『溺惑の森』3,精密に作られた銅像の目を一方的に眺めているような
すべての講義を終えた僕はまっすぐ家に帰った。部屋の扉を開く。窓から差し込む細い明かりが部屋を微妙に照らし、それがかえって醜さのようなものを際立たせているように感じた。畳まれた布団の上に座り壁を背もたれにする。
耕は今頃、合コンの数を揃えようと躍起になっている頃だろうか。色々な人に電話を掛けたり。泉は何をしているだろう。あんな格好をしていたから家の中で怠惰に過ごしているかもしれない。彼女が家に来て、必死に部屋を片付け身だしなみを整えているかもしれない。あるいは、彼女と二人で怠惰に過ごしているかもしれない。遥は彼氏とどこかへ出かけて、その先で大学の食堂なんかよりもおしゃれな場所で夕食を食べているだろうか。夕食にはまだ早い時間か。さて、僕は何をしようか。この部屋で。
部屋を眺める。部屋の明かりはつけていない。薄暗い空間の中で、腰を曲げて、肩甲骨を壁に押し付けながら、顎を胸の方に向ける。自分が住民のいなくなった部屋に取り残された人形なのではないかと思えてくる。僕を迎えに来る誰かは存在しないのだ。忘れ去られ、朽ちていくだけ。そんな風に感じる。よくある、草木に浸食された世界を想像してみる。人間の整備が行き届かなくなった世界。蔦が伸びてきて、僕に巻き付く。その時、僕の友人たちは何をしているのだろう。耕は、泉は、遥は、何をしているのだろう。そこにはそれぞれの関係があり、僕は一部の関係の先にある。僕が知るのはその部分だけだ。及ばぬところが多くある。それは至極当然のことであり、どこか嬉しいことのようにも感じる。なぜか、そんなことを考えると僕は嬉しくなるのだ。楽しくなるのだ。幸せな気分になるのだ。大好きな音楽が後ろで流れているような。曖昧な情景が流れてくる。それが、なぜかものすごく幸せになる要素になっている。僕と彼ら、僕と彼女の、その部分だけが蔦に巻き付かれ見えなくなる。やはりこの部屋は僕にとって象徴的な場所だ。自分自身に伴うあらゆる痛みを感じる場所。この場所に入れば、僕は僕自身を見失わないで済むのだ。
何かに迫られるように部屋を出る。そのままの勢いで家を出る。目の前には、森があった。その森はあまりにも大きく、地平線のように広がっていた。その森は何かを雄弁に語っている。僕に何かを問いかけている。こんなことが以前にもあったことを思い出す。目が覚めると病室にいたあの日、僕はこの森を見た。どうして忘れていたのだろう。あるいはただの夢だったかもしれない。今のこの景色も。だが、僕は家の扉を開いただけだ。眠ってなどいない。頬をつねってみると、痛みはなかった。でも夢ではない。これは間違いなく現実のことなのだ。
陽炎のようにゆらゆらと空間が揺れて、一人の老人が現れた。
老人は被っていたベージュ色のキャップを取り薄くなった頭頂部を見せるかのようにお辞儀をした。「初めまして、田中十くん」ベージュ色のスキニーにベージュ色のティーシャツ、そしてベージュ色のスニーカーを履いている。
話そうとしてもうまく口が回らない。心臓は強く脈うつ。明らかに動揺している。動揺している自分と、その自分を遠くの方から眺めている二人の自分が存在した。この老人は誰なのだろう。なんと言葉を返したらいいのだろう。あらゆる疑問がごちゃごちゃにそれでいて確実に絡み合い、見失う。何をしているんだ。落ち着け。深呼吸をして、状況を見定めるんだ。
「大丈夫、ゆっくりでいいよ」老人は笑った。老人の声は細く心地いい。耳が好んでその声を吸い込んでいるようにも感じられた。老人の心の凪が、僕の中にも流れ込んでくる。よくわからない。理解し難い。自分の意識とは違う場所で、自分自身は段々と落ち着きを取り戻している。ひどく気持ちが悪い。
「委ねた方が、楽になるよ」
言いようのない恐怖感が胸の中で渦を巻く。あと一歩進んでしまえばあるラインを越えてしまいそうだった。狂ってしまいそうだ。「だい、じょうぶ。です」必死に声を絞り出す。
「そうか。なら私は少し話をさせてもらうよ。君に会いに来たんだ。君は以前にもここに来ただろう? その時はすぐに帰ってしまったけどね。でも君は、再びこの森に来た。だからね、誘おうと思って。森に来ないかい? 田中十くん」
老人は僕の名前を呼んだ。僕に挨拶をしたときと同じように。なぜこの老人は僕の名前を知っているのだろうか。顔をじっくりと見てみても、記憶の断片に引っ掛かるようなものは何一つとしてない。この老人は僕を見ているようで見てもいないことにも気が付いた。視線は確かに僕と老人との間で交わっているにもかかわらず目が合っていると感じない。精密に作られた銅像の目を一方的に眺めているような。老人は僕の知らない何かだけを見ている。
「誰に。話しかけているんですか」声は少しづつ落ち着きを取り戻してきた。そのことに安堵を覚えた。
「君だよ、田中十くん」老人は僕の胸の辺りを指さす。やはり、老人は僕を見ていないように思える。あるいは僕の中にある何かと目を合わせている。それは僕の一部であることは間違いないけれど、僕自身ではない。
「僕はそちらに行ったとき、何かを失うのでは?」僕には確信があった。
「それはそうだよ。この森の中では、君個人のものよりも、私たち森の民共通のものが重視される。入れ替わると言ってもいいかもしれないね。表に出るものが変わるんだ。もし君が、今表に出ているものを捨てたいと思ったのなら、君は踏み出さなければならない。一歩踏み出し、自分自身でこの森に入らなければならない。私たちはもう、そちらには行きたくない。君と私たちの間には確かな隔たりがある。それを越えなければ、君は私たちの言っていることを理解することはできないだろうね」
底知れぬ闇に触れている感覚があった。僕はきっと、森に入ってしまえばもう戻れない。それでも、わけもわからず森に惹かれている自分がいる。体のどこか一部分だけでも力を抜いてしまえば、僕は一歩踏み出してしまう。
「安心していい。戻れるよ。ちゃんと。行ったり来たりして考えればいいさ。時間は無限にある。ああ、無限にね」
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