『溺惑の森』5,僕は、見てるだけだ
「おい、聞いたか? あのこと?」
泉が顔を突き出してそう言った。一限の英語の授業だった。泉は当然のように僕の隣に座る。泉が遅刻してこないのは珍しい。一限だというのに髪のセットもしっかりとされていた。この後、彼女とどこかへ出かけるのだろうか。
「あのことって?」
スマートフォンは相も変わらず壊れたままだ。僕は情報を僕の手の届くところからしか取り入れることができない状態だった。
「仲嶋先生、亡くなったってよ」
一瞬、何を言われたのか理解ができなかった。仲嶋という名前は僕の知る限りだと臨床心理学と行動心理学の講義を担当している教員以外にはいない。僕もその講義を受けている。「心理の仲嶋?」
「そう。心理の仲嶋」泉は目を真ん丸として答える。「学校からメールがあったんだよ。だから仲嶋が担当してる講義はとりあえずしばらく休校になるらしい」
亡くなった。つまりは死んだということだ。あの先生が。最後に仲嶋先生と会ったのはというか見たのは、おとといの行動心理学の講義だ。あの時、特に仲嶋先生におかしなところはなかったように思える。二日しかたっていない。事故だろうか。まず一番に考えられるのはそれだと思う。
「どうしてなんだろう」僕は自分自身に問いかけるように言った。
泉が答える。「そういうことは何もメールには書いてなかったよ。まあ、書くわけないよな」泉自身も、この出来事をどう解釈すればいいのか戸惑っているように見えた。知っている人物が死んだ。そのことは間違いない。だからと言っても、先生と生徒の関係でしかない。ましてや大学の。関係はあってないようなものだろう。特に生徒と仲良くするような先生でもなければ、僕らも先生と積極的に関係を築こうとするような性格でもない。このまま、川に流したぶどうジュースのように、川に溶け込み馴染みどこに行ったのかわからなかくなるまで待つべきだろうか。問題は、川に流したぶどうジュースなんかよりもよっぽど、それはしつこいだろうということだ。
英語の授業を終え、泉と別れた後でも僕は仲嶋先生のことを考えていた。考えていることを具体的に言葉にすることはできそうになかった。ただ、おとといに見た仲嶋先生の姿を想像し、その人物が今現在この世のどこを探したとしても見つかることはないという事実を眺めていただけなのかもしれない。関係の希薄な人物の死について考え何かを見出そうとする行為は、何か途轍もない罪に問われるのではないかという不安が僕を襲った。その人物について考えることそれ自体が、人を殺す以上の罪なのではないのかと。
今日は一限の英語の授業で大学は終わりだった。夕方ごろからバイトがあるが、それまでの時間は自由だ。
「田中君?」
大学の廊下を特に意味もなく歩いていると、名前を呼ばれた。高く、まだ幼さのようなものが感じられる女性の声だ。少なくとも僕の周りに僕に話しかけてくるような人物はいなかったような気がする。突然見えないところからパンチが飛んできたような気分だった。ボクシング選手なんかはこのような経験を頻繁にしているのだろうか。
声の方へ顔を向ける。少し垂れた丸い目と僕の目が合う。首の辺りで揃えられた綺麗な黒髪は毛先の部分だけがくるっと内側を覗いていた。化粧は薄く、化粧に詳しくない僕には具体的に何をしているのかさっぱりわからなかった。化粧をしているということがうっすらと分かる程度だ。服装は黒のスキニーパンツに白のパーカーだった。パーカーのサイズが少し大きめで男が同様のサイズ感で着るとだらしなく見えそうだったが、それがよく似合っている。その女性は昨日の合コンに来ていた泉の彼女の友人だった。名前は斎藤朱鳥。
「斎藤さん?」
「そうです。覚えててくれたんだ」
「そりゃあ、昨日の今日だし」
斎藤さんは少し大げさに笑う。それでも品のようなものが見えて、口に手を添えてくすくすと笑っているかのように感じた。「確かにね」
「何か用?」
「昨日がさちょっと変な感じで終わっちゃったから。もう少し話したいと思ってたんだ。田中君と」
「僕と」
「そう。田中君と」斎藤さんは楽しそうに僕の顔を指さした。「この後空いてるなら喫茶店にでも行かない? 私朝ごはんもまだなんだ」
「いいよ。夕方のバイトまで何をしようか困ってたところだから。それに僕も小腹が空いてきた。一限の日は朝ごはんを食べている余裕なんてないからね」
「朝、苦手なんだ」斎藤さんは笑う。両頬に垂れる黒髪が揺れた。
「そうでもないんだけどね」
「何だそれ」斎藤さんは、よく笑う。
大学から徒歩で二十分ほどのところにある小さな喫茶店に入る。細い路地を進んだ先の隠れ家のような場所だった。チェーン店ではなく聞いたこともない店名だった。
「こんなところに喫茶店があったんだ」喫茶店の入り口に取り付けられたベルがカランカランと鳴った。とても軽い音だった。
「知らなかったでしょ?」からかうように斎藤さんは笑った。「大学の近くだとどうしても混むからね。探したんだ」
「なら、僕もこの店のことは他の人には言わない方がいいね」
「別に言ってもいいよ。大抵の大学生には二十分も歩く体力はないから」斎藤さんは唇を一直線に閉じて横目で僕を見てくる。その目は特別丸みを帯びているように見えた。冗談を言っているのだろう。
「僕もそれには同意だよ。みんな歩きたがらない。一緒に歩いてくれる人は、いい人だ」
「いい人」
「そう」
