無境界夜話

柚木呂高

無境界夜話

 そうして人類は永遠の眠りについた。そういう名のカクテルが出るというのはこの界隈では知る人ぞ知る話であった。宵の口、もの好きの人々が集まる会員制のバー、夢の操縦法は格差差別をきわめた現代において稀有な、貴賤がなくあらゆる者に公平に開かれる不思議な場所で、ある中層階地域の街の薄暗い路地の脇を木々の生えた細い階段を登っていくと見えてくる小綺麗だが小さい民家が、ネオンの光から逃れて暗闇の中で赤い照明でぼうと浮かび上がる姿はさながら小振りな迷い家といった風情である。ここに来る者の目的は一にも二にもマスターの出す特製のカクテルにあった、その飲み口は玄妙たるを得ると言われ、好事家たちはこぞっての微醺びくんに彩られようと夢の操縦法への紹介を是非と願うのである。

 東海源一はSNSで知り合った上層階急の女性、鴻巣亜弓こうのすあゆみからこのバーの紹介を受け、幸運にも入会することができた。源一自身は低層階級のしがない作曲家もどきといった風情で、借りてきた猫のようにキョロキョロと周囲の様子を伺ってはビクビクしているといった次第である、なにかに突かれでもすれば今にも飛び上がりそうな具合に亜弓は苦笑いを浮かべていた。

「そんなに緊張しなさんな、ここには貧富の差なんて大した問題にはならない、あなたも堂々としていればいいよ」

「そんなこと言われても、俺は中層階にすら来ることなんて滅多にないし、それに査証の発行なしにここに来てるのがバレたら一発でお縄じゃないか」

「少なくとも夢の操縦法は超法規的区域に指定されているから、ここにいる限りは安全、まあ今職質に遭ったら言い逃れはできないけれど」

「おいおい、不吉な話はやめてくれよ……」

 源一は自分の容姿や立場に非常なコンプレックスを感じていた。そもそも上層と下層では身分の差があまりにも著しい、今一緒にいることがそもそも奇跡と言えるような状況であって、それ以上を望もうというのは些か強欲がすぎるというものだろう。源一は故に心躍らせている裡に根本的な壁を感じざるを得ない。

 亜弓が表札のない黒いミニマルなドアを開けると、赤を基調とした薄暗い照明に木の家具、薄く流れる音楽はスティーヴ・ライヒの十八人の音楽家のための音楽、壁には八〇年代の映画と思しきものがプロジェクターで投影されている、どいつもこいつも骨董品じゃないか、源一は時代錯誤な店内に目眩すら覚えた。店内にいる客は片手で数えられる程度ではあるが、客層は見事にバラバラで、絢爛たるオートクチュールと思われる服を身にまとい腕の青い痕を掻く者から、自分と同じくらいにみすぼらしい格好の貧乏ゆすりをする者まで種々様々だった。その誰もが等しく酔眼朦朧 すいがんもうろうとした様子で頭を揺らしている。

「こんばんは鴻巣さん、おや、そちらはご紹介ですか」

「こんばんはマスター。こちらは東海源一、低層階の労働環境音や生活音で音楽を作っている子よ、この前は牛の解体の作業音で曲を作ってたのよね」

「う、うんまあ、評判は良くなかったけど」

「はじめまして東海さん、鴻巣さんの紹介なら気兼ねなく寛いで下さい」

 源一は亜弓と共にカウンター席に座ると、メニューはないかとキョロキョロと周りを伺うが、他の客のうつろな目がこちらに注がれているようで気合いが悪い。自分の身分を考えるとどうにも卑しい身の上を気にしてしまう、それが人にどう映るかなどと考えると尻がムズムズするようであった。

「おや、ご自分の階級が気になりますか、ここではそういうものは抜きにリラックスしてください、気にする者はここには誰ひとりいませんよ。一応メニューもありますが、私に任せて下さればきっとご満足いただけますよ」

 マスターは源一の心を見透かしたようにそう言うと、メニューを見せてくれる。メチレンジオキシメタンフェタミン、メタンフェタミン、オピオイド……、結局一般的なバーの客というのは、これらの薬物の羅列を見たところでストレートで楽しむことはしない。一部の通は自分なりのブレンドを注文することもあるが、こういったバーでは多くの場合、バーテンダーの腕を頼りにその日の気分に合ったカクテルを頼むのが通例である。ここ夢の操縦法に於いては一層その傾向が強く、マスターのカクテルは世代や身分を超えて親しまれ、絶大の信頼を置かれている。夢の操縦法が高名であるのはあらゆる者が公平である特異な空間である他に、マスターの妙技に依るものであるといっても差し支えはあるまい。

