蕎麦屋

長船 改

蕎麦屋 (旧版)


 日曜日。地元の商店街は正午を回っても人の姿はほとんどなく、閉じられたシャッターの列が寂しさを醸し出している。直樹はそんな商店街の中を一人、ポケットに手を突っ込んでさっさと歩いていた。

 商店街を抜け国道を横切り、緩やかな坂を約2㎞も歩くと、とある寺の入り口に差し掛かる。ここはいわゆる観光地で市街地からは遠く離れてはいるものの、その賑わいぶりは比ぶべくもない。寺のふもとにはたくさんの店が軒を並べて、看板娘が観光客に威勢のいい声を掛けては自分の店へと引き込んでいる。

 直樹は、あちらこちらと目移りしウロウロする観光客をよそに、一軒の店の前で足を止めた。 蕎麦屋だ。直樹のお気に入りの店である。

 店の中は和風オープンテラスとでも言ったような造りになっていて、こじんまりとした佇まいの割には開放感がある。また席はお座敷がほとんどで、あぐらをかいてそばを頂けるのも直樹のお気に入りな理由のひとつである。

 直樹は外からひょいと中の様子を窺った。いつもの席が空いているかどうかを確認するのだ。もしタイミング悪くその席が埋まっているようだと彼は他のお店に行くか諦めて帰ってしまうかするのだが、今日は幸い空いていた。

 のれんをくぐって靴を脱ぎ座敷に上がる。座敷には長テーブルが手前に1台、そこから奥に行くにつれて2台、2台、3台と4列に渡って置かれている。右手には階段がありどうやら二階席があるらしいが行った事はまだない。直樹の特等席は2列目の左側にある長テーブルの端っこだ。すぐ横には幅10mもないだろう小さな池、そして水車が設置されていて、鯉が何匹か放たれている。


 席に着きメニューを見ていると店員がおしぼり、お茶、そして蕎麦せんべいを持って来た。直樹は慣れた様子で冷やしとろろ蕎麦におでんとビールを注文する。蕎麦を待っている間、直樹は蕎麦せんべいをポリポリかじりながら、10月のだいぶ柔らかくなってきた午後の日差しを味わい、水車の奏でる音に耳を傾け、鯉の泳ぐ姿をのんびりと眺める。彼にとってこのひと時が至福の時間なのだ。

 そのうちに食事が運ばれてきた。直樹はまずビールをコップに注いで一口飲み、とろろ蕎麦をあまり音を立てないようにしてすすった。おでんのこんにゃくをハフハフとかじり、またビールを飲む。至福の時間、再びである。

 そうしてゆったりと食事を楽しんでいると、不意に直樹の後ろの方から”いがらっぽい”大きな声が聞こえてきた。背中越しなので顔は見えないが、声の感じと会話から直樹よりもかなり年上、おそらく40代には突入しているだろう男性の2人組のようだった。

「部下が言う事聞かなくて困ってるよ。俺らの頃はこっちから望んで残業してたっていうのに。」

「分かる。うちもそうだ。仕事が片付いてないのにこっちに押し付けて帰るんだから嫌になっちゃうよ。」

 だいたいこのような内容の会話だった。直樹の顔がみるみるうんざりとしたものに変わっていく。そして溜息をつき「いやだねぇ仕事人間は」とぼそりと呟いてまた蕎麦をすすった。

 外の風景を楽しみながらのんびり時間をかけて食事を平らげると、店員がまたやって来て「蕎麦湯はいかがなさいますか?」と聞いてきた。直樹はなんとはなしに辺りを見回してみたが、さきほどの声の主たちはいつの間にか店から出て行ったようだ。それで直樹は清々したというような表情で視線を元に戻し、店員に蕎麦湯をお願いした。

 残ったつゆに蕎麦湯を注ぎ、少し熱そうにすすりながらまた傍らの池に目をやる。鯉はあちらの方に行ってしまって何やらばちゃばちゃと音を立てている。その音と共に、何やら英語で歓声が聞こえてきた。どうも海外の観光客が餌でも撒いているらしかった。ここの鯉に餌をやっていいのかどうかは分からなかったが、少なくとも直樹がここを訪れている時に誰かが鯉に餌をやっているのを見たことはなかった。直樹はそのちょっとしたハプニングに顔をほころばせた。

 その後、1~2杯ほど蕎麦湯を楽しみ、柱時計に目をやるとすでに3時を過ぎていた。どうやら1時間半から2時間ほど経っていたらしい。直樹はあくびをしながら軽く伸びをして、伝票を手に立ち上がった。会計を済まし、靴を履いて外に出る。

 この時間でも外はまだ観光客で賑わっていた。その中を直樹は縫うようにして歩き、家路に着いた。すると10分ほど歩いたところで、「そういえば」と直樹は声を上げて後ろを振り返った。そして見上げると、視線の先には木々の隙間から少しだけ顔を覗かせている寺の屋根部分があった。直樹はもう何度もここを訪れているにもかかわらず、実はただの一度も参拝をしたことがなかったのだ。だいぶ前にその事に気が付き、それからは食事の前に参拝をしておこうしておこうと考えはするのだが、前回とそしてまた今回もうっかりとその事を忘れてしまっていた。食事の前、というのは単純な理由からで、寺の境内に行くには長い階段を上がらなければならず食後の身体には少々辛いことが予想できたからだ。

「またやっちまった」と深い息をつき、しかし今から戻って階段を上がる気にもなれず、直樹は肩をひょいとすくめると、ポケットに手を突っ込んで、少々落ち葉が目立つようになってきた坂をさっさと下っていった。



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