだ。許せるはずがない。


 男は女の隣に座る男の椅子を思いっきり引き、男を床に寝そべらせた。床に転がる顔面を力の限り踏み潰す。一度、二度、三度、四度、五度、踏みつけ続けた。男の顔が鼻血で紅く濡れようが、気を失おうが気にすることなく、気のすむまで踏みつけた。


 男は雑巾のような顔を持つ男を引きずりバーの外に出した。


「ご苦労様」


 女は男の頬に口づけをする。


「僕がどれだけの感情を抑えてこの席を譲っているのか、わかってくれたかな」

「ええ。すごく。興奮したわ」

「結婚してほしい」


 男はそう言って、自宅の合鍵と住所が書かれたメモを渡した。


「気が向いたら、結婚する気になったら、僕の家に来てほしい。仕事から帰って、このバーに来てみると君がいない。どうしようもない感情を抱えながら家に帰ると、君がいた、そんなに嬉しいことはない。君の気が向くことを祈っているよ」


 カランカラン。バーの扉が開いた。男は小さく舌打ちをする。さっきの男に構いすぎたのだ。女の隣に座っていられる時間は限られている。限られすぎている。そこに座っている時間に関係なく、順番なのだ。男は唇から血をにじませ、爪を手のひらに食い込ませながら席を立って店を出た。


 家のソファーに座り、机の上に置いてあった通帳を見る。一番、金が溜まっている口座の通帳だ。女へのプレゼントのための金もこの口座から出していた。それでも給料のおかげで金は増える一方だ。男は通帳を投げ捨てた。血走る目を閉じたとしても、眠りに落ちることはできなかった。


 朝、不愉快な目覚ましの音で目を開くと、朝食もとらずに男は自宅を出た。鍵を閉め、エレベーターで一階まで下りる。男が住むのは高層マンションだった。高く伸びるマンションを下から眺め男は舌を打つ。


 優秀なその男は、誰よりも多くの仕事を誰よりも早く丁寧にこなす。男には、丁寧にやっているという意識は全くもってないのだけれど、男への周りからの評価はそうなっていた。


 仕事を終え、男はバーに行く。


 カランカラン。


 バーの扉を開くと、カウンター席の端にはやはり女が座っていた。男はそのことに落胆しながら、女の隣に座る男が席を立つのを待った。


 女の隣に座る。


「今日は面倒な男でなくて助かった」

「昨日の子、今日も来たのよ。今日はしっかり席を譲ってたわ」


 女からは甘い匂いがした。


「それならよかった」

「昨日はかっこよかったわ」

「なら家に来てくれても良かったのに」

「結婚は、ねえ」


 女は深みのある紅い唇を横に伸ばしながら笑う。男は獣のような衝動にかられた。今すぐにこの女を自分のものにしたい。しかし、それをするには慎重にならざるを得ない。男は頬を叩く。


「何か、プレゼントがしたい。最近は、何もあげていない」


 男が最後に女にプレゼントをしたのは三日前だった。三桁はする高級バッグをプレゼントした。


「もう、たくさんもらったわよ」


 女は口をゆっくり動かしながら、言った。男はその口の動きを一瞬も逃さぬように血走った眼を大きく見開いていた。


「それでも、何かがしたい。いつになったら結婚してくれる」


 カランカラン。


 バーの扉が開いた。


「結婚、ねえ」

 女の返事とも言えぬ返事を聞きながら、男は席を立った。

 男はマンションに入り、鍵を使って自分の部屋を開こうとすると不思議そうな表情をした。鍵を開けた手ごたえがなかったのだ。確かに鍵を閉めたはずだったが。

 男は女が家にいるのでは、と思いマグマのように煮えたぎる感情に導かれながら勢いよく扉を開く。


 誰もいなかった。

 机の上に置かれている通帳を見る。金は、すべて消えていた。0という数字が一つ。


 男は、明日もバーに行こうと思った。

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