夜を見上げて

平山芙蓉

夜を見上げて

 その日は、病的なまでに空気の澄んだ夜だった。空を遮るモノもない。黒い帳の上に、薄い三日月と、その周りに星々の弱々しく輝いている様子がうかがえる。繫華街だというのに、人間はおろか、虫の一匹さえいない。まるで、ここにいた生物がみんな、何もかもを棄てて逃げ出した後みたいだ。


 このままみんな、本当にいなくなってしまえば良い。


 本気とも冗談とも言えないそんなことを、胸の中でぼんやりと願ってみた。何にしても、気分が良い。ポケットから煙草を取り出し、歩きながら火を点ける。吸い込んだ煙は、いつもより肺の奥を汚していく。

 十九を過ぎて、私は夜遊びを覚えた。陽が沈み始める頃に外へ出て、玄関を潜るのは太陽が再び昇ってから。高校の頃から夜になると、ふらふら出歩くような人間だったから、多分そうなる兆候はあったのだと思う。大学に入ると、必然的にそんな半不良のような生活はすぐ身に馴染んだ。そのくせ、そこにお酒や煙草を入れたのは、二十歳になってからだったけれど。


 今ではすっかり、私の夜遊びに華やかさはない。


 夜は人の心を簡単に食い尽くすことも、知ってしまった。そして、夜に染まった人間は、同じように他人を食らう。憎悪や、嫉妬なんてモノを抱えながら。

「バカみたい」

 タイル張りの道路に煙草を投げて、スニーカーの底で踏みにじる。足裏に歪んだ感触。鼻腔にはまだ煙の香りが沁みついていた。

 私も夜に食い尽くされた人間だ。

 華やかさに惑わされ、憎悪を心に巣食わすことになった。


 本当は、こんなことをやめればすぐに済む。世間一般的に言う、真っ当な生き方をすれば、悩まないで良い。それでも、ここから抜け出せそうにないのも事実だ。この暗く沈んだ世界の中を、歩かずにはいられない。昔ながらの映画に出てくる、ゾンビと同じだ。憎悪や嫉妬に身体を侵された、哀れな存在。私にできることは、もうこれ以上、それを振り撒かないようにするだけ。

 その結果が、私の周りから人間関係と呼ばれるモノを、排斥することだった。煩わしさから解放されたと言えば、聞こえは良い。だけど、人間らしさを失ったこともまた、確かなことだ。


 深い夜の沈殿した路地を抜けて、表通りに出ると、ちらほらと人の姿もあった。路上で汚物に塗れながら寝ころぶ人、ハイエナのように客を狙うキャッチ、外の世界なんて端から見えていない酔いしれたカップル。どれも夜に相応しい存在だった。

 横目にそれらを見ながら、通りを歩く。さっきまで澄んでいたはずの空気は、ただ通を変えただけで、鼻をつまみたくなるような臭いで汚れてしまった。何だか興醒めだ。


「あれ、美月じゃん」


 帰ろうと考えて、踵を返したところで、背後から声をかけられた。聞き覚えのある声に振り返ると、最も会いたくない人物が立っていた。

「久しぶり」

 どちらからともなく、そう挨拶をして、私たちは向かい合う。彼女の背後へと目を遣ると、二番目に会いたくない人間が、遠巻きにこちらを見つめている。その顔は引き攣っていて、まるで悪夢でも見ているかのようだ。

「何してんの、あんた」

「ただの散歩」

「独りで? あんた、また寂しいことしてんのねぇ」

 アルコールでも入っているのか、妙なテンションの彼女は、私の答えに口元を歪める。私はその嫌味な態度の彼女と背後の彼を、口を閉ざしたまま交互に目を遣った。


「あんた、まだ怒ってんの?」


 私の視線に気が付いたのか、彼女はそう聞いてきた。

「……まさか」呼吸を一拍置いてから、私は答える。言葉の通りにするためには、そのくらいの間は必要だった。


「じゃあ、何で連絡しても無視すんのよ」だけど、その間に付け込むみたいに、そう聞いてきた。「いい? あんたが彼と付き合えていたのは、わたしのお陰ってことを、忘れてもらっちゃ困るわ」


 彼女は後ろの彼を一瞥してから、私に一歩、近付く。間近になった彼女の瞳に映る私の姿は人形のように硬直していた。そんな私にお構いなく、耳元で言葉を囁く。

「だってあなたは、わたしの光を浴びただけ。勘違いしないでね。あなたがこうやっていられるのは、わたしがあなたに教えたからなのよ」

 やっぱり、私は何も答えられない。耳朶を擽った彼女の声に、鳥肌を立てるくらいが精一杯だった。


「じゃあ、


 辺りに響くくらい、快活な声で彼女はそう言って、手を振った。少し距離はあるけれど、彼にも聞こえただろう。踵を返し、彼女は小走りで彼の元へと歩いていく。


 そう。

 彼女の言う通りだ。

 私は彼女に教えられただけ。

 ただ暗い夜の底を這っていた私が、光を浴びただけ。

 私が彼女抜きで得られたモノは、何もない。

 太陽の光のお陰で月が輝くように、

 彼女の光で私はこの夜を手にした。

 煙草もお酒も、あの男も。

 彼女がいなければ、味を知ることなんてなかった存在。


「またね、じゃない」


 私は遠くなっていく彼女の背中へと、声をかける。

 彼女の言ったことは正しいのだろう。与えられたモノを、返すことだって必要だ。元々、彼のことは彼女が先に狙っていたのだから。それでも、私から奪っていったことに変わりはない。

「もう、あなたと会うことなんて、ないから」

「そう」

 どこか悲しみの滲む笑みを、彼女は小さく浮かべると、足早にこちらへと近寄ってきた。

「あんたのそう言う恩知らずなところ、すごく嫌い」

 ただ一言、そんな別れの言葉を呟いて、今度こそ彼女は彼の元へと、足早に去って行った。


 私もまた、踵を返す。

 何となくもう一本、煙草を吸いたくなったけれど、それは気分だけだった。

 空を見上げる。

 月は高いビルの陰に隠れて見えない。

 星は眠らない街の灯りにかき消されている。

 何も入っていない空虚な心を、

 今夜は満たしてくれそうになかった。

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夜を見上げて 平山芙蓉 @huyou_hirayama

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