『小さな世界』

 なぜだか世界が暗い。ベッドの上で胡坐をかく。窓から外を眺め、今日の天気は果たしてなんだろうと思う。曇りのように見える。少し顔を傾けると日差しが見える。青い空は見えないが綺麗な白色をした雲が見える。今日はきっと晴れだろうと思う。それでもなぜだか世界は暗い。立地のせいか、いつもそうだ。どんよりと分厚い雲が広がった、雷の降る数秒前のような表情に見える。はるか遠い場所から空を眺めているような気分になる。遠い場所とは、もちろん良い場所ではない。何が良くないかと聞かれても答えることはできないが、良くはない。だって頭痛がする。


 目覚めてから二時間以上も、ベッドの上にいる。寝転がると頭痛がする。胡坐をかくと不安定な場所に座り続けていたせいで腰が痛む。頭の痛みを無視して寝転がる。近くにあったクッションを抱く。強く抱く。段々と瞼が重くなる。それは人生の幕が下りる寸前のようにも感じられて少し怖い。重力に従おうとする重い瞼を必死に抑える。抑える。眠る。


 目を覚ますと、体の表面全てには飴が塗られていた。飴は完全には固まりきってはいないようでゆっくりとではあるが体は動く。まあいいか、と思い僕はまた目を瞑る。頭が痛い。体もいたい。何より心がくすんでいくのがわかる。部屋の白い壁は段々と崩れていって、影のように真っ黒になっていく。


 目の前に何かが落ちてきた。大きなものではない。むしろ小さい。かなり。


 目の前には小さなスプーンがあった。いくら一粒もすくえないような、たらこなら三粒くらいすくえそうな。


 また、何かが落ちてくる。今度はスプーンよりも大きな、手のひらくらいの大きさだろうか。そのくらいの大きさの人が降ってきた。目を強く閉じ、開く。ぼやけた視界が段々と綺麗になってくる。目の前には人がいた。手のひらくらいの大きさの人が。僕はため息をつく。


「こういうこともあるか」心の中でそう思う。僕はこの状況に適応する。物理的な場所に、意味的な概念的な自分を追いつかせる。


「そう、あるさ。そういうところが、私は好きだ」腰に手を置き佇む小人は口を開いていない。それでも、今の言葉が小人から発せられたものであるとわかる。「言葉じゃない。私はただ君に情報を渡している。君がそれを一番わかりやすい形に変形させて理解するという方法をとったから、結果的に言葉になった。私は君らが扱う言葉など一ミリも理解していない」


 よくわからないが、つまり僕と小人は意思の疎通ができるということだ。


「そう、そういうことだ。それと小人と呼ぶのはやめろ、人間。私にはミニという名前がある」


「僕にはまきしという名前がある」


「随分と気の抜けた名前だな」


「ミニに言われたくないよ」僕は飴に体を覆われたまま会話(ミニが言うには情報の交換)を続ける。「これはミニがやったの?」ミニはブルーのラインが入った体のラインがくっきりと表れるタイツのような服を着ていた。髪の毛は真っ赤で瞳は緑色だ。


「その体のことか? まきしは自分自身の状態すら認識していなかったんだな。君はもう数年間、その飴とともに生きてきているではないか。その飴を纏ったまま家を出て学校に向かったり、飯を食ったり、トイレに行ったり、自慰をしたりしていたではないか」


 飴によって動きを制限されながらも、もがきながらベッドから体を起こす。「ミニはどうしてそこまで知ってるんだよ」


「どうしても何もそういうものだからさ。君は確かに物質的な世界を生きてきたんだろうけど、私たちが生きる世界では情報とは常に共有されているものだ」


「ここは別の世界なのか?」周りを見渡すが、見慣れた光景だ。散らかった机に、何日も前のペットボトル、本なんかは一冊もなく、ただ無駄なもので散らかった部屋だ。


「それは少し違うな。まきしは物質的な場所に生きているが私たちはもっと意味的な場所で生きている。それがスプーンを落としたせいでつながってしまったんだろう」スプーンはミニがわざと落としたらしい。現在の状況はミニにとってはイレギュラーでも何でもないというわけだ。それがなぜかわかる。情報を伝えているという意味が少し分かる。もう少し慣れてくれば、言葉を介す必要はなくなるという確信があった。


「意味的な場所?」


「私たちは情報の交換をしているのだから、それでも伝わらないのであれば君には納得してもらわないといけない」


 確かにそうだ。僕は無理やり納得する。ここは意味的な世界。


 ところで君は最近何をしているんだ? 今までも偶にこういうことがあったが最近は特に長い。学校には行かないのか? 毎日ベッドの上で死にそうな顔をして、病気にでもなったのか? と、ミニが思っていることがわかる。もっと漠然とした疑問だけが僕には伝わってきて、僕がそれをかみ砕いた結果だ。


 情報は共有されているんじゃないの?


