『溺惑の森』2,でも単位が取れなくなる


ー」


 大学の廊下を進んでいると、名前を呼ばれた。足を止め後ろを振り向く。


「耕か」同じ学部の畑耕は迷彩柄の軍パンにダボっとしたオーバーサイズの白いティーシャツを着ている。スパイラルパーマのかかった髪の毛は実験に失敗し爆発に巻き込まれた博士の髪の毛にも見えた。「どうかした?」


「どうかしたも何も、お前なんで連絡返してくれないんだよ」


「あー、ごめん。スマホ今壊れてるんだよ」


 耕は頭を掻いた。「なら仕方ないかー」


「で、何の用があったの?」


「ん?」


「僕に連絡したんでしょ。僕は携帯がなかったから知らなかったけど。今知った」


「いや、大したことじゃない。少し暇だったから話し相手になってもらいたかったんだ」


「僕に?」


「そうだよ。じゅうと話すのは気が楽なんだ。あー、別に悪い意味じゃないぞ。落ち着くとか、居心地がいいとか、そういうことだ」


「男に言われても嬉しくないね」


「じゅうは、なんと言うか。男を嫌ってるよな? というか苦手?」


「そう?」自分自身そんなようなことを思ったことはなかった。「女好きってこと?」


「んー、そうでもないんだよ。でも、男と話している時よりも女と話しているときの方が、じゅうは安心しているような気がするんだ。だからと言って、じゅうは別に遊んでばかりってわけでもないだろ? というか、遊ばなすぎだ。もっと遊んだほうがいい。大学を卒業したら沢山働かされるんだから」耕は自分の話していることが微妙にずれたことに気づいてはいないようだ。


「遊ぶって言ってもねー。僕にはいまいち想像がつかないんだよ」軽く笑いながらそう返した。


「なら今度合コンに来いよ。習うより慣れろだ」


「本当に合コンなんてしてる奴がいることにまず驚いた。しかも割と近くに」


「じゅうが知らないだけだよ。それに合コンは確かに珍しいかもしれないけど、他大の知らない男女で遊んだりすることは割とあるだろ。一人がつなぎ役になったりしてさ」


「かもしれない」


「そういうことだ」耕は楽しそうに笑う。僕も笑った。


 耕と別れ、僕は次の講義がある教室へ向かう。次は痒い場所を掻かずに周りを撫でるような内容の臨床心理学の講義だ。人の心は直接触ることなんてできないのだから仕方がない。


 教室の一番前の椅子を引き、座る。紺色と青色の中間の色をしたリュックサックからパソコンと文庫本を取り出すと、そのリュックサックはぺらぺらの紙のようにへたり込んだ。リュックサックを隣の椅子に置く。一番前の席だし、座ってくるようなもの好きはあまりいないだろう。


 文庫本を開く。僕はその世界に引き込まれる。僕は、本の世界にのめりこむと何時間も時間が飛ぶことが儘にあった。本の内容はしっかりと覚えているし、体勢を何度か変えたり、腰をたたいたりしたことも覚えているのにだ。そして、そんなときは決まって悲しい気持ちになる。何か大切なものを損なってしまったような。


「よ、ちゃん」


 パチッ、と部屋の中が光に照らされる。僕のことをテンというおかしな呼び方で呼ぶのは一人しかいない。


「はるさめ」僕は時々彼女のことをそう呼ぶ。


「あのさー、その呼び方はやめてって言ってるじゃない」遥小雨はるか こさめは、ミルクティー色の髪をかき上げながら言った。左手には大きめのトートバッグを持っている。少し色落ちしたデニム生地のスキニーに白のティーシャツを入れ、細身のジャケットを羽織っている。オフィス街を十分ほど歩けば、三人くらいは同じような服装の人と出会いそうだ。「OLみたいな服装って思ったでしょ」


「偏見だけど」


「私も偏見だよ」遥は僕の斜め後ろの席に座った。机にぺったりと張り付き、顔を寄せてくる。ジャケットはもう脱いでいた。「朝のテンションでこういう服着てみたくなるんだけど、動きづらくて後悔するんだよね」


「その時着たいと思って着たなら別にいいじゃない」


「私もそう思うよ。ところでテンちゃん、先週はこの講義受けた?」


「受けたけど?」


「レジュメある?」


「あるよ。でも先生に言ってもらえばいいじゃない」


「私先週でこの講義休むの四回目なんだよね。先生にもう渡さないって言われちゃって」


「要領がいいね」僕はパソコンケースの中から雑に入れられたレジュメを取り出す。


「はい、どうぞ」


「褒め言葉として受け取っておくよ。どーもー」


「褒めてるんだよ」


 文庫本に視線を戻す。文字を追うだけで内容は全くと言っていいほど入ってこない。後ろからはパシャパシャという音がする。視線の外から静かにレジュメが返される。本を読んでいる僕を気遣ってくれたらしい。


 しばらくすると教室に先生が入ってくる。その後ろから少し身をかがめた男性も入ってくる。ダボっとしたスウェットパンツによれたティーシャツを着ている。その男性は僕を見つけるといそいそと近づいてくる。隣の机に座ってくる。机は三人掛けのものだ。


