『溺惑の森』6,君が帰ってくることを私たちは知っている

 二十一時まであと三十分を切った。もう少しで今日のシフトが終わる。温泉施設でバイトを始めてから今日で三週間ほどが経つ。最初は知らないことばかりでスキップボタンが押されたのではないかと思うほどあっという間に時間が過ぎていった。今ではある程度仕事にも慣れてきて、時計を眺める時間が増えてきたような気がする。


 館内を見回り、やり忘れていた仕事はないか確認した。すると三十分は僕の感覚では順当に過ぎていった。リネン室に戻ると、これからシフトに入る二人の男性がいた。どちらも僕と同年代の大学生だ。中村さんはどこに行ったのだろうと思う。中村さんが来なければ僕は彼らに引継ぎをして仕事を終えることができない。取り合えず二人の会話を裏で流しながら、中村さんがリネン室に戻ってくるのを待つ。


 九時五分になった。


 九時十分になった。


 果てがないと感じてしまうほどに時間が引き延ばされる。彼らの会話は今でも裏で流れている。シフトが変わるだとか、大学が始まったからラストに入るのはきついだとか、時給が上がるらしいだとか、そんなような会話だ。


 九時十五分になる。


「あれ? 九時で終わりですよね?」一人の男性が話しかけてくる。


「そうです。でも、中村さんが。引継ぎもしてないので」


「中村さんならラストまでなんで休憩に行きましたよ。すいません、気が付かなくて。引継ぎは何かありますか?」



 控室に入ると中村さんがいた。「お疲れ様です」お疲れ様ですと返ってくる。施設内にあるレストランに従食を頼んだのか中村さんが座る机の前には空になったお盆が置かれていた。何を食べていたのかまではわからない。きざまれた綺麗な色をしたネギが少し残されていた。


 ロッカーからリュックサックを取り出し、制服から私服に着替えて、店を出た。


「お疲れ、遅かったね」蹴るとやかましい音が鳴りそうな重い扉を開き裏口から出ると、遥がスマートフォンから発せられるブルーライトに目を細めていた。


「眩しいなら見なければいいのに」


「暇だったんだもん。テンちゃんは遅いし」


「それはごめんね。遅くなった」


 遥はスマートフォンを肩に下げていたトートバックに落とし、歩き出した。少し早歩きをして遥に並ぶ。国道沿いの細い歩道を進む。車の通り過ぎていく音が聞こえる。遠くに視点を置くと信号機の色と車のライトがまるでイルミネーションのように見えた。信号が赤になり嘘のような静寂が訪れる。鈴虫の鳴く声が聞こえる。


「どう? もうバイトには慣れた?」遥に誘われて始めたバイトだった。


「それなりに」


「よかった」遥は僕に笑顔を向けてくる。


「ところでさ」


「ん?」遥は僕の顔を覗き込んでくる。暗く曖昧な僕の輪郭を正確にとらえようとしている。僕はその目をジッと見た。


 鈴虫の鳴き声がやけに大きく聞こえる。まだセミの鳴き声もする。ちょうど通り過ぎたマンションに植えられている木にとまっていたようだ。この鳴き方はミンミンゼミだと思う。赤信号が太陽のように輝き、車を動きを止める、そのまま完全に機能を停止してしまったのではないかと思うほどの静寂を運んでくる。鈴虫も何故か鳴くのをやめる。あるいは、僕の脳がその音を排除する。空は黒というよりも紺色に見えた。周りに明かりがあるせいで星は見えない。絶対的な存在感を持った月が見える。半月だった。綺麗に真ん中で割れているように見えるのに、それにはよく見ると奥行きのようなものがあった。直線に割れているのではなく、若干えぐれているようにも見える。誰かがかじった後のようにも見える。ならばそのかじった誰かの歯は横に信じられないほど広く、一本しかないのだろうと思う。赤色の輝きがやみ、緑色あるいは青色の輝きがともった。騒音が耳を襲う。思い出したように鈴虫が鳴きだす。セミが反り立つ崖のように一斉に鳴きだす。僕は口を開く。遥はジッと僕が何かを言うのを待っている。遥と目が合う。



「私のことが?」遥は僕から視線を外した。その視点は斜め下に向けられる。ちょうど歩く足のつま先が見えるあたり。遥は大げさに一歩一歩を出す。普段よりも倍の幅で。「私に彼氏がいることは?」


「もちろん知っている。彼氏の名前は知らないけれど」


?」遥はへその下あたり優しくさする。


「さあ」


「なら、君はそのことを今知った。どう思う? 私になんて言う?」


「もしそうだとしても、僕は君にとやかく言う権利を持ち合わせてはいないよ」


「そういうのを世間一般では無関心というらしいよ」


「随分と乱暴だね。人は何でもかんでも型にはめたがる」首のあたりを掻く。鈴虫の鳴き声が聞こえる。セミの鳴き声が聞こえる。「で、本当なの?」


「嘘に決まってるじゃない。ばかなの?」


「馬鹿だよ。僕は」


 遥は珍しく大きな声で笑う。心底面白いといった様子で。「仕返し。素早い行動を意識して」


「確かに今のは早かった。とても」


 このまま、濁してくれるのなら、遥が濁すという選択をしたのなら、それでいいと思う。それはいつか溶けて、馴染んで、どこに行ったのかもわからなくなるものだから。僕は何も言わずに遥のペースに合わせて足を進める。駅にもうすぐ着く。そこから僕と遥は別れる。その駅はちょうど僕と遥の住む場所の中間に位置していた。音は、何も聞こえない。遥の声だけを僕は待っている。


「君は、答えを待っている」それは問いにはなっていなかった。「なら、答えはノーだ。だって私には彼氏がいるんだから」


 遥の言葉を何度も何度も頭の中で咀嚼する。駅が放つ人工的な明かりが目に入った。それは段々と確実に近づいてくる。一歩進むごとに大きくなっていく。心臓の鼓動が大きくなる。


「そっか」その声は夜に響いた。と、思う。


 駅の改札につく。「でも、好意を伝えられるというのは個人的にはすごく嬉しいことだと思う。テンちゃんにそう言ってもらえたことはすごく嬉しい。ありがとう」

「それは良かった」改札を通る。右と左、僕らの進む道が今決裂したように、あるいはつながる余地を持っていた道のように、分かれている。僕らは別の電車に乗る。遥は右のエスカレーターに乗り、僕は左の階段を上る。


「テンちゃん」左右の階段の間で名前を呼ばれた。遥だけが使う名前を。「帰ってきてよ」


 僕は笑う。「どこに行くの? 僕は?」


「わからない。でも、言わないといけない気がした」遥は凛とした表情をしていた。いまいち、僕に向けられた言葉と表情が一致しない。


「もし」声が上ずった。「もし、僕がどこかに行ってしまったとしても、それは遥のせいではなくて。というか、誰のせいでもなくて。それは今までの蓄積のようなもので、何か原因があるとするなら、僕がその行く先を知ってしまったからだと思う。だから、あえて言うなら僕のせいだ」


 遥は優しく笑った。今まで見たことがないような含みを持った笑顔で。その笑顔を見たのは僕が初めてで僕が最後なのだと思う。大罪を犯した息子を、無条件に許す母親のような、そんな笑顔を見るのは。「君が帰ってくることを私たちは知っている。耕も、泉も、朱鳥も」


 斎藤さんとも、遥は交流があったのかと、そんなことを思った。


 僕は、部屋を出た。


     *


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