『溺惑の森』1,この部屋は僕にとって象徴的な場所だ




 ――僕が最初に捨てたのは携帯電話だった。スマートフォンと言った方が正しいか。何かの拍子に、僕の両手を縛る鎖がはずれたのだと思う。きっかけは、間違いなくそれだった。


     *


 右手に持つスマートフォンを力いっぱいコンクリートに投げつけてみた。試しに。すると、なぜか心が晴れるような気がした。転がるスマートフォンを拾い、コンクリートに膝をつく。そして何度も、何度も、たたきつける。画面にはひびが入り、破片は僕の手のひらを容赦なく突き刺した。血が吹き出る。体中を切り裂かれているかのような痛みが頭に届く。叩きつけた拍子に小さな砂利が手のひらに食い込む。異物の侵入に苛立ちを覚える。さらにたたきつける。スマートフォンの破片は手のひらに深く深く食い込んでいく。血が吹き出る。手のひらから力が抜けスマートフォンが落ちる。唇が細かく震える。意識が朦朧とする。世界が大きく揺れて、景色が変わる。目の前には森がある。

 周りにあった住宅やとめてあった車は姿を消し、視界は森に支配される。その森は何かを雄弁に語っている。僕に何かを問いかけている。右手を見てみる。手のひらには血がついている。触ってみる。血は綺麗に消えた。傷はない。

「あなた、急に倒れたのよ。何も覚えてない? 近くの人がすぐに救急車呼んでくれたからよかったけど」

 突然、遠くの方から声がした。暗い空間の中央には母がいた。段々と視界が広がっていく。僕はどうやら病室にいるらしい。

「あんまり覚えてない」

「まあ、とりあえず大丈夫みたいだから、一日様子見て明日退院らしいわよ」

「わかった」

「あとあんた携帯。完全に壊れちゃってたからね」

 そう言って母は病室から出ていった。まだ仕事の途中だったのだろう。母の仕事は基本的に家の中で完結しているようだった。何をしているのか詳しくはわからないが、パソコンといつも向き合っていた。

 病室の窓から外を見る。太陽が沈んでいく途中だった。太陽は最後の吐息を残して、消えていくようだった。頭は冴えている。病院にいることが嘘のように僕の身体は何一つとして違和感を示さない。

 見慣れない病室を眺めて暇をつぶすのも三十分ほどで厳しくなってきた。スマートフォンでもあれば暇をつぶせると思ったが、そういえば自分で壊したんだった。ため息が漏れる。時間の流れが、ひどく遅い。




 翌日になり、僕は病院を後にする。なんだか不思議な気分だった。本当に僕の足は大地を踏みしめているのかさえわからなくなる。昨日のことは、やはり思い出せなかった。何かの拍子に、僕は手に持っていたスマートフォンをコンクリートにたたきつけた。その後からの記憶がひどく曖昧だ。気が付くと目の前には母がいた。母が言うには、僕は急に倒れたということだったが、納得できない。僕はどこかに行っていたような気がする。おかしい、現実感がひどく希薄だ。自我や自己といったものが、別の何かと交わろうとしているような気がする。それがひどく気持ち悪い。

 家の扉を開くと、リビングの方から「おかえりー」という声がする。母は今日も仕事が忙しいということで迎えには来れないと連絡をもらっていた。別に迎えに来てほしいなどと思っていたわけではないし、気を使われることに違和感がある。僕は母がいるであろうリビングにはいかずに自分の部屋に入る。日の光が入らない薄暗い空間だ。この部屋は僕にとって象徴的な場所だ。机と畳まれた布団しかない。この部屋はそれだけで完結している。この空間に自分が存在することはひどく気持ちが悪いことだった。それにもかかわらず僕は一日の大半をこの部屋で過ごしていた。部屋の中でスマートフォンを操作するだけだ。吐き気がする。ここにいるだけで体調が悪化していく。腹の中に異物が溜まっていく。布団を敷き、そこに寝転がる。何もすることがなくすぐに起き上がる。


     *


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