第21話 神無月の夜④

「本当にもう大丈夫なの?」

 ベッドから立ち上がり、体の節々を確認するように動かす九朗へと声を掛ける彌月。

「問題はない、元々検査入院みたいなものだろう」

「それはそうだけど……」

 一通り確かめ終え、最後に拳へ力を込める。その視線がサイドボードに置かれた仮面へと注がれた。白く焼きのようなざらついた表面、目に当たる部位には四つの穴が穿たれた仮面。

「……どうしたの?」

「いや、何でもない。行こう」

 九朗は仮面を懐に仕舞い、病室を後にした。病院の前にはすでに百合が待ち構えている。

「来た来た! 退院おめでとーう!」

「……どうも」

 ぶんぶんと手を振って出迎える百合に対し、相変わらずの仏頂面な九朗に彼女の顔が少し引き攣る。

「あ、相変わらずテンション低いなぁ……まだ完治してないの?」

「治ってるんですよ、これでも。性格も診てもらった方がよかったんじゃないかしら」

「やめろ、鬱陶しい」

 小突こうとする彌月の手をどけながら、九朗は心底嫌そうに返す。百合の背後に停まっていた小型トラックのドアに手を掛け、肩をすくめる二人へ振り向いた。

「局長をを待たせているんでしょう、さっさと行きますよ。あの人の小言を聞かされたくはないでしょう」

「「はぁ~い」」

 彌月たちは声をハモらせ、しぶしぶといった様子でトラックへと乗り込んだ。


 夕刻。九朗達が訪れたのは、あのビルの屋上だった。

 すでにあの石塊や計測機器等も撤去され、タワークレーンも解体が始められている。それでもまばらに人影があり、そのなかに四谷と二条……そして叶の姿があった。

 叶は九朗の姿を認めると、ぱたぱたと歩み寄り会釈をする。

「先日は、どうも」

「……あぁ」

 ぶっきらぼうに返した九朗の頭を、今度こそ彌月は小突く。

「『あぁ』じゃないわよ、『あぁ』じゃ。どれだけ無愛想にすれば気が済むの、アンタは。命の恩人なんだしもうちょっと丁寧にやればどうなの」

「彌月さん、何もそこまでしなくても――」

「……いや」

 言いかけた叶を制しながら、九朗はふとため息をつく。そして彼女たちに向き直り、ぎこちなく、だが静かに頭を下げた。

「二人とも……俺をあそこから助け出してくれてくれたこと、礼を言う。ありがとう」

 まさか本当に頭を下げるとは、と一瞬呆気に取られていた叶だが、九朗を小突いた手をしげしげと眺めてからやがてぽつりと呟く。

「当たり所が悪かった――いや、よかったのかしら」

「……お前こそ、礼ぐらい素直に受け取ったらどうなんだ」

 渋面になりながら、呆れたように九朗は吐き出した。

「しかし……本当にやる気なのか、あんな計画を」

「今のところ、一番実効性がある――と私は考えております」

 一団の中から姿を現したのは、紙束を抱えた四谷だった。いつものスーツに加えてなぜか「安全第一」と書かれた黄色いヘルメットを被っている。

「この街にかけられた、卑神という存在を信じてしまいかねないという"呪い"……それを解くには、こういう策もアリかと。『卑神の存在を公表する』以外に代案があればお伺いしますが」

 その言葉にぎょっとする彌月達を尻目に、九朗は首を横に振る。

「いえ、特段ありません」

「……そうですか、もし良いアイデアがあればお教え下さい。それでは準備がありますので、これで」

 そう言い残し再び準備中の一団へと加わる四谷を尻目に、彌月が小声で九朗へと話しかけた。

「びっくりした。局長ってああいう冗談言うんだね」

「冗談?」

 忙しなく何事か指示を飛ばす四谷の背中を見ながら、九朗が呟く。

「俺には冗談じゃなくて、何度か本気で検討したことがあるように感じたが」

「……まさか。何のために?」

「分かるか、あの堅物の考えそうなことなんか――」

「惚れた誰かのため、とか」

 会話に割り込んだ叶の顔を、九朗達が振り返る。視線が集中し、叶が頬を赤らめて顔を伏せた。

「……すみません、失言でした。忘れて下さい」

「いやぁ~、まぁそういうのもアリなんじゃないかな。愛」

「いいと思いますよ、愛」

「無理にフォローしないで下さい、余計に恥ずかしい……」

「……いいんじゃないか。愛」

 百合や彌月に続いてぽつりと呟いた九朗に、その場にいた三人の視線が集中する。

「九朗さんは、そういう悪ノリしない人だと思ってたんですけど!?」

「知らなかった? コイツ結構意地が悪いわよ」

「……薄々そんな気はしていました」

 呆れたような口調の彌月に叶があっさりと同調する。

「急に矛先を俺へ向けるな。……まぁ、冗談は捨て置くが勤労意慾が服を着て歩いているような人間だ、そんな暇があるとは思えん」

「それでも、昔っからそうだった訳じゃ……」

「あるのかなぁ、局長に子供時代」

「あるでしょ⁉」

 ぼんやりと呟いた百合に、今度は彌月が突っ込む羽目になった。


(……そこまで極まった生き方をした覚えはないのですが)

