溺惑の森
yukisaki koko
『海に至る病』
気が付くと僕は海にいた。
海に浮いている。正確に言うと、海に浮いているイカダの上で胡坐をかいている。櫂を使ってゆっくりと海を進んでいる。意識して櫂を漕いでいるわけでもなく、心臓が意識の外でずっと働くように、櫂を握る手は意識の外にある。
思い出したように海の音が聞こえてくる。それは風の音のようにも感じられる。僕はここにいることに何の疑問も持たなかった。きっと僕は生まれてからの二十年間、ずっとこの海を流れていたのだ。海の上では時間の流れなどあってないようなもの。陸地など一向に見えやしない。常に僕は海の中心にいる。見えるのは藍色にも見えるほど濃い青と、空と同化するように薄くなっている水平線。だから僕は常に海の中心にいる。
突然と言うにはあまりにもなめらかに僕の目の前には一人の男が現れる。僕はこの人を知っている。ような気がする。確信がある。僕はこの人を知っている。名前はわからない。顔は見えない。木工用ボンドをべったりと塗りたくったような真っ白い顔をしていて、そこには人が本来持っているであろうパーツは何一つとして存在していなかった。
「こんにちは」と、僕は言う。
「こんにちは、今日もよろしくね」と、彼は言う。
僕はイカダを進めている。彼が現れた時も、彼に挨拶をしたときも、彼の声がものすごく遠くから聞こえてきたときも。櫂を掴むこの手を止めることは不可能らしい。僕の胸の中で何かを待ちながら脈動する心臓のように。
僕は目の前に立つ真っ白な顔を持つ彼を見て、不安になる。彼は僕が漕ぐイカダに乗っている。彼はどこまで乗っていくのだろうか。僕がこのイカダを漕ぎ続ける。彼が何かしらの目的を持ってこのイカダに乗っていることだけはわかる。確信がある。ならば、彼は僕に対してどのような対価をくれるのだろうか。と、僕は不安になっている。お金、それはこの何もない海の上では感情の次に役に立たないものであろう。ならば僕が求める対価とは何か。やはり金であった。彼はイカダを下りる時、僕に対価としての金を渡してくれるのだろうか。僕は不安になる。それでも櫂を掴む手には確かな力が入っている。腕は痛くはならない。それを不思議に思うが、数秒するとなぜ不思議に思ったのか不思議に思う。
「ここらへんで良いよ」と、彼は言う。真っ白な顔面に取ってつけたような口が浮かび上がる。「ありがとう」と、口を動かしその口から小銭がジャラジャラと落ちてくる。
対価をもらえたことに僕は安堵する。
彼はベッドに寝転がるかのように背中から海へと落ちていった。僕は櫂を強く握り、イカダを進めている。
彼は海に至る。深く深く、海に至る。いずれ光は消え去り、闇に至る。
夜が来る。海の流れる音がする。櫂が海を押す手ごたえが少しだけ重くなる。僕は空を向く。星が光っている。星は僕と目が合うと一度強く発光する。段々と星の形が見えるようになってきて、それは一瞬にして僕の視界を埋め尽くす。僕はつぶれる。イカダは砕け散る。櫂を強く握る僕の腕が見えた。僕の腕は遠くに流れていく。体から離れ、自立したそれは櫂を強く握る。僕は櫂を眺める。
気が付くと海にいた。
正確に言うと、海に浮いているイカダの上で胡坐をかいている。櫂を使ってゆっくりと海を進んでいる。意識して櫂を漕いでいるわけでもなく、心臓が意識の外でずっと働くように、櫂を握る手は意識の外にある。
思い出したように海の音が聞こえてくる。それは風の音のようにも感じられる。僕はここにいることに何の疑問も持たなかった。きっと僕は生まれてからの二十年間、ずっとこの海を流れていたのだ。海の上では時間の流れなどあってないようなもの。陸地など一向に見えやしない。常に僕は海の中心にいる。見えるのは藍色にも見えるほど濃い青と、空と同化するように薄くなっている水平線。だから僕は常に海の中心にいる。
イカダの上には僕と彼女がいる。僕は彼女のことを想っている。彼女も僕のことを想っている。それがわかる。確信している。彼女は僕と同じ櫂を持っている。
「どこまで行くの?」と、僕は彼女に問いかける。
彼女は右手でそっと口を押えながら笑う。彼女は簡単に櫂から手を離せる。それは僕の櫂だからだ。「それをあなたが聞くの?」問いに問いが返される。
「確かにそうなのだけれど、やっぱり気が引けるよ」僕は少し下を向く。櫂を掴む手は力強い。「いつかいつかと。その果てまでともにいてくれとは、なかなか言えないんだ」
「あなたはそう言えばいいの」と、彼女は言う。彼女は楽しそうに笑っている。