 だれでも自由に開けていいよと言われている引き出しでも、開けなければその中身を知ることはできないだろう?


 なるほどと思う。僕は情報を教える。引き出しの場所を教える。


 夏休みというものがあるのか、とミニは興味深そうに頷く。大学生の時期の夏休みが特に長いということもおそらくは伝わっていると思う。ミニは首をかしげる。君らにとってそれは嬉しいことではないのか? という疑問をミニは持つ。ミニには僕らのその情緒を理解できていないようだ。


 ミニは僕の情報を受けて顎を触る。何かを考えているようだ。ごちゃごちゃとした情報はいまいち理解できない。ミニがある程度整理するのを待とうと思う。ミニが受け取った情報は大きな意味で、漠然としている「退屈」という言葉だったと思う。僕は最近常々考えている。何をすればいいのだろうと。ひたすらに夏休みという時間を持て余す。


 なんとなく、最近バイトを始めた。僕は元々不安神経症のけがある(あくまでそういう傾向があるというだけで、別に何か治療を必要とするようなものでもない)。大学の課題を提出したかどうかという確認を秒刻みで何十回と繰り返したり、何度も確認をして提出した書類に不備があるんじゃないかと一日中考えていたり。そして、アルバイトの給料がもらえないんじゃないかというようなものも。何かを始めると、それについての不安がずっとついて回ってくる。でも何かを始めたいという純粋な気持ちもある。じゃあ、その何かとは、を考えた時僕の前には空が広がる。広大な空だ。何もないじゃないかと思ってしまって、気づけば体は飴に包まれていたということだろう。


 やはり理解できない。というミニのシンプルな情報が伝わってくる。ミニはもう顎を触ってはいなかった。


 ミニは普段何をしているのだろう、と思った瞬間にミニの考えのようなものがわかってくる。ミニはただ生きている。そのことがわかる。そもそもとして思考の、何か一つの基準というか、そういうものが根本から違っていることを理解する。


「そう、まきしも生きているんだ」とミニは言う。「うまく伝わったか?」


「言葉を使えるんじゃないか」そういうわけでもないらしい。情報を共有しているという言葉の意味をあらためて理解したような気がした。簡単に言えば性能に上限のないインターネットの中のようなものなのだ。引き出そうと思えばいくらでも引き出せる。そういう場所でミニは生きていて、ミニにとってそれは当たり前のことなのだろう。


「ところでまきしにはパートナーはいないのか?」ミニは言葉を使う。声を出す。どうやら言葉を使った会話というものをゲームのように感じているらしい。楽しんでいる。


「しばらくはいないな」


「人間はパートナーと別れたりもするのか。ますます理解できない。というよりは、根本的に何かが違うのだろうね」ミニはうんうんを頷いている。ミニの考えていることがわかる。ミニにとってパートナーとは一生寄り添っていくものであり、それはもっと深いところで決まっていてミニはそれに従っているだけなのだ。だから別れる別れないという発想すらなく、そこに何の違和感も感じていない。


「ところで、ミニは何をしにわざとスプーンを落としたんだ?」僕は情報を引き出さない。ミニから言葉が発せられるのを待つ。引き出しに手をかけない。言葉を待つ。


「そうだ。まきしの飴をはがしてやろうと思ってね。君はいつも死にそうな顔をしている。それはこちらとしては望むところではないんだ。言っただろ? 情報はすべて共有される。君の心がよどんでいけばその情報は私たちにも伝わる。それどころか私たちのものになる。もちろんつながっていると言っても距離のようなものはある。ただ君と私の距離は割と近い。だから嫌なんだよ。別に大きな害があるというわけでもないがね、引き出しをわざわざ開くようなこともしないし、でも理解できないことが流れ込んでくるというのはひどく気持ちが悪い。そして、私たちには君たち人間のようにそれらを理解しようなどという思考はない。それも理解ができない。だから、くすんだ塊だけが残るんだ。君たちは社会的動物なくせして一人残らずみんな自分勝手だ。私たちが耐えられなくなって干渉する程度にはね。ああ、因みにだけど僕が言う引き出しとはあくまで君たちのところで言うメタファーだよ。実際はなんかもっとこう、違うものだ」


