『私は翼にならなければならない』
「愛してるよ」
彼は優しく笑う。吐息が届く距離で、彼は表面張力に支えられる水を運ぶかのように呟く。
唇が触れ合う。唇に意識のすべてが吸い込まれ、そこから広大な世界が広がる。一瞬が永遠にも引き延ばされる。頭に靄がかかったように情報が制限される。目がうつろになる。広い場所で、わたしと彼の二人だけになる。舌が伸びる。わたしたち二人の意識のように絡み合う。忘れまいとする。決して離さないと決意する。どこにもいかないでと願う。意志の溶けた唾液が絡み合う。味がする。涙の味がする。わたしはその味を腹の奥底にまで飲み込む。彼を押し倒す。
夜が訪れ、夜が明ける。
「それじゃあ、行ってくるよ」
彼は笑う。わたしも笑う。彼は力強く私を抱く。唇が触れ合う。舌が伸びる。この感触を、この味を、決して忘れてはならない。涙の味がする。腰に回されている腕にさらに力がこめられる。痛みがする。味がする。涙の味がする。痛みがする。血は出ない。出してはならない。わたしたちは現実に戻る。
「行ってらっしゃい」
私は笑う。彼も笑う。静かに彼の背中は扉に隠されていく。最後に大きな音が鳴る。その拍子に、床が抜ける。地面が抜ける。わたしは世界でただ一人になる。涙が頬をつたる。
翼を持たないわたしは空を落ちるだけ。翼を失ったわたしは空を落ちるだけ。また翼が戻ってくることを願うだけ。かなわなければ、落ちるだけ。
彼は家を出る時、笑っていた。わたしも笑っていた。今は泣いている。わたしの笑顔は嘘である。彼の笑顔は、きっと本物である。わたしの涙も本物である。彼の笑顔と、わたしの涙は確かな関係につながれている。何一つとして矛盾はない。わたしと彼の願いはつながっている。でも同じ場所にはない。彼は願っているから笑っている。わたしも願っているから泣いている。お互いの心はつながっている。だからこんなにも悲しい。
私は落ちる。背中を重力が導く先に向ける。その先に何があるかはわからない。その先は私が翼を完全に失った場合にのみ訪れることを私は知っている。だから今は、ただ落ちるだけ。どこにも着くことはない。それは突然訪れる。しかし、それが訪れる瞬間を私は知っている。もしそれが訪れるのなら、私はそのコンマ数秒前に翼を失っているのだから。
視線の先はとてもきれいな色でおおわれている。それは宝石を覗いたみたいな奥行きがあり、そして輝いている。エメラルド、サファイア、ルビー、そんな色が広がっている。今何の色が目の前に広がっているのかはわからない。それらすべての色が曖昧に混在している。もしくは曖昧に独立している。
彼が家から出て行って、一日が経った。わたしは変わらず空にいる。空は嘘のようにきれいだ。美しい。普通に眠り、普通に目覚め、朝食をとる。テレビをつける。床が抜ける。空を落ちる。空は昨日とほとんど同じような表情を見せている。大きく息を吐いて、朝食を流し込む。一日目からこれじゃあ、仕方がないと思う。背筋が凍る。私はいつか、この空を落ちていく感覚に慣れる日が来るのだろうと思う。たまらなく怖くなる。それは、今すぐ自分自身の首を絞めて、今この瞬間の自分を固定してしまいたいと思うほどに。わたしは彼のことを考える。脳みその血管がはち切れてしまうんじゃないかというほど強く意識する。あるいはそのまま爆発してしまえばいいとすら思う。
一週間がたった。わたしの家には一人の女性がいる。彼女もわたしと同じで空を落ちている。空を優雅に飛んでいたけれど、いつの間にか翼は消えてしまった。わたしと同じで翼の帰りを待っている。彼女のおなかの中には一つの命がある。その命を大切そうに抱きながら彼女は翼を待っている。あるいは、自分が翼にならねばならないという決意を固めている。今はまだ、彼女も私と同じで空を落ちている。コーヒーでも飲みますか、と私は聞いてみる。彼女はやめておくわと言う。妊娠中ということもあり、カフェインをあまり摂りたくないらしい。少しくらいなら大丈夫じゃない、と私は聞いてみる。それでも彼女はいらないという。彼女はきっと、遠くない未来に翼になる日が来るのだろうと思う。
三週間がたった。空の景色は劇的に変わっていった。そしてわたしの身体も変わっていった。空の景色は悲惨なものとなっていた。きれいな空が見える時間は明らかに減っていた。見えるのは重苦しい色をした空だった。もしのその空に飲まれてしまえば、わたしは呼吸をすることすらままならなくなってしまうのだと思う。彼が、あの黒い空を割いて帰ってきてほしいと思う。翼を懇願する。わたしの中のもう一つの命に触れてほしいと思う。そして、わたしは自分自身が翼になる決意をしなくてはならないと思う。毎朝の日課になっていたコーヒーはもう飲まない。わたしはタフにならなくてはならない。翼にならなくてはならない。大きな翼を掲げて、飛び立たないといけない。そのうえで彼を待たなくてはならない。彼と一緒に飛ぶことができたなら、どれだけうれしいだろうと思う。わたしは翼にならなくてはならない。
空が爆ぜた。とてつもない勢いを持って爆ぜた。音は大きいものではない。耳をふさぐ必要もない。光もない。わたしはその勢いと煙とだけを眺めている。わたしは落ちている。空を落ちている。パチパチと軽い音がする、その音一つひとつには命を取り上げる無慈悲さがある。わたしはその音だけを聞く。わたしは目を瞑る。目を開く。きれいな花火があがる。その花火は本当にきれいだった。その花火の一つひとつは空中で燃え尽きることなくわたしと同じように空を落ちていく。わたしは安心している。当たるはずがないと安心している。背筋が凍る。震えが止まらなくなる。空が真っ黒に染まる。
空はいつものようにきれいだった。わたしは落ちている。空を落ちている。時間はゆっくりと流れていく。振り返って見ると時間は滝のように流れている。わたしは慣れてしまったのだと思う。空を落ちていると認識する時間が明らかに減っている。それを怖いと思う。思い出せたことに安堵する。翼にならなくてはと自分自身に言い聞かせる。
空をゆっくりと落ちていく。落ちている感覚が希薄になってきた。もう、ほとんど何も感じない。きっと翼は帰ってくる。それを待っていればいいのだと思う。
ダイニングテーブルの上でコーヒーを飲む。コーヒーの水面に映るわたしを見る。わたしの顔がひどく醜く見えた。じっと眺める。なぜか落ち着く。このままその暗闇に吸い込まれたいとすら思う。ひどく疲れた。暗闇に吸い込まれるのではなく、暗闇を吸い込んでいたのかもしれないと思う。体中に電流が流れたかのような錯覚を覚える。わたしは空にいた。空はきれいだ。変わらずとてもきれいだ。白い羽が一枚、落ちてくる。私はそれを優しく握る。二枚。三枚。と落ちてくる。赤く染まった羽が落ちてくる。数えきれないほどの羽が落ちてくる。わたしは理解する。私は落ちる。私は落ちた。私はただの血肉になる。私にだけ、明日が来る。私は翼にならなければならない。
私は、翼にならなければならない。
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