『溺惑の森』4,だからなんじゃないかな?


 目が覚める。僕は自分の部屋にいた。壁に寄りかかり、腰に悪い体勢で眠っていたらしい。心に設置されている器のようなものが満たされているような感覚がある。まだ夢の中にいるような感覚がある。とても心地がいい。しかし、それは段々と離れていってしまう。口が乾いている、腰が痛む。首も動かしにくい。体中の肌がぽろぽろと落ちていくような感覚がある。体にひびが入る音を聞きながら僕は必死に体を動かし、立ち上がる。


 窓から差す日光はとても輝いていた。それは日中の日差しを思わせる。おかしい。僕が家に帰ってきたのは少なくとももっと日が落ちた時間だった。壁に賭けられた時計を見る。十三時三十分。時間が戻っている。いや、ほぼ丸一日寝ていたということか。もしくは、それ以上。部屋の外、リビングの方からは母親の声がした。僕は部屋を出てキッチンに向かう。口が乾燥して息をするにも不快感がある。


「あれ、家にいたの?」母親はパソコンから目を離すと僕にそう言った。


「寝てた。今日、何曜日?」


「本当に? どこで寝てたの? 部屋にはいなかったでしょ?」


「あー、うん。夜中に帰ってきたんだ。それで、何曜日なの?」


「朝も確認したと思うんだけど」と母親はどこか不満げだった。僕はどうやらこの場所にはいなかったようだ。あれは夢なんかではなかったということだ。「火曜日だよ」僕はほぼ丸一日眠っていたようだ。火曜日の講義は十五時前から始まる四限だけなので大学の講義をさぼることにはなっていないようだった。


 そういえば、僕はあの森に訪れたことをしっかりと覚えている。老人と会話をしたことも覚えている。それでもやはり、何か記憶が欠落しているように感じる。何と言っても丸一日も眠っていたのだ。老人と会話をしただけだなんて、割に合わない。夢だからと言われてしまえばそれまでだが、僕は確かにその場所に行っていたのだ。自分の、あの象徴的な部屋からいなくなって。あるいは出ていって。


 冷蔵庫を開き、麦茶を取り出す。透明なコップに注いで一気に飲む。頭が破裂しそうなほどに痛んだ。着替えて、髪形など身だしなみを整えて、大学へ向かわないとまずい時間だ。大学までは一時間弱かかる。


 部屋に戻りクローゼットから、だいぶ色の落ちたジーンズと紺のティーシャツを出す。袖を通して洗面所に向かう。蛇口をひねり流れる水を割るように頭を入れる。髪の毛を十分に濡らしタオルで水気を取る。ヘアオイルを髪になじませ、ドライヤーである程度の形を作りながら乾かす。ワックスを少し取り手のひらで広げ髪につける。細い束の配置をある程度鏡と向き合いながら定めて洗面所を出る。通学用の紺色と青色の中間の色をしたリュックサックを背負い家を出る。大学に向かう。


「珍しいな、ギリギリなんて」耕は机に突っ伏しながらくぐもった声を出す。


「不思議なことがあったんだ」


「どんなことだ?」



「それは不思議だなっ」耕はそう言って大声で笑った。「あーそうだそうだ。今日、合コンだからな」


「突然だな」生憎予定は入っていない。


「だってじゅうスマホ壊れてるんだろ? 連絡しても反応ないし。修理にはまだ時間がかかるのか?」


「多分」修理には出していない。壊れたままのスマートフォンは僕の部屋の机の上にそのままの状態で置かれている。「でもわかった。行くよ。合コン」


「いつからじゅうは自分が選択肢を持っていると錯覚していた?」


「錯覚じゃなくて事実だろ」


 耕は大げさにおでこに親指の付け根の辺りを当てながら笑う。


 火曜日の四限。ゼミの講義内容は、課題として出されていた論文を読み、レジュメを作ってきて発表するというものだった。一つの論文を数人で分けて取り組むので一人当たりの負担はそこまで大きいものではなかった。おまけに今日は僕の発表の日ではない。肘をついていれば終わる講義だった。








 合コンは客観的に見れば悲惨なものだった。参加した女性は泉の彼女の友人たちだった。泉が彼女に頼みこみ人数を揃えてもらったらしい。耕は見事に空振り三振。誰も誘えなかったようだ。つなぎ役として泉が、そして僕と耕、女性も三人で、三対三という構図だった。最初はうまくいっていたと思う。僕ら三人は特別コミュニケーションが得意というわけでもないが、だからといって苦手といわけでもない。会話もスムーズに時々大笑いをしながら三十分ほどが過ぎた。場が温まってきて、雰囲気も良くなってきたところであくまでつなぎ役だった泉が一歩踏み出した。彼女もいるのにだ。おまけに三人の女性は泉の彼女が集めた。泉の目の色の変化を敏感に察した鈴木さんという長い黒髪を持った女性が泉の彼女へと連絡をした。泉の彼女はそれから一時間と経たずに僕らが談笑する場に来た。それからは四対三。実質四対一と観客二人という構図が完成してしまった。傍から見てみれば普通に会話をしているとしか見えなきだろうが、その中にいる僕らが感じていた空気は底なし沼に嵌ってしまったと錯覚するほどにどろどろとしたものだった。泉はすっかり委縮し、耕はひたすらに酒を喉に流し続けていた。泉の彼女が来た時点で完全な観客に徹すると決め込んだ僕は存外楽しかった。そして最後は、ずたずたに千切れ見えるか見えないかそのくらいの細い糸だけが場を保っていた状況を耕が盛大に確かな切れ味を持って断ち切りお開きとなった。今は耕と彼女から逃げおおせた泉と三人であてもなく夜道を歩いていた。僕含め家に帰るつもりの人間はここにはいなかった。


「それにしても、今日の三人は苦手なタイプだったか? じゅう」耕が覗き込むように僕に問いかける。泉はスマホで彼女と通話をしている。通話だというのに、頭をへこへこと下げて。クレームに対応する店員のようにも見えた。あるいは、クレームなんかよりもよっぽど質の悪いものを受けているのかもしれない。自業自得ではあるが。


「どういうこと?」


「いや、前にも言ったろ? じゅうはなんとなくだけど女の子と話しているときの方が落ち付いてる気がするって。でも今日は、なんか居心地悪そうだったからさ」

「そりゃ初対面だったから。ぎこちない部分があったって普通でしょ? でも確かに、同性よりは異性の方が居心地の良さを感じているかもしれない」僕の左側を歩く泉が耳元からスマートフォンを下げた。通話を終えたようだ。大きなため息をついた。「というかさ、耕。僕が女の子と話しているときは落ち着いてるって言うけど、僕そんなに女の子と話してるかな?」


 耕はセットされた髪をガシガシと掻いた。「うん、まあ、遥さんくらいだろうな。頻繁に話してるところを見るのは」


「だからなんじゃないかな? 正直今日も、ぎこちなさはあったかもしれないけど、それでも心地が悪いとは感じていなかったよ」


 耕は突然みぞおちを殴られたかのように目を見開いた。泉も似たような表情をしている。卵をかき混ぜるみたいに、僕の今の言葉を混ぜ込んで意図を見つけ出そうとしているようだった。


 しばらくして、耕は夜だというのにお構いなしに大声で笑った。遅れて泉も笑う。僕も、笑顔を地面に落とすように顎を引いて笑った。


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