中編
覚醒。
引き戻される感覚と、肌をかすめる空気の対流。
久しぶりの
「身体が、重い」
「そりゃあ、ずっと精神体だったからな」
すぐ傍で返ってきたエミルの声に、アラベルはドキリとします。
――あら? エミルの声って、こんなふうだったかしら?
夢の中で、あるいは現実世界で霊体として、エミルの声は聞いていたけれど、実際に耳で捉える彼の声は、アラベルの耳と心を震わせました。
なんだろう、心臓が痛い。
鼓動を、ひさしぶりに身体で感じるせいなのでしょう。心臓から押し出された血液が身体を巡る感覚すらわかるようで、肌が粟立ちました。
寒かったわけではないのですが、エミルが肩から上着をかけてくれました。
腕を通すと袖がずいぶん余ってしまうぐらい、大きな服です。あたたかいし、ふわりと漂う香りは、ちょっぴり薬草臭い。懐かしい、エミルの匂いです。
「立てるか? 無理はするな」
「やってみないと、わからないわ」
寝台に投げ出していた足を床につけます。足裏の感触に、ぞわぞわしました。
エミルが手を伸べ、アラベルはそれに導かれて立ち上がり、そのまま前へ。
「どうしましょう、エミル。ちっとも足が上がらないわ。足って重かったのね」
なにやら感激したように言うアラベルに、エミルは息を吐き、つづいてアラベルの身体を抱え上げました。横抱きにされたことでエミルの顔が近くなり、アラベルは思わずじいと彼の顔を見つめます。
「なんだよ」
「えっと、久しぶりだわって思って」
「ずっと傍にいただろ」
「現実の身体と霊体では感覚が違うのよ。これはきっと、その立場になってみないとわからないものだと思うわ」
アラベルは手を伸ばし、エミルの顔をこちらに向けます。そして、邪魔な前髪を掻き分けました。藍色の瞳は部屋の光を反射して、夜空の星のように輝いています。
――そうだわ、こんなふうに綺麗な瞳をしていたのよ。
十代のアラベルは、この瞳がとても好きだったことを思い出しました。前髪に隠れている瞳を覗きこみ、その夜空に自分の顔を映すことは、アラベルの特権だったものです。
そのことを懐かしく思い出していると、エミルは顔を
残念。もっと見ていたかったのに。
そっと息を吐くアラベルを抱いたまま、エミルは歩きはじめます。
視点の高さは霊体のときと同じですが、ふらふらと揺れる足の重さや、気合を入れないと倒れてしまいそうになる上半身は、どうにも慣れません。
「重くない? エミル平気?」
「おまえ、俺を莫迦にしてるのか。ガキのころと一緒に考えるなよ」
ともに遊んだ昔、体力不足をよく指摘されていたエミルは、すっかり大人になっていました。これも実体に戻って初めてわかったことです。
己を抱える腕の太さと、胸板の厚さ。肩もがっしりとしていて、首だって太いです。アラベルが覚えているエミルの、倍ぐらいの質量です。
「大きくなったのねえ、エミル」
「四十の男をつかまえて、なに言ってんだ」
「そうよね、そうだわ。私ってば四十歳になったのよね」
エミルの言葉に、アラベルは改めて実感します。
クラーラの呪いを肩代わりして、十五年。
本当の「眠り姫」になってからも、いちおう「運命の王子さまチャレンジ」は開催されていましたが、三十歳を超えたあたりから志願者は激減しました。そのころ、クラーラも隣国のエグモント王子と婚姻が成立したこともあり、世継ぎの心配もなくなります。
つまり、なんというか、国としても、あまり積極的ではなくなってしまったのです。さらにいえば、隣国はブランデンブルク王国と違って、お金が潤沢でした。資金援助が得られたのです。財政難に悩んでいた大臣たちは、コロリと態度を変えました。おいでませエグモントさま。
そうなるともうアラベルは、呪いを消化するために眠っているだけの存在。
霊体アラベルは、思ったものです。
暇だわ。眠り姫って意外と大変なのね。することがないって疲れるわ。
すこしだけ後悔しましたが、「私の代わりにごめんなさい」と泣く妹を慰めているうちに、これもまた人生だと思うようになりました。霊体であること、御邸から出られないことを除けば、たいした支障はないと考えたのです。
一見すると死人のように見えるアラベルの寝所は、観光スポット的に美しく飾られていることもあり、荘厳な雰囲気があります。寝台は、窓から射す光を効果的に演出できるよう配置されているため、すわ女神かといった空気です。誰もいないからと罪を告白してみたり、機密情報を吐き出してみたりするひとが続出です。
そのすべてをアラベルは記憶し、様子伺いにくる国王や宰相に事細かく教えてあげました。
霊体になったおかげか、不思議なモノも見えるようになりました。妖精は実在するのだと知れたことも、「呪い」のおかげでしょう。エミルが見ている世界に近づけたことも、うれしいことでした。
エミルに運ばれるまま御邸の広間に到着すると、そこには家族が勢揃いしていました。霊体では対面していましたが、やはり本当の瞳で見る家族は、年月を感じさせます。自分が四十歳になったように、彼らも年齢を重ねたのです。
「アラベル、長い間、ご苦労だった」
王を引退した父が言いました。
母はやっぱり泣いています。あいかわらず、泣き虫なようです。
「お姉さま、お疲れさまでした」
そう言ったのは、いまや王妃となった妹です。
彼女の膝上で目を丸くしている甥のジャンは、今年でたしか五歳。動いている伯母に驚いているのかもしれません。
「
義弟であり、この国を治める王となったエグモントは、さすが元大国の王子といった貫禄です。
これでよかったのだと思いました。
