『溺惑の森』8(完),俺たちの水を殴るような抵抗は無意味じゃなかったってことだ
頬の冷たさで、目が覚めた。目を開くと、視界は縦に割れていた。左側は黒に近い茶色、右側は薄い茶色の木々があった。僕は自分が寝転がっていることに気が付く。視界が段々とクリアになっていき、細々としたものにまでピントが合っていく。目の前には、スマートフォンが転がっている。壊れたはずのスマートフォンが。スマートフォンの本体とケースの間には湿った黒い土が入り込んでいる。手を伸ばしスマートフォンに触れる、僕の右手は、スマートフォンのように湿った土で汚れていた。すでにスマートフォンも汚れているのだからと、気にすることなく電源ボタンを押した。電源はついた。呆けた顔をしている僕に向かって、なんて顔をしているんだ? とでも言いたげに。ロック画面に設定してある、いつか撮った雪桜の写真は全く見えなかった。スマートフォンの画面は、着信履歴やメッセージの通知であふれていた。耕や泉や遥。この電話番号は、確か斎藤さんだったか。日付を確認してみると、十月二十九日だった。僕の最後の記憶から、二か月弱が経過している。確かに、体を包む気温は冷たかった。あと十分もすれば、体が震えだすような気がする。体よりも先に右手で掴んでいたスマートフォンが揺れた。耕からの着信だった。体を起こす。僕の身体は関節が錆びてしまったのだろうか、信じられないほどに重く硬かった。まるで何か月も寝たきりであったかのように。あるいは、本当にそうだったのだろう。
通話に出る。「もしもし」体がバキバキと音を鳴らした。
「じゅうかっ! 今まで何してたんだよ!」耕の焦りが通話越しに手に通るようにわかった。熊にでも襲われているのだろうか。
「ごめん。実は、なぜか目が覚めなかったんだ」
「何か悪い事件に巻き込まれていたとかではないんだな?」
「うん、それは間違いない」
通話越しに耕が大きく息を吐いたのがわかった。「今が何月何日かわかるか?」幾分か落ち着きを取り戻した声だった。
「十月二十九日。僕もさっき気が付いたんだ。大学の単位は取れそうにない。バイトも無断で休んでしまった、クビかもしれない」
「今どこにいるんだ?」
「わからない」僕は改めて周りを見る。「森の中みたいだ。とても大きな木がたくさん生えてる。地面は少し湿っている。雨が降ってたみたいだ。ほんの少しだけ」
「まったくわからんな。スマホがあるならある程度の位置ならすぐにわかるだろ? わかったら現在地を送れ。泉と遥さんと斎藤さんもつれて迎えに行く。体とかは大丈夫なのか?」
「ああ、多分。でも今の状態なら、八十代くらいのおにいさんやおねえさんと走っても勝てなさそうだけど」
「それは大問題だな。いいか? じゅう、お前は二か月弱の間行方不明で俺らも大学も、警察もお前のことを探していたが、それでもお前はまだぴちぴちの二十歳だ。全盛期だ。だからそれは大問題だ。病院にも連れていく。お前の母親にはお前が連絡しろ。警察には俺から連絡しておく。色々諸々面倒があると思う。覚悟しておけよ。ただでさえお前は二か月弱もの間、だんまりを決め込み俺らはすっかり気をすり減らして、単位も落としそうになっている。お前の母さんは仕事が手につかなくなっている。斎藤さんはお前に連絡を無視され続けて、怒っている」
「それは大変だ」
「そういえば、スマホ、いつ直ったんだ?」
「わからない。今日、目が覚めると目の前にあったんだ」
「そうか。よくわからんが、通話できているということはそうなんだろうな。俺も安心したよ。俺たちの水を殴るような抵抗は無意味じゃなかったってことだ」
「スマホは壊れていなかったから」
「そういうことだ」
「耕」僕は声を出す。久しぶりに出すような声の種類だった。その声がどんな種類であるかは、耕次第だ。「ごめん。悪かった。すまない。申し訳ない」
「なんだその謝り方は」耕は吐き捨てるように笑った。「もういいさ。お前は帰ってきた。俺たちは、お前が帰ってくることを知っていた。合コンで俺や泉の知らないところで斎藤さんと仲良くなっていたように」
「それはどういうこと?」
「やることやってるってことだ」
やはり、わからない。そう言って、耕との通話を切った。とりあえず僕はスマホのGPSである程度の現在地を調べた。これがどれほど正確なものかはわからないが、ないよりはましだろう。しかし調べてみると幸運なことにこの森はあまり大きいものではなく、そこを出るとすぐに街に出ることができた。近くのコンビニの住所を耕には送った。僕らの大学からはだいぶ距離があったが、耕からはすぐに向かうとすぐに返信があった。耕に送ったコンビニの近くで、僕は立ち尽くした。待っている時間で、母親に電話をかけた。母親はとにかく安堵していた。詳しい話は後ですると通話を切った。詳しい話とはつまり何を話せばいいのかわからないが。それに、自分勝手な話ではあるが、今母親と会話をする気力はなかった。
空を眺めてみると、空はしっかりと僕を見つめていた。優しさと、確かな強さを持って。決して僕を見捨ててはいなかった。背後に広がる森を見る。中にいる時にはわからなかったが、やはりその森は小さかった。地平線のように広がってなどいない。街の開拓を免れた小さな森は、剃り残したひげのようだった。
車の音がする。セミの鳴き声は聞こえない。鈴虫の鳴き声も聞こえてこない。少し肌寒くなってきた。この時期に半袖のティーシャツは少し目立っていた。おまけに湿った土で汚れている。
数時間後に、耕たちがやってきた。コンビニの駐車場にどこかのレンタカー屋で借りてきたであろう黄色の軽自動車をとめると、決壊したダムのように耕が泉が遥が斎藤さんが、飛び出してきた。その光景をどのような感情で見ればよいのか、わからなかった。それでもただ一つだけ、わかることがある。
やっと、もしくは改めて、僕は始まったのだ。
二十歳を少し過ぎた頃だった。
終着点がどこにあるのか、そんなものは知らない。しかし、僕はまだ、道の途中にいる。ただそれだけのことだった。
まずは、この頬をつたう涙のぬぐい方を知りたいと思った。
(完)
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