「うーん、源一はどうも落ち着かないようね、先ずは軽くリラックスできるものから頂きましょう」

「かしこまりました」とマスターが言うと、如何にも閑雅な手付きで手際よく専用のスプーンを使い、ハーブとパウダーを小鉢に入れステアすると、水タバコに詰めて二人の前に置いた。「どうぞ、ウィトゲンシュタインズ・ミストレスです」

「境界のない夜に乾杯」

「か、乾杯」

 二人はシーシャから伸びる管を口に含むと深く吸い、暫く息を止めたのちにふっと吐き出した、その煙が赤い照明の上に薄く弧を描きすうっと溶けていく、香り高いだけではない、後頭部をそっと引っ張られ体の芯が沈んでいくような感覚と、孤独感を感じるときの寂蒔じゃくまくたるあの腹に疼くようなむず痒い快さが同居している、それが得も言われぬほど心地よい。源一は下層階のバーでは味わえないような、心の襞を一枚一枚優しく撫ぜるかの如き繊細で情味のある陶酔感に舌鼓を打った。これはといった表情で亜弓の様子を伺うと、とろんとした表情と勝ち誇ったような顔が瑰麗かいれいに見え、源一はどきりとした。

 二人はウィトゲンシュタインズ・ミストレスのシーシャをふかし終えて、マスターのおすすめ皮下注射カクテル、青い花をキメたあとには尻を蹴られたような夢現な陽気さが溢れた。薬の万能感に押されて自然、発奮して二人で席を立つと他の客に挨拶して回った。

「新しい同士よ、ようこそ我らが夢の操縦法へ! どうだい、マスターの腕は噂以上だろう。はは、鴻巣さんのご紹介なら間違いはないな、なに身分の違いなんてここでは些細なものだ、存分に楽しんでいってくれ!」

「お、俺と同じ下層の人か、ここじゃ誰も俺たちを見下す人なんていやしないぜ。すげえいい店さ、みんなで繊細な快楽に舌鼓を打って、同じ夢を見る、これこそが重要なんだ」

「あらあら可愛い子、鴻巣さんは人の見る目があるのよ。彼女を紹介したのは私ですけれども、本当に紹介して良かったと思うわ。なんたって、彼女ほどグルメな快楽主義者はいませんからね」

 彼らはそれぞれ個性的ではあったが、第一印象に反してその根底は善良で舌の肥えた快楽主義者たちであった。皆で互いに自分の出してもらったカクテルの効能を説明しながらマスターの素晴らしい腕前を褒め称え、立場を超えた共感のもとに盛り上がっていると、彼らの口の端々に自然に話と出てくるのが則ち件のカクテル、そうして人類は永遠の眠りについたである。

「単純な快楽とは違うんですよ、自身の根底が揺らぐような体験です」

「あらゆる感覚が新しい誤差を伝えてくる、それは確かに誤差なのだが、自分自身の生活からは得られなかった感覚なんだ」

「複雑なのよ、一見何の変哲もない、ただの塩化ナトリウム注射液を入れられたのかと思ったわ、でも違うの、段々と違和感に気付いてくる、徐々に自分の中身が一つづつ交換されていくような感覚だわ」

「ここに来たならとにかく一回は試してみるといい、皆で同じ夢が見られる」

 誰もがその感覚の複雑さを説明し倦ねいているといった風情で、源一は恐ろしくもあり、興味がそそられるともあり、複雑な心境であったが、噂に名高いカクテルそうして人類は永遠の眠りについたを試せる絶好の機会が今巡ってきているという期待が否応なしに膨らんでいる。亜弓は源一の様子に気付いて、彼の耳元に口を近づけると、そっと息を吹きかけるように「試してみる?」と言った。彼女の胸元からシダーウッドやムスクのような上品な香りが漂い源一の鼻孔をくすぐった。彼は魅了されたようにただ無言でこくんと頷くと、他の客たちはホビロンのような濁ったうつろな目を爛々とさせ、唸り声を上げた。