呪いが発動せず、アラベルが婿を取ったとしても、同じようになったとは思えないのです。クラーラだからこそ、結び、育んだ愛なのです。仲睦まじいふたりを見ていると、微笑ましい気持ちになります。
なごんでいると、クラーラの膝上にいるジャン王子が、首を傾げて問いかけました。
「ベルおばさまはおとななのに、どうしてまほうつかいさまのおひざにのっているの?」
大人たちは言葉を呑みこみました。そっと目を逸らせます。
ばつが悪くなったアラベルは、エミルに申し立てました。
「ほら、ジャンに笑われているわ。おろしてちょうだい」
「立つこともままならないくせに、ひとりで座れると思ってるのか? いいから、俺に支えられてろよ」
「そこを指摘されると反論が難しいわね」
ぐぬぬと口籠ったアラベルからジャンへ視線を移し、エミルは言いました。
「殿下、クラーラさまが殿下を膝に載せているのは、殿下を大切に思い、気遣っているからです」
「はい」
「つまり、私が殿下の伯母上をこうしているのも、同じことです」
「わかりました」
「理解が早くてなによりです」
魔法使いと王子は、納得したように頷きあいました。
アラベルは思わず口をはさみます。
「まあ、エミルったらジャンとそんなに仲良くなっていたのね。ずるいわ、私だって霊体じゃなかったら、もっと触れ合いたかったのに」
「……お姉さま、いま言及するところは、そこではないのではないかと」
「そうねクラーラ。ジャンはいずれこの国を背負う立場なのだし、魔法使いに弟子入りするわけにはいかないわよね」
「いえ、あの、そうではなくて……」
「それで、今後のことですが」
義弟がおもむろに話を切り出しました。アラベルの今後についてです。
ずっと眠っていた身体が馴染むには、それなりに時間を要するでしょう。しばらくは王宮で静養し、ゆっくりしてほしいと告げられました。
こんなに長く眠りについていた例はありませんので、世界魔法連盟的にもアラベルは注目されているのだとか。いずれ、調査員がやってくるようです。それらに関しては、エミルが対応を請け負ってくれるというので、安心です。魔法のことは、専門家にお任せです。
王宮に戻ったアラベルを、古参の使用人らは涙を流して歓迎しました。すでに仕事を辞めてしまった者たちも、噂を聞きつけて顔を見にやってきます。かつて、アラベルの侍女を務めていたメグに至っては号泣です。
「生きているあいだにアラベルさまにお会いできるとは、思っておりませんでした」
「……そうね、私もね、あとで気づいたのよ。クラーラが女の子を生まなければ、私ってばそのまま寿命を迎えていたのかもって」
「アラベルさま、身の回りのことはどうされているのですか?」
「それが、若いメイドたちは私のことを遠巻きにしているのよね。珍しいのかもしれないけれど、ちょっと窮屈だわ」
――
――母がアラベルさまと同世代よ。
――眠っているところ、子どものころに見に行ったことがあるわ。
――人形じゃなかったのね。
年若い彼女たちが生まれる前に、アラベルは眠りについているのです。
ほぼ幻の存在ですから、珍しくて仕方がないことでしょう。なにしろ、お伽噺の生き証人です。
苦笑いを浮かべるアラベルを見て、メグは拳を握りました。
「アラベルさま、私、現役復帰してもよろしいですかしら。幸い、子どもたちはもう手を離れておりますし、フルで働けます」
「まあ、メグ。もしかして、例の彼と結婚したの?」
「残念ながら違いますわ、私の初恋は実らなかったのですよ」
十代半ば、こっそり恋バナを繰り広げたのは、懐かしい思い出。
目覚めて以来、「呪いが解けた眠り姫」として見られるばかりだったアラベルは、ひさしぶりに「自分」に戻れたような気がして、胸のうちがあたたかくなりました。
眠っていたアラベルはともかく、きちんと生活していたはずのエミルまでもが王宮で騒がれている理由は、彼の容姿によるものかもしれません。
だらしなく伸ばしていた髪を整えたエミルは、大変整った顔立ちの美丈夫に変身を遂げたのです。素顔を知っているアラベルですら、思わず息を呑んだほどの美貌です。
それはきっと、服装のせいだと思いました。御邸にいたときのエミルは、薄汚れたローブをまとい、得体の知れない魔法使いっぽく振る舞っていたのです。
しかしいまは、王家に仕える側近の制服。その着こなしは、完璧でした。
――もっと小汚いおじさんだと思ってたわ。
――むしろ人間だったことに驚きよ。
――魔物のような耳や角が生えているって噂もあったわよね。
――まだお独りでしょ? じゅうぶん「有り」だわ。
廊下をゆっくり歩いていたとき、若いメイドたちが黄色い声をあげているのを耳にして、アラベルは心が騒ぐのを感じました。
まるで女の子のように可愛かった幼少期のエミル。
顔を隠すようになり、ぶっきらぼうになった思春期の少年エミル。
アラベルに付き添って、御邸で魔法をかけつづけていた青年期のエミル。
どのエミルもアラベルにとっては同じですが、素顔を知らなかった者たちが驚くのも無理はないのです。
髪を切って、身体に合った服を着こんだ壮年期のエミルは、かつてのあやしげな胡散臭い魔物から、年齢に応じた落ち着きを兼ね備えた紳士へ。
本当に立派になって……。
アラベルは、幼馴染の成長を喜びました。
それでいてすこしだけ寂しくもなったのは、なぜなのでしょうか。
それはきっと、置いていかれた気持ちになったから。
同じように御邸で呑気に過ごしていたのに、呪い期間が明けた途端、元の世界に溶け込み、先へ先へと進んでいくから。
追いつけなくて、寂しいのです、きっと。
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