蕎麦屋 (改稿版)
日曜日。地元の商店街は正午を回っても人の姿はほとんどなく、閉じられたシャッターの列が寂しさを醸し出している。唯一開いているコンビニもやはり客はおらず、店員のひとりが暇そうにあくびをしている様がウィンドウに透けて見える。
そんな商店街を、直樹は一人、上着のポケットに手を突っ込んで歩いていた。この町に引っ越してきて2年。直樹はこの日曜日の光景に、未だに慣れる事が出来ないでいる。
商店街を抜けると大きな国道が横切っている。信号が変わるのを待って国道を横断し、そのまま直進。ほどなくして現れる長い坂道を20分も歩くと、左手に、とある寺へと続く参道が見えてくる。この寺はいわゆる観光地で、市街地から遠く離れてはいるものの、その賑わいぶりは比ぶべくもない。参道には団子屋や土産物、茶器や食器を売る店など、たくさんの店が軒を並べて、それぞれ看板娘が威勢のいい声を掛けては、観光客を自分の店へと引き込んでいる。
直樹は、あちらこちらと目移りしながらウロウロしている観光客をよそに、一軒の店の前で足を止めた。
蕎麦屋だ。直樹のお気に入りの店である。
店は古くこじんまりとはしているが、開放感がある。あらゆる障子窓が開かれていて、店内のどこからでも外を一望できるのがその理由だろう。また席はお座敷席がほとんどで、あぐらをかいて食事ができるというのも、直樹のお気に入りのポイントである。
直樹は外からひょいと中の様子を窺った。お座敷が空いているかどうかを確認するのだ。もしタイミング悪くお座敷席が埋まっていてテーブル席しか空いていないようであれば、彼は他のお店に行くか諦めて帰ってしまうかするのだが、今日は幸い空いているようだった。
のれんをくぐって靴を脱ぎ、お座敷に上がる。
お座敷には長い座卓が手前に1台、そこから奥に行くにつれて2台、2台、3台と4列に渡って置かれている。
座敷上がってすぐ右手には階段がある。どうやら2階席があるらしいが、直樹はまだ2階席に行った事はない。
直樹の特等席はお座敷席の2列目、左側にある座卓の奥の方だ。そこに座って、障子窓の桟に肘を乗せ、外を見るのが直樹は大好きなのだ。と言うのも、障子窓を隔ててすぐ目の前には小さな庭池があり、そこでは水車がゆっくりと回りながら、時折り小気味のいい水音を立てている。さらには鯉が何匹か放たれていて、ゆらゆらと泳いでいるさまは何とも気持ちよさそうだ。この景色を見ていると、まるで外界から隔絶された場所にいるような錯覚に陥って、直樹はひどく心が落ち着くのである。
その内に店員がおしぼりにお茶、そして蕎麦せんべいを持って来た。直樹はそこで初めてメニューを手に取ると、慣れた様子で冷やしとろろ蕎麦におでんとビールを注文した。
「おビールは先にお持ちしましょうか?」
「いや、一緒でお願いします。」
「かしこまりましたあ。」
そう言って店員は下がり、ほどなくして厨房の方から「とろろ~、冷やしでーす。それとおでん~」と、弾むような声がした。
食事を待っている間、直樹は蕎麦せんべいをポリポリとかじりながら、だいぶ柔らかくなってきた午後の日差しを感じ、水車の奏でる音に耳を傾け、白黒赤と色とりどりの鯉の泳ぐ姿をぼんやりと眺めた。
やがて蕎麦せんべいを食べ切り、少しばかり冷えてきた体をまだ熱いままのお茶で温めている所へ店員が食事を運んできた。店員は手際よく器を並べていくと、「ごゆっくりどうぞー」と言って去って行った。
直樹はまずビールをコップに半分ほど注いで一息に飲み干した。炭酸が喉に詰まる感覚がしたのとほぼ同時に、快感が一気に腹の底へと落ちていき思わずため息が漏れてしまう。
続けて直樹は、お椀に入れられたたっぷりのとろろに蕎麦つゆを含ませた。そして割り箸を手に取り、蕎麦をとろろにつけると、ズッ、ズズズッとすすっていった。ほんの少し硬めの蕎麦の食感が実に心地いい。また、つゆを含んだとろろには青のりがかかっていて、ほのかな磯の香りが鼻腔を抜けてゆく。おでんの大根を箸で適当な大きさに割ってひと口。思わぬ熱さにハフハフと息を漏らして、またビールを飲み、そしてふたたび蕎麦をすする。まさに至福の時間である。
そうして食事を楽しんでいると、不意に直樹の後ろの方から “いがらっぽい”大きな声が2つ聞こえてきた。声の感じと会話から、直樹は自分よりもかなり年上、おそらく40代には突入しているだろう男性の2人組だと推測した。
「部下が言う事を聞かないんで困ってるよ。俺らの頃はこっちから望んで残業してたっていうのになあ。」
「分かる。うちもそうだ。仕事がまだ片付いてないってのに、こっちに押し付けて帰っちまうんだから。」
直樹の顔がみるみるうんざりとしたものに変わっていく。こんな美味い蕎麦屋で仕事の愚痴話だなんて。直樹は溜息をついて「いやだねぇ仕事人間は……」と、ぼそりと呟いてまた蕎麦をすすった。
時折、外の風景に目をやりながらのんびりと時間をかけて食事を平らげると、湯桶(ゆとう)を手にした店員がやって来て「蕎麦湯はいかがなさいますか?」と聞いてきた。直樹はなんとはなしに辺りを見回してみて、さきほどの愚痴話の主たちがいつの間にか居なくなっていた事に気が付いた。それで清々したというような顔つきになって視線を元に戻し、「じゃあいただきます」と言って、湯桶を受け取った。
残ったつゆに蕎麦湯を注ぎ、直樹は少し熱そうにそれをすすりながらまた傍らの池に目をやった。鯉はあちらの方に行ってしまって何やらばちゃばちゃと音を立てている。その音に混じって、何やら外国語で歓声が聞こえてきた。どうも観光客が餌でも撒いているようだ。ここの鯉に餌をやっていいのかどうかは分からなかったが、少なくとも直樹がここを訪れている時に誰かが鯉に餌をやっているのを見たことはなかった。直樹はそのちょっとしたハプニングに顔をほころばせた。
それから1~2杯ほど蕎麦湯を味わってふと柱時計に目をやると、針はちょうど3時を指そうとしていた。直樹はあくびをしながら軽く伸びをして、伝票を手に立ち上がった。靴を履いて会計を済まし、外に出る。
この時間でも参道はまだ観光客で賑わっていた。その中を直樹は縫うようにして歩き、家路に着いた。しかし10分ほど歩いたところで、直樹は「そういえば」と声を上げて後ろを振り返った。見上げた先には木々の隙間から少しだけ顔を覗かせている寺の屋根部分があった。
もう何度もここを訪れているにもかかわらず、実は直樹はただの一度も参拝をしたことがなかったのだ。だいぶ前にその事に気が付き、それからは食事の前に参拝をしておこうしておこうと考えはするのだが、前回と、そしてまた今回もうっかりとその事を忘れてしまっていた。食事の前、というのは単純な理由からで、寺の境内に行くには長い階段を上がらなければならず、アルコール混じりの食後の身体にはなかなかに厳しい運動だからだ。
直樹は「またやっちまった」と深いため息をついた。しかし今さら戻る気にもなれず、直樹は肩をひょいとすくめると、ポケットに手を突っ込んで、少々落ち葉が目立つようになってきた坂をさっさと下っていった。
蕎麦屋 長船 改 @kai_osafune
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