「新参者がやるなら私達もやらざるを得ないですね!」

「明日は休みだ、ハメを外すのも悪くない」

 マスターはニコリと笑って、まるで曲芸師のような手付きで次々に注射器を薬品瓶に刺していくと、専用の機器でそれらをシェイクする。全員分のそうして人類は永遠の眠りについたがそれぞれの手に渡った。彼らの一人が恭しく注射器を掲げると、他の皆もそれに習って自分たちの顔の高さまで持ち上げ互いの目を見て頷きあう。

「境界のない夜に乾杯!」

「乾杯!」

 全員が一斉に各々の腕に静脈注射を行った。

 暗転。いや、暗闇。源一はその暗闇の中で、手探りをするように手を前に伸ばして宙に泳がせる、なにものも触れることがない。誰もがこの狭いバーの中で手を伸ばせば届きそうな距離にいたはずなのに、隣りに座っていた亜弓すら気配がない。手足の感覚、ある、嗅覚、わからない無臭だ、さっきまで漂っていたバーの独特の香りが消えている、不安になって声を出そうとするが口が開かない。バッドトリップか? 焦り、恐怖、そこにまるで耳に聞こえるように実際には見えるように、いや、触れるように言葉が届いてくる。

「ちゃんと言葉でイメージしなきゃ駄目よ、先ずは言葉の目を開く、そして言葉の手で触れる、さあ、私の手を取って」

 源一は言葉を探る、目を開けると思い浮かべる、すると少しずつ視界が開けてくるのを感じる、目の前には裸の亜弓がいる。亜弓だけではない、先程のバーの客たちもまた裸でそこにいる。源一は思わずさっと目を伏せようとした、伏せられない、真っ直ぐに彼女らを見ている。手を動かそうと思っても動かない。

「ちゃんと言葉でイメージして」

 源一は言われたとおりに言葉を思い浮かべた、手を動かす、差し伸ばされている彼女の手に触れる、それは温かいと思う。

「よくできました」

「キミはどうにも意識的なイメージよりも無意識的なイメージの方が強いようだ、そのくせ体を動かすには意識的なイメージを必要としていてチグハグしている、はやくこの状態に慣れることだね」

「コツは、言葉をイメージすることだ」

 言葉をイメージ、駄目だ、口が開かない。口を開く。「言葉をイメージ」と言う、「言葉をイメージ」と源一は言った。言ったことが自分の中ですうっと流れ出ていく、それは相手に届いたと思う。自分の体を一つ一つ確認していくように、彼はイメージを重ねていった、指先、腕の関節、脇の関節、足の裏に感じる体重の重み、少し腰をかがめて、目をパチクリさせる、首を傾げる。すごい、バチバチに体が反応する、まるで初めて生まれてきて経験したかのような新鮮なフィードバック。その快感が全身を駆け巡る、血管を、神経を、小さな電流みたいに光が走る。

「わかってきたみたいね、あとはそうね、あなたの裸のイメージが強すぎるから弱めて、私達に服を着させて頂戴、大丈夫私たちは服を着ている」

「俺たちは服を着ている」

 源一がその言葉を繰り返すと、亜弓も他の客たちもあの見慣れた先程の服装に戻っていた。「周囲を見回す」周囲を見回すとそこはだだっ広い白とも灰色ともつかぬ、先の見えぬ空間で、よく見ると夢の操縦法の客以外にも大量の人間が並んでいる。それらは一様に直立し、目を瞑っている、まるで糸の張っていない操り人形が休むかの如き佇まいである。

「これが、そうして人類は永遠の眠りについた?」

「そう、そうして人類は永遠の眠りについた」

「それは同時にそのものの意味でもある、ここにいる人間は僕たち以外全員眠っている、そしてここには僕たちの知る人間たちが必ずいる、まるで全人類がここに集まっているみたいに」

「これは、トリップして、みんな同じ夢を見ているってこと?」

「恐らくそう、そういうふうにぶっ飛べるの、すごくない、そして全ての刺激が初めてみたいに体中の器官を駆け巡るの」

 源一はその言葉にぞくりとして周囲を再び眺めると、目をつぶって直立する人間たちの姿が見えて、そいつらがどこかリアリティを持って存在しているように感ぜられた。その緊張を察知してか、亜弓は源一の手をギュッと握った、その力が彼の手を伝って全身が震えた、触覚嗅覚味覚視覚聴覚、五感のすべてが過剰に反応するように快感を走らせる。源一は射精してしまったんじゃないかと心配になる。彼がもぞもぞとしているのを見て亜弓はくすりと笑った。