「わかってるよ。そしてすまなかったね。でもわからないんだよ。飴に体を包まれていたことにすら気が付かないんだから」


「そうだよね。君らは物質的な世界に偏りすぎているから。それが良いか悪いか、そこからの議論は君たちが好むものだろう? 私たちには全く理解できないものだけれどね。だからそれは勝手にやってくれ。私はただ、まきしのそのよどんだものをどうにかしたいんだ。いいかい? やり方を教えるよ。まずは大変だろうけどね、そうだな、手を顔の前に持ってくるといい。やってみて」


 僕はミニの言うとおりにする。手は意外にも軽い力で動いた。「これからどうすればいいの?」


「指を舐めるんだよ。じっくりとね、味わいながら、ゆっくり、じっくり、ゆっくり、じっくりと」


 指を舐めることに少し抵抗を感じながら、指先を舌で撫でる。じっくりと。ゆっくりと。リンゴのような味がする。次はみかん。その次はいちご。指先にべっとりとまとわりつく飴を舐めていると景色が見えてくる。人がいる。たくさんの人がいる。スーツ姿の男性と女性、制服姿の男性や女性、ランドセルを背負った男の子や女の子。その周りを何かよくわからないものに乗って飛び回っているミニのような人たち。空を見るととても大きな、それこそビルに囲まれたそこでは太陽の光を完全に遮ってしまうほどの龍がいる。それは時々息をしているかのように膨み縮む。顔も尾も見えない。どれだけ大きいのだろう。景色は変わり海になる。海から頭に海藻をかぶったムキムキの老人があがってくる。下半身は魚の尾ひれのようになっている。よく見てみると少しだけ宙に浮いている。森になる。ツチノコがいる。とても大きい。サルは僕に話しかけてくる。カブトムシが寄ってくる。その上にはミニのような不思議な服を着た人が乗っている。上空になる。都市が浮いている。さかさまに浮いている。ゆっくりとさらに上へと上がっていく。地下になる。セミの幼虫がいる。二本足で歩いている。目をそらす。宇宙になる。龍の顔が見える。龍は地球を抱き枕のようにして眠っている。ひげが伸びている。羽の生えた馬がいる。宇宙を進んでいる。太陽は笑っている。地球は眠っている。月は怒っている。足まで伸びる白いひげを持つおじさんがいる。木星の環には肘を立てて横になる巨人がいる。女性の巨人もいる。奥へと進む。真っ白い世界になる。意味の外に出る。


 時間の感覚が希薄になる。


 突然何かの供給が途絶えたように現実に引き戻される。舐めていた右手の人差し指は自由に動く。何の引っかかりもなくなっていた。もしかして、全身もこれと同じことをしなくてはならないのかと思ったが。首も動く。腕も脚も、体を覆っていた飴は消えた。体が軽い。体は少し冷えている。


「どうだい? なかなか愉快だろ? 私の中にも君の――何だろうな。白いような、明るいような、温かいような、また冷たいような、心そのものを感じられたような気がするよ。何かよくわからないな。言葉とは案外不便なものなんだね」


 ミニはなんだか楽しそうだった。「ありがとう、ミニ」


「いえいえ。こちらこそ。それじゃあね。まきし」


「ちょっと待って。最後に一つ」


「何かな」


「ミニが生きる世界と僕が生きる世界の違いって何かな?」


「違いと言われても、根本的にすべてが違うよ。君も見ただろ? ああいう世界さ。ただそうだなあ。強いて言うなら、つながりの幅がだ、君が生きる世界は」


 目が覚める。体が軽い。軽く伸びをして窓を開き顔を出す。冷たい粒が顔に当たる。今日はどうやら雨のようだ。雨の匂いがする。空には龍は飛んでいない。傘に雨が当たる音がする。


 今日はどこかに出かけようと思う。一時間くらいで支度をして、外に出る。なぜだろう。傘をさしたくない。そのまま雨に打たれながら、住宅街を歩き。開けた場所に出る。バス停でバスの時間を確認して、ベンチに座る。ズボンが濡れる。


 ――


 大した言葉のようには感じない。十人集めれば一人は言いそうな言葉だ。ただ、その言葉について考えれば考えるほどよくわからなくなる。皮肉めいた言葉ではなく、もっと単純に、量の問題なようにも感じられる。ミニなら言いそうだとも思う。


 バスに乗る。髪から水が滴る。バスに乗るお客さんが少ないことに安堵する。コンビニで傘を買おうと思う。ちょうど昨日、バイト代が入った。


 バスを降りる。コンビニまで歩く。コンビニの店員さんからお釣りを受け取る。同年代くらいの女性だ。明るい茶髪をしている。手が少し触れる。コンビニを出る。


 傘をさして、雨の日だというのに隙間一つなく人が入り乱れる交差点を眺める。不思議に思う。何が。わからない。


 それでも、不思議に思う。


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