帰りたくなったら

穂(スイ)

第1話

母の容態が悪化したらしい。

会議室に向かう途中でケータイが鳴って、見ると姉からだった。なんとなく嫌な予感がして、休憩室で電話に出ると、「あのね、お母さんの意識が無くなっちゃった」と姉が言った。

電話から聞こえてくる姉の声は変に落ち着いた様子で、それはそういう日が来ることをずっと前から覚悟していたような、ぼくにこういう電話をすることがずっと前からわかっていたようなそんな風だった。


「リョウ、週末は帰って来られるんだよね?今週末が峠だって、先生が。」

「うん、土曜に帰る。」

「金曜の仕事終わりにはこっちにこれない?」

「ごめん。金曜は仕事遅くなりそうなんだ。土曜の朝イチの飛行機で帰るからさ。」

「そっか。そうだよね。お母さんにはリョウが来るまで待っててって話しとくから。なるべく早くね。」

「うん。」


電話を切ったあと、胸ポケットのタバコを取り出して火をつけた。体に悪いからタバコはやめなさいと前は母に会うたびに言われていたけれど、いつからか言われなくなった。それがいつからか明確な日にちは覚えていないけれど、その理由なら明確な答えがある。それは母が僕がタバコを吸っていることを忘れてしまったからだ。あんなに鬱陶しかった「いい加減タバコやめなさい」の言葉はきっともう母の口から発せられることはないんだと思うと、心臓がぐっと掴まれるような感覚になった。




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帰りたくなったら 穂(スイ) @sui_2022

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