 部下に指示を飛ばしながらも九朗たちの会話に聞き耳を立てていた四谷は、静かにため息を吐いた。そこへ同じくヘルメットを被った二条が歩み寄る。

「局長、準備が整ったとから連絡が――どうしました?」

 微妙な表情を浮かべている顔を見て、二条が首を傾げる。四谷は「なんでもありません。ただ職場でのコミュニケーションに、ちょっと――」と言いつつ曖昧な笑みを浮かべた。

「……よく分かりませんが、たまにはゆっくり休んでは如何でしょうか」

「善処致します。それでは始めましょうか、彼らにも声をかけてきて下さい」

 分かりました、と二条は言い残し、未だに話を弾ませる九朗達の元へ歩いて行った。



「時間ですね。それでは、始めて下さい」

 腕時計を見ていた四谷が顔を上げ、それに応じた外局の職員たちが一斉に指示を送る。送信先は新和町の各所。そして連絡を受けた者たちが一斉に行動を始める。

 最初に異変があったのは、四谷たちがいるビルの目の前だった。機械が駆動する音とともに光の群れが集まり、規則的な動きとともに虚空へ何かを描く。現れたのは光り輝く、巨大な"がしゃどくろ"だった。虚空が広がるしゃれこうべの眼窩で人々を睨み、威嚇するように手を広げて足元を払う。混乱して逃げ惑いながらも、はしゃぐような笑い声がビルの上まで届いた。

 がしゃどくろだけではない。一反木綿やぬりかべ、唐傘などさまざまな怪しいものたちが輝きながら空を練り歩く。それらは照明で飾られた、ドローンによるライトショーだった。そして人々のなかからも妖怪の姿が現れる。こちらはドローンではなく、本物さながらの特殊メイクを施された人々によるフラッシュモブである。

「……本当に、これで効果があるんでしょうか」

「要は常識では考えられない現象を目撃した時、卑神などではなく『この前のイベントの続きかな?』と思ってもらえればよいのです」

 訝しむ叶に対し、眼下へ細かい指示を続ける四谷が答えた。

「人間は自らの常識をそう簡単に捨てられる生き物ではありません。付喪神が発生しやすい土壌を作っている今こそが異常なのです、この『神賑わい』はそれを崩すきっかけとなるでしょう」

「神賑わい?」

 聞きなれない言葉を叶が複唱する。

「神事において、祭神に捧げる歌舞などの芸能です。いささか野趣に富んではいますが、まぁこういうのもアリでしょう」

「……そういうものだろうか?」

 ビルの屋上、手摺りに体をもたれかけていた九朗が呟く。疑わしさはあるものの、地上を歩く妖達へ向ける視線はまんざらでもないようだった。

「あんまり前のめりになっちゃダメよ、病み上がりなんだから」

「……分かっている」

 手摺りを離れ、腰を落ち着かせようとした九朗。その足がわずかに縺れる。倒れかけた寸前、その腕が掴まれた。彌月に掴まれたと思い「すまない」と言いながら顔を上げた九朗だったが、視線の先にいたのは彼女ではなかった。

「ちょっと、どうしたのよ。やっぱり無理して――」

 振り返った彌月が絶句し、異様な雰囲気に叶や四谷たちの視線が集中する。そしてようやく、屋上に姿を現した招かれざる者の姿を認めた。


「おかえり、九朗。ちょっと痩せたかな?」


 その声に嘘偽りを九朗は感じない。たとえその原因が自分だったとしても、その手で何人も道を踏み外させたとしても。混じりけのない心遣いができる――そういう女だと九朗は知っていた。