「それはどんな人?」斎藤さんは僕の目を掘り下げてその先にあるものを見定めようとしているようだった。蓋を外され、自分の中を覗かれる気分はあまり悪いものではない。やはり。
「さあ。わからない。いい人、そう呼ぶのが多分、一番正しい」
斎藤さんは僕の瞳をじっと見た。あるいはその先にある景色を。僕の瞳に映る自分の姿を。斎藤さんは僕の瞳の奥に何を見出したのだろう。何かを探していたのだろうか。店員さんが来たことで僕はその視線から解放される。店員さんに案内され座席へと向かう斎藤さんの背中を追った。
「何も探してないよ」席に着くと一工夫された面白い形をしたメニューを開きながら、斎藤さんはそう言った。視線はメニューに向けたまま、声だけが確かに僕に届いた。「見てただけ」
「僕もそうだよ。僕は、見てるだけだ。出来ることなら、それ以上のことはしたくない」僕もメニューを開く。
「じゃあ、いい人ってどんな人?」
「僕がずっと見ていられる人なのかもしれない」
「なら、ディス君が言ういい人って言うのは、ディス君の視界にとどまり続けるすべての人のことだ。みんな、勝手にいい人じゃなくなる」
「それは言いすぎかな。もっと曖昧だし、小さいものだよ」メニュー表を閉じる。斎藤さんの方を向く。僕らは対面で座っていた。目が合う。「ディスは流石にないでしょ?」笑い合う。
「私が一番知的な呼び方をしたでしょ?」
「想像力が足りないけどね。もっとこう、はっとさせられるものがいいな。言語を変えただけじゃつまらない」
「厳しいなあ」
僕はタマゴサンドを斎藤さんは小豆トーストをそれぞれ頼んだ。しばらく待っていると注文していたものが運ばれてくる。飲み物はお互い水だった。斎藤さんはパーカーの袖をまくった。この時期、夏の出口に片足を踏み入れたくらいの時期ではまだパーカーは暑いのではと思ったが、斎藤さんは暑さを微塵も感じていないようだった。それにパーカーだって見た目ほど生地は厚くないのかもしれない。視線を下げてタマゴサンドを口に運んだ。一日の一番最初に口に入れるものには、それが何であろうと、やはり独特の鬱陶しさがあった。それを無視して口の中のものをしっかりと噛み続けると、それは段々と消えていった。
水を一口飲む。斎藤さんは口の端についたパンくずを親指で落としている。「そういえばさ、泉君大丈夫だったの?」
「泉の彼女さんから聞いてないの?」僕は昨日のことを思い出す。最後に泉が逃げたこともあってか、なかなかに二人は拗れていた。泉が悪いと言えば悪いのだが、原因は僕らにもあったので耕と僕は泉には内緒で泉の彼女に謝りに行ったのだ。納得したというよりは、怒りが霧散したような感じだったと思う。そして深夜には泉から仲直りできたという電話が来た。「僕と耕で謝りに行ったんだ」
斎藤さんは喫茶店だということなどお構いなしに笑った。それでもその笑い声は騒音には入らないだろう。そういう何かがある。「それはご苦労様だったね。というかさ、名前知らないの? 泉君の彼女の」斎藤さんは名前を知っているだろうに、わざとらしく「泉君の彼女」と言った。
「いや、何回か名前を聞いたはずなんだけど。僕は人の名前を覚えるのがすごく苦手なんだ。多分、大学生になってから」
「それは、時期が関係するの? 何か、頭を打ったとか」
「そんなことはないんだけど、どうしてだろう」
「じゃあ、私の名前を一回で覚えてくれたのは? 偶然?」
「それは、わからないな」わざとらしく言ってみる。
斎藤さんはまた楽しそうに笑う。「いいよ、すごく丁度いい」
「すごく丁度いい」
「うん、そうそう。それにしても、じゅうくんは意外と冗談を言うタイプなんだね」
「僕自身はむしろ好んでそういうことを言う人間だと思ってるんだけどね」
お互い、残りのトーストを食べ進めながらなんてことのない会話をつづけた。前期の単位はどうだったか、バイトは何をしているのか、今付き合っている人はいるのか、いないのなら気になっている人はいるのか。お互い、相手について知っていることがない分そういったありきたりな話題を提供し続けた。それでも、その会話は楽しいものだった。斎藤さんもそう感じてくれているように感じた。
喫茶店を後にし、僕と斎藤さんは並んで駅に向かう。
「また、じゅうくんと話したいな。今度はどこか遊びに行こうよ」
「いいよ。僕は基本的に暇だから」
「じゃあ、連絡先教えてよ」
僕はリュックサックの中からメモ帳を取り出し、そこに電話番号を書き、ちぎった。「これ、電話番号。今スマホ壊れちゃってるんだ」
「ありがとう。メモ帳、借りてもいいかな」僕はメモ帳とボールペンを渡す。斎藤さんは書きやすい体勢なのか少し体をひねりながらメモ帳に何かを書いた。「はい、これわたしの電話番号。スマホ直ったら電話してね」
「わかった」僕は受け取ったメモ帳を丁寧に閉じてリュックサックに戻した。「ところでさ、どうして僕と話したいと思ったの? 合コンが終わった時点のところで」
僕がそう聞くと、斎藤さんは水に打たれたような顔をした。「あー、それはね。聞いちゃう?」苦笑いをする。目をきょろきょろとさせて、迷子の子どものようにも見えた。「顔がタイプだったの」そう言って、短く舌を出して、わざとらしく笑った。
僕もこらえきれずに、笑った。
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