、おはよ」平田泉は潜めた声でそう言った。


「自分の名前が何か忘れそうになるよ」後ろで笑い声が聞こえた。遥が笑っているのだろう。笑い声で気づいたのか泉は遥にも挨拶をする。


「こんな服着てくるんじゃなかったな」遥がいるからか、そんなことを言う。


「別にいいじゃない。泉には彼女だっているんだから」僕は泉に言った。


「そういうことじゃないんだよ。なんて言うんだ? 居心地が悪いというかさ、自意識過剰と言われればそうだろうけどね。鈍感になりたいとは思わない」


「なのに、寝間着みたいな服を着てくる」


「みたいじゃなくて、寝間着」


「あそ」


「みんなのことがわかれば楽なんだけどな。考えていることとか。そうすれば、この服を着て外に出ても安心できる瞬間ができるのに」


「そうかもしれない」僕は言う。


「そうじゃないかもしれない」泉は言う。


「僕も、そう思うよ」


 チャイムが鳴り、講義が始まる。配られたレジュメを眺める。先生の話している内容のほとんどは耳に入ったままどこかへ消えてしまう。それでも、都合よく気になる部分はきっちりと脳に触れる。多くの場合、不快なものが。これは僕が個人的に感じていることだが、心理の内容を学ぶときは自分という存在を忘れた方がいい。あるラインを何かの拍子に越えてしまったときに、気に触れる。それはおそらくだけど、一生必要としないものだ。触れないに越したことはない。


 自分という存在を客観的に眺め、それについて考える。ある所から、自分を見失い始める。行き場を失った何かは不安に負けて、自分に戻っていく。もし仮に、仮にだ、その何かに行き場があったとしたら、気に触れずに済むのだろうか。僕は、どうなるのだろうか。


 周りに目を向ける。僕が座っているのは前の席だということは一度忘れて。隣の泉はレジュメに線を引いている。その後はすぐにスマートフォンに視線を戻した。遥は小さく手を振ってくる。それより後ろの席に座る生徒のほとんどは先生の話を特に聞いていないように見える。一対一で話しているわけではないのだから、熱心に目を見て話を聞くというのもおかしいことではあるが、それにしてもだ。きっと後ろから見てみるとまた違った景色が見えることだろう。読書をしている人だったり、ワイアレスイヤホンをつけてスマートフォンで映画やらアニメなんかを見ている人だったり、単に寝ていたり。僕は前を向く。先生と目が合った。先生は特に嫌な顔もせずに話を続ける。先生も先生だ、と思う。この時間、この場所に来たらやらなければならないことを遂行しているに過ぎないのだろう。先生は、黒い縁の眼鏡と硬そうな白髪が特徴的な六十代くらいの男性だ。いつもほんの少しだけ視線が下がっている。気分がすぐれないというよりは、その体に染みついたもののように見える。この人は、これからどのようにして生きていくのだろうと思う。六十歳まで生きた人の平均寿命は確か二十年から三十年の間くらいだったように記憶している。あやふやだが、見当違いということもないだろう。つまり先生はあと二十年くらいはおそらく生きるだろうと考えられる。彼は、どのようにして生きていくのだろう。想像がつかなかった。二十年やそこらしか生きていない僕に、何が想像できるというのだろう。しかし、僕が仮に、もう少しで死ぬということがわかっていた場合、先生と僕の立ち位置はどのようになるのだろう。僕は先生の背中を見ているのだろうか、それとも、先生が僕の背中を見ているのだろうか。僕の答えは、先生は僕の背中を見ている、だ。年齢と言うのはあくまでその地点に至る指標のようなものだと思っている。その地点に大体その年齢くらいで到達し、精神は肉体に追い付こうと躍起になる。急速に追いつくのだと思う。蓄積ではないと思う。そういうものは。


 そのことと同じように、僕はまだ子どもで、先生と生徒の間には確かな隔たりがある。交わることはない。人間同士のつながりを示す糸は重力には逆らえない。少なくとも、今は。まだ。そのことを少しだけ、寂しいと思う。嬉しいと思う。


 講義が終わり、泉は逃げるように帰っていった。その様子を僕と遥は笑って眺めた後、二人で食堂に向かった。僕はカレーと言えばというような味のするカレーを食べている。遥はチキンライスとスープとサラダの定食を食べている。チキンライスだけ、というのは僕からしてみれば違和感がある。卵をのせてしまえばいいのに。


「心理学の講義ばかり受けていると、気がおかしくなりそうだよ。理屈は大体の場合、損得勘定だ」カレーの味が一瞬なくなったように感じた。


 遥は公園で遊んでいる小学生を眺めているかのような顔をしている。「突き詰めればそうなるんじゃないかな」


「なら突き詰めたくないね」


「でも単位が取れなくなる」遥はしてやったりとでも言いたげだった。


「それは困るな」水を飲む。


 僕と遥は黙る。食器とスプーンがぶつかる音だけが響いていた。周りにも学生は多くいるにもかかわらず、それは全くと言っていいほど僕には干渉してこない。


 昼食を終えたらまた講義がある。今度は行動心理学の授業だ。人の心理を追及してそれが何になるのだろうか。自分で選んで進んだ道であるのにそんな考えがよぎってしまう。単純な興味を満たすだけでよかったにもかかわらず僕は自分と重ね、遠くから眺めてしまった。他人にも、同じように。


 カレーの最後の一口を口に含む。遥のスマートフォンが光る。「彼氏から連絡来たから行くね」スープをくいっと一気に飲み干し遥は立ち上がった。


「わかった。僕もそろそろ講義の時間だ」


 遥は足早に食器を片付け、食堂を出た。僕もゆったりとした動作で食器を片付け食堂を出る。

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