僕は考える。このままでいいものかと。彼女に寄りかかるのも彼女から自立して櫂を握るのも、どちらも間違っているような気がする。そもそも正解を求めるという行為が間違いなのだ。ならばどうすればいいのだろうと思う。僕は海に落ちる。ゆっくりと沈んでいく。彼女は「またね」と言う。それからも口を開き何かを言う。声は届かない。彼女と目が合う。じっと見つめ合う。心臓が破裂しそうなほどに痛い。胃は何故か違和感のような気持ち悪さを訴えている。僕はもういいやと思う。彼女に寄りかかる。
僕は気が付くと海にいた。
正確に言うと、海に浮いているイカダの上で胡坐をかいている。櫂を使ってゆっくりと海を進んでいる。意識して櫂を漕いでいるわけでもなく、心臓が意識の外でずっと働くように、櫂を握る手は意識の外にある。
思い出したように海の音が聞こえてくる。それは風の音のようにも感じられる。僕はここにいることに何の疑問も持たなかった。きっと僕は生まれてからの二十年間、ずっとこの海を流れていたのだ。海の上では時間の流れなどあってないようなもの。陸地など一向に見えやしない。常に僕は海の中心にいる。見えるのは藍色にも見えるほど濃い青と、空と同化するように薄くなっている水平線。だから僕は常に海の中心にいる。
隣には彼女がいる。
「ごめんね」と、僕は言う。
「何が?」と、彼女は言う。鋭く伸びる目尻に誘われる。僕は彼女から目が離せなくなる。
これでいいのだろうか、と考える。
櫂を握る手は力強い。彼女も櫂を持っている。夕飯のシチューを混ぜるかのように櫂を動かしている。「ありがとう」と僕は言う。
「うん、それでいいの」と、彼女は言う。
僕と彼女の間には、真っ白い顔を持つ彼がいる。
「こんにちは」と、僕は言う。
「こんにちは」と、彼女は言う。
「こんにちは、今日もよろしくね」と、彼は言う。「今日は一人じゃないんだね」と、彼が言う。
僕は不安になる。彼の顔がくっきりと見える。少なくとも僕の主観的な意見では、その顔はとても整っている。テレビに出ている男性アイドルとも遜色がない。
「そこの君」と、彼は言う。僕ではなく、彼女に。僕は不安になる。「僕と遊びに行かないかな?」と、彼は言う。
僕は不安になる。櫂をしっかりと握っている。イカダを進める。
「嫌です」と、彼女は言う。
「どうして?」と、彼は言う。
「私は彼と一緒じゃないと海に行けないの」と、彼女は言う。僕は彼の顔を見る。首をかしげる。はて、彼はどのような顔をしていただろう。
「海に行きたがるとは物好きだね」と、彼は言う。
「そうかしら」と、彼女は笑う。
「ああ、そうさ。僕はできることなら海になんて来たくないよ」と、彼は手を広げる。「でも僕は人間だもの。時々来てしまう。こういう風に。そんなときは軽く語らい、海が溶けるのを待つ」
「物好きなのね」と、彼女が言う。「私は海が好きよ。海を見ていると寂しくなるの。それは海が美しいからでしょう?」
「なぜ寂しくなるものを見たがるんだ?」と、彼は言う。
「だって、人間だもの。最近の世の中は嫌いだわあ。だってみんな人間を辞めたがっているんだもの」と、彼女を櫂を強く握りながら言う。
「人間だからこそ海を嫌うと、僕は思うね」と、彼は言う。
「気が合わないみたいね。海に臨むことができるのは人間だけなのよ?」と、彼女は楽しそうに笑う。
「ああ、どうやら僕たちは気が合わないようだ」と、彼は言う。ポケットから雑に黒い皮財布を取り出して、彼はそれを僕に渡す。「ここらへんで良いよ。ありがとう」と、彼は海に至る。彼が次に目覚めるのは、海ではなくなった海なのだと、僕は思う。
櫂を強く握る。
彼女は僕を見る。
視線と視線が何もない空間でぶつかり合いゆっくりと交わる。
僕は笑う。
彼女も笑う。
僕は安堵する。
海はきれいだ。そう思う。
櫂を強く握ったまま、僕は海に至る。
深く深く海に至る。
太陽の光が美しく僕を照らしている。
僕の行く先を照らしている。
行く先は見えないのに。
行く先を僕は見ていないのに。
まず耳が役に立たなくなる。
次に目が役に立たなくなる。
それ以外のものも最初から役には立たないものばかりだ。
僕は櫂を力強く握っている。
海に至る。
僕は気が付くと海の中にいた。
僕は気が付くと海にいた。
イカダに乗っている。
櫂を握っている。
櫂を動かす手は止まらない。
海は流れる。
僕も流れる。
僕は海の果てを見ることはできない。
僕は彼女と、この海をどれだけ進むことができるだろうか。
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