「さあみんなで遊びましょう、ここでは言葉は軛から外れている、自由になれるの」

「僕からいくぞ、花は星であった」

 すると上空に星が、いや花がきらめいた、それらは遠く手の届きそうな、しかし決して届かなそうな中空にあっていつまでもたどり着かない花びらをはためかせる。

「私たちは宙を歩き踊った、月の踊り」

 一同は空中に体が投げ出され、バタバタと手足を羽ばたかせていたが、やがてそれは舞踏になった。手をつなぎ、離して、ステップは空気を蹴ってくるくると回ると誰かが誰かを支え、するりと抜け出しまた舞う。眠りの人々は下に並んでいる。源一は踊りながら自分の友人や家族の姿をそこに見た。空中を歩きながら辺りを見回す、見回すという行動をするのにも言葉が必要だったが、彼は少しづつこの工程に慣れてきていた。体を動かすことを言葉で思い浮かべること、それは徐々に自分に染み込んでいって、あたかも最初からそうしていたかのように操作できるようになってきた。辺りは花の星と空を舞う自分たち、そして地面で直立しながら目を瞑っている無数の人々の列。果てしのない向こう側へ目を凝らすが、終わりが見えない。

「象が歌って鳥が背骨のドラムを叩く、黒電話は文鎮のように鎮座して青い夜、アボカドの扉からホーンが鳴り響く」

 果たして、その夜に音楽がこだました。源一を同じくらい貧相な服を着ている男は黒電話の蛇口からスパゲッティをすすって食べている。そして尻を出して糞をすると、落下してまるで体操選手のように着地した。次第にそれが広がっていって、眠る人々の足元を這って行く。男はゲラゲラと笑って、手を叩いた、その音が音楽の拍を変え変調させる、フォクストロットからワルツへ、亜弓は源一の手を再び取る。

「怯えないで、言葉を開放して、それは口に出さなくても有効。ここではシーニュは解きほぐされる。それらの繋がりがちぐはぐに表されたり、ある意味を持った状態のものが不整合を無視して連結されたりする。私たちは自由なの」

「自由」

 源一は暗い顔をしていた、自分の身分、劣っていると感じる容姿、日の当たらない場所での生活、体から漂う臭い、そういったものが一丸となって心の中に蝟集する。もぞもぞと動く虫のようにそれが心臓を埋め尽くしてパンパンに膨れ上がってしまったようだ。源一はたまらなくなって口から虫の群れを吐き出してしまった。

「バッドトリップか」とスーツを着た男が哀れそうな目で源一を一瞥する。

「俺は、醜いんだ、俺は人と比べて劣っている、全てが上手くいかないんだ、音楽も誰にも評価されない、亜弓さん、俺はあんたに手を取ってもらうような人間ではないんだ、誰からも蔑視されている、俺の居場所はこんな美しい場所ではないよ」

 虫が内蔵を駆け巡って、耳や涙腺から溢れ出そうになるのを必死に抑えようとして顔がうっ血している。他の客はこれはもう駄目かと諦めたような表情で、それぞれに楽しく言葉を組み替えて遊んでいる。亜弓はふうとため息をつくと、源一の顔を両の手で挟んで優しく囁いた。

「以前、私はそうして人類は永遠の眠りについたを試していたとき、眠っているあなたを見つけた。そうして思い出したの、昔お父さんの会社の工場を見学しに下層へ降りたときのこと。そこは埃っぽくて、人々は汚らしかった、街は腐った食べ物の臭いとアンモニア臭で鼻が曲がりそうだった。私はこんなところ一分だっていたくない、早く帰りたい、とお父さんに言ったけれど、お父さんは、ここにいるのも人間なんだ、そういうことを言ってはいけないよ、と言った。私は到底信じられなかった。ここにいるのはみんな動物みたいに小汚い、うちのペットの犬のほうがずっと清潔に思えた。そしたら楽しげで軽快なリズムが聞こえてきた、音につられてその方へフラフラと向かっていくと痩せた男の子が道端に廃材を並べてドラムスティックで叩いてた。それが素晴らしくて私は感動したわ。ところがそうこうしているうちにお父さんとはぐれちゃった。泣きそうになっているとその廃材を叩いていた男の子が私の手を取って探しに行こうって言ってくれた。途中に怖い大人とかが私達を捕まえようとしたけれど、男の子がドラムスティックでぶん殴って守ってくれた」

