『溺惑の森』7,遠回りであったとしても、その過程を踏まなければならなかった


「また来たんだね。田中十くん」


 その老人は以前会った時と同じ服装をしていた。ベージュ色のキャップを取り、薄くなった頭頂部をみせつけるかのようにお辞儀をする。


 老人の背後にある森はやはり何かを雄弁に語っている。その森は数に肯定された事実を雄弁に語っている。車の音も、鈴虫の鳴き声も、セミの鳴き声も、ない。空は無機質な青色をしている。一応の措置として青く塗ったような、そんな歪さがある。少なくとも僕が知っている空なんかよりも数倍それは他人行儀な顔をしていた。森だけが、僕を認めてくれているようだった。


「はい」十分なためを作った後で、僕はそう言った。


「森に入る気になったのかい?」


「その前に一つだけ聞いてもいいですか?」


「構わないよ」


「その森の中には、耕や泉、遥に仲嶋先生、斎藤さんはいますか?」


 老人は顎を触った。何か興味深いものを見るように。「いるよ。畑耕も平田泉も、遥小雨も仲嶋先生も斎藤朱鳥も、みんなこの森の中にいるよ。当たり前じゃないか。君はこの森が何なのか、多少は理解しているんだろ?」


「おそらくは」


「なら、それは当たり前のことじゃないか。だから君はこの森に入りたいと思ったんだろ?」


「そうかもしれません」


「ただ一つ、私たちが言わなければならないのは、君の友人たちは確かにこの森の中にいるが、君とは違うということだ。何も私たちは無理やりにでも君を森に引き入れたいわけでもない、入った後で出たいのなら出ればいい。だから忠告しておくよ。この森には、今君が思い浮かべたすべての人間が存在しているが、彼ら彼女らは君のことを君と認識しない。私たちは君で、君は私たちだ。それでも、いいのなら、私たちは歓迎するよ」


「それでも、構いません」僕は一歩を踏み出した。一歩踏み出すと、遠くに見えていた森は僕を飲み込んだ。まるで森自身が歩み寄ってきたみたいに。ずっと行方不明だった息子と再会した母親のように。あるいは本当にそうなのかもしれない。視界がジェットコースターに乗っているかのように揺れる。頭を掴まれ振り回されているように感じる。視界は段々と混ざり合っていく。僕自身が菜箸になったかのように。卵をかき混ぜる。黄身と白身が混ざり合う。菜箸すらも溶けて混ざり合っていく。世界は混ざり合う。僕自身もきっと一部になる。


 段々と落ち着いてきた。視界は依然として、新幹線に乗り窓から外を眺めた時のように、一本一本の細い線となって伸びている。重なっている。円を描いている。この状態に僕自身が慣れてきたのだと思う。近くにあの老人がいるのがわかる。老人は至福を感じている。その状態に身も心もありとあらゆるすべてを任せている。老人は溶けてなくなる。耕がいるのがわかる。耕がいるのに、耕から何も感じることができない。耕は溶けていく。耕自身はそのことに意識を向けていない。耕にとってここは裏なのだ。泉がいるのがわかる。泉は何にも感じていない。わざわざ空いた座席にまで意識は向けないように。人がいない座席よりも人がいる座席に意識が向いてしまうように。カフェでも、レストランでも、映画館でも、大学の講義室でも。遥がいるのがわかる。遥はこの場所を全く見ていない。その存在すら認識してはいない。手のひらを眺めた時、手のひらと自分自身の目との間にある空間を眺めることがないように。いかなる場合でも。斎藤さんがいるのがわかる。斎藤さんはこの場所に対して、耕や泉や遥よりも感触のようなものを感じているのがわかる。触れてはいないが、体温は薄っすらと感じられるくらいの距離にいる。これがもし人間であるのなら。温度を持っているのなら。こんな立ち位置もあるのかと感心する。仲嶋先生はやはり亡くなってしまったのだと理解する。仲嶋先生の存在感は、耕や泉や遥や斎藤さんよりもはるかに大きいものだった。しかし、つながりのようなものを感じることができない。


 混ざり合う。混濁する。意識が遠のく。自我が、自己が、希薄になる。何か別のものになる。あるいは、、僕はその大きな何かになる。

 ―。

 ――。

 ―――。

 ――――。

 ―――――。









 僕は、あの部屋に帰らなくてはならない。


 ずっと意識はあったように感じる。確かな記憶のようなものがある。しかし、それらを信じることができない。睡眠と覚醒の狭間で右往左往し続けていたような、そんな感覚だ。胸の、心というものがあるのならその位置に、確かな温もりがある。至福に包まれていた名残がある。それは遠のいていく。冷えた身体が、風呂に入ったことで、お湯につかることで、段々と温度を取り戻していくように。正常な位置に戻っていく。睡眠と覚醒の間で起こった答えを、僕は一生手にすることはないのだと思う。


 僕は、あの部屋に帰らなくてはならない。なぜそう思ったのだろう。そう思った途端、覚醒した。意識が急速に追いついた。無から有が生まれるように。僕が、気づけばこの世に生を受けていたように。それと同じように、僕はあの部屋に帰らなければならない、そう思ったのだ。


 森を眺める。森は何かを雄弁に語っている。何を語っているのか、今の僕にはわかる。なぜそんな言葉に惹かれてしまったのだろう。僕は一度そこに行く必要があったのだと思う。これは後悔にはならないと確信する。どれほどの時が過ぎていようとも。伴って、失われたものがあったとしても。僕は、森に入らなければならなかった。あの部屋に帰らなければならないと、思い至るまで。何度でも。過程が重要なのだ。遠回りであったとしても、その過程を踏まなければならなかった。


 空を眺める。空は僕を見ていなかった。僕自身に興味もなかった。むしろ突き放されていると感じる。一応の色すらも保つことに飽きたのだろう。空に色はない。もう一度森を見る。森をジッと眺める。空間が陽炎のように揺れる。そこから老人が現れる。ベージュ色のキャップを取り、薄くなった頭頂部を見せつけるかのようにお辞儀をする。


「帰るのかい? 田中十くん」


 老人はキャップを胸の辺りを隠すように被せ、僕に語りかける。老人は目を瞑っている。そんなものは見たくないとでも言うように。閉じられた目には確かな力があった。いかなる行動も、その目を開く要素にはなりえない。そのことがわかる。


「はい。僕は帰らなければならない」自分に言い聞かせるように言う。


「そう思ったんだね?」


「はい」


「なら、君にとってこの森は過程であって、終着点ではなかったということだ」


「そういうことになるかもしれません」


「羨ましい」強く、強く、そこに込められた力が見て取れるほどに目を瞑り、言った。「これはちょっとしたアドバイスだ。この森を、確かな過程として通り過ぎた君には、迷惑な話かもしれない、失礼な話かもしれない。それでも、言ってもいいかい?」


「もちろんです」


 老人は固く目を瞑っている。もう、少なくとも僕の前では目を開くことはないだろう。はて、老人の瞳の色は何色だっただろう。「決して疑ってはいけないものが確かにあることを、確固たる慢心を持って認めなくてはならないものがあることを、矛盾こそが君が君である証明になることを、矛盾を正そうとすることは君が君をやめようとすることと等しいことを、忘れてはいけないよ。粗を探し、排除し、完璧にするのではなく、責任を持てばいい」老人は口を閉じた。僕はまた老人が口を開くのをじっと待った。老人の言葉を、決して忘れないように頭に刻みながら。意図を考えながら。「今言った言葉の中に、君に馴染むものがあることを願っているよ」


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