「俺の家庭は最悪だったよ、親父は借金で遁走、母親はネグレクト気味、たまに思い出したように俺たちを殴る、お前たちは醜い、生まれてこなければ良かったってな。姉は春を売ってたけど俺を置いて家を出るためだった。俺の心の拠り所は音楽だけだった。近くの家に住んでる仙人みたいな爺さんがいたんだが、その人が俺に毎日味の変わるフォーを出してくれるんだ。で、そこでドラムの叩き方と、世界に溢れる音を音楽として捉えるという視点を教えてくれた。その爺さんがよく言ってたんだ、貧しくても人には良くしろって、翻っておまえの幸福につながるって。俺はその言葉だけを信じて生きてきた、俺は爺さんの言われたことを実行しただけだよ」

「それで私があなたを見つけた。私は見つけたのよ、下層の街で、ここで、SNSで、そうしてあなたとやっとまた会えた」

 ホーンとフルートが響き渡る、鳥が背骨のドラムを軽快に叩く、電話機がジリジリ鳴って受話器からコーラスが流れる、象が高らかに歌い上げる、ダンスパーティーだ。客たちはクジラや蝶、洗濯機など次々に姿を変えて踊る、これはパイプではない、二人を祝福するように輪を描いている、うっ血していた源一は顔が二つ三つにと増えていく、心にアンビバレンツな気持ちが渦巻いているのだ。亜弓はあやすように三つの頭を胸に抱きかかえる。「大丈夫、大丈夫だから」ただちに言語が源一の体に流れ込み、心臓を満たしていた虫が晴れていく、そしておずおずと手を伸ばし、亜弓を抱きしめると互いの体がほどけて行く、脊椎は絡み合い、内臓は重なり合い、顔は顔に溶けていき、長い蛇のように飛んで結ばれていった。

「ひゅー」

「見せつけますねえ」

 言語が遊び、踊り、紡がれて、世界は再定義され変容していく、その快感を彼らは感じていた。得も言われえぬ快楽、それは眠りについた人々の頭上で繰り広げられていた。

 やがて源一が目を覚ますと、亜弓も含め他の客はソファに寄りかかって眠っていた。喉がカラカラに乾いている、マスターは「どうぞ」とグラス一杯の水を出してくれた。源一は「ありがとうございます」と言って、手に取ると一息に飲み干した。現実感が薄い、先程のリアリティとくらべてどこか違和感を感じる、まるで皮膚に一枚コンドームのような薄皮があって、全ての刺激が他人事のようだ。

「まるで夢のようだ、と思いますか」

「え」

「あなたの違和感はここは現実ではないと感じているんですよ」

「確かに、今、俺は不思議と自分というものがここにある自分ではなく、そうして人類は永遠の眠りについたの向こうにあったあそこにあるのではないか、と感じています。あそこにはみんないた、みんないて眠っていた。俺たちは向こうの人々が見ている夢なんじゃないかと」

「薬の効果で見た夢が現実よりも刺激が強いというのはしばしばあることです、ですから、あちらこそ夢かと考えることもできます、もちろんこちらのほうが現実であると証明するものもありませんが」

「俺にはわからない、どちらが本当でどちらが夢なのか」

「そうですね、誰にもわからないことです、このカクテルを試した人だけがそういう疑問を持ちます。多くの人はこの感覚を知らずに生きていく。現実への疑念を抱かない分、その方が幸福である可能性もある。しかし、あの世界は魅惑的なものです。言語が意味と音で切り離された世界、自由で混沌とし、あらゆる感覚がリアルな世界。向こう側へはいつでも行けます、ご希望があればまたご案内致しますよ」

 亜弓が起きてきてあくびを一つ、カウンターに座って水を飲み干して、微笑んだ。

「胡蝶の夢ね」

 そして源一に唇を重ねた。それは熱く、ドラッグのあとの疲労感で冷えた体の芯を温めるような口づけであった。源一は目を閉じて、その感覚に集中する、確かにそこにある感覚、人のぬくもり、彼女の胸元から香るシダーウッドやムスクのような匂い、これが夢であっても構わない。

「あんたと一緒なら俺はどちらが現実であっても変わらないよ」

「あなたは私が見つけた最高の現実よ」

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