「――八雲」

「どうだった? 黄泉から返ってきた気分は」

 かつてこの街を卑神の生み出す恐怖に染めた女は、屈託のない顔で九朗へと笑いかけた。

「あぁ、再会をお祝いしたいところだけれどその前に。動かないでね? 叶ちゃん」

 すでに仮面を構えていた叶だったが、今は指先すらぴくりとも動かせない。いつの間にか八雲の指先を伝う糸が、その体を絡め取っている。

「ここにいる全員を鏖殺するくらい訳ないんだから、事を荒立てるつもりがないのは理解してほしいな。私はただ九朗との再会を喜びに来たんだから」

「どの口が……!」

「分かっているでしょう、九朗?」

 彌月と同じく体を硬直させている九朗の頬へと。八雲が手を触れる。

「私にとってはあなた以外、本当はどうでもいいって思ってることは」

「そんなだから、お前はナメてる相手に足元を掬われるんだ」

「……えっ?」

 呆けた表情を浮かべる八雲。その顔面に銃弾が突き刺さったのは、次の瞬間だった。



「――当たった!?」

命中ヒットです、お見事』

 二条の涼やかな声を聞きながら、鍾馗を着装した創一は三八式歩兵銃のボルトを操作して排莢した。地面に落ちた薬莢が涼しい音を立てる。「三八式」と名の付く通り明治38年に製造されたこの銃は、製造されてから100年を優に過ぎている。付喪神――卑神に有効打を与える武器としての能力を、十分に有していた。

 付喪神の発生を抑制するための神賑わいとはいえ、人々に効果を及ぼすには時間がかかる。創一はそれに備えて鍾馗を装備したまま待機していたのだが、今回は偶然それが功を奏した。二条はインカムを通し、観測手スポッターとして創一の狙撃をアシストしている。

「でも、こんな街中で銃撃なんて――」

『非常時です、後始末は局長に丸投げしましょう。ただ……今のが致命傷になるとは考えられません』

「命中したのに⁉」

『あれでくたばるようでは、まつろわぬ民の首魁など務まりません』

 耳元のインカムから聞こえる二条の声は、淡々と絶望的な事実を伝える。

『居場所がバレたスナイパーなど敵のカモです、急いで脱出を』

「りょ、了解!」

 銃をその場に置いて立ち上がる鍾馗。だがその強化された知覚は、確かに銃弾が命中したはずの小柄な少女がゆっくりと身を起こすさまを創一へと伝えていた。


「――ひょっほちょっとひっふいひはかなびっくりしたかな

 八雲の歯の隙間から覗くのは、鈍く輝く弾頭。音速を超えて飛翔する動体を、彼女は歯で以て受け止めていた。ぷ、と弾頭を吐き捨てて、それが飛んできた方向――鍾馗がいる位置を見上げる。自らが立つビルの隣、新和市で二番目に高いビルの屋上に、その姿を認める。

「ガラクタの寄せ集めかと思ったけれど、なかなかやるね。にしても銃か、油断したなぁ。石火矢で狙われるなんて何年ぶりかな? 次からはちゃんと警戒を……」

「あなたに次なんて――」

 その、がら空きになった八雲の後頭部を目掛け。

「ありません!」

 殻烏を纏った叶の、全力の蹴りが叩き込まれた。

 先程の銃弾は比べものにならない、命中すれば対物ライフル並みの衝撃を与える一撃。しかし八雲は片手でそれを受け止める。衝撃を伝えられた屋上の床に蜘蛛の巣状のヒビが走った。

「どしたの叶ちゃん、今日はご機嫌ナナメ? せっかく下ではお祭り騒ぎだっていうのに、もったいないよ?」

「あなたと会話する気なんて……!」

「ない? 私はあるのに、残念だなぁ。――茜ちゃんのこととか」

「――ッ、あなたという人は!」

 受け止められた足を支点に回転し、殻烏はさらに蹴りを放つ。その一撃を紙一重で躱して八雲は接近し、「分かってるんでしょ?」と囁いた。

「あれがあの子にとって、救いだったってこと」

「人の人生を弄んでおきながら、まやかすな!」

 側頭、延髄、胴、足元――続けざまに八雲の各部位を狙って放たれる殻烏の足刀だが、その全てが彼女に触れることはない。ゆらゆらと不規則に水面を揺蕩うような八雲の歩法が、彼女の予測を困難にしていた。

その子殻烏、前に戦った時と比べて随分とがないね。"先読み"もイマイチだし……本調子じゃないのかな? それとも――今の叶ちゃんにはそれが限界かな?」

「……舐めるなッ!」

 挑発に乗せられ、一際大振りの蹴撃が八雲を目掛けて放たれる。しかし見え見えの一撃を八雲は余裕を持って回避し――

「あなたの動きは読めなくても」

「……おや?」

 回避行動を取ったことによる、八雲の一瞬の隙。

の動きを読めれば、連携は十分だ!」

 振り向いた八雲の首筋を、燃える剣閃が薙いだ。

 零落神名帳れいらくしんめいちょうたたら。噴き上がる炎を纏い、紅く輝く直刀。斬撃と熱による同時攻撃が八雲の皮膚をわずかに裂く。

「偉いね。ちゃんと一緒に戦えるんだ」

 だが八雲が傷を撫でると、亀裂はすぐに塞がる。血の一滴すら流れた跡もない。

「これだけやって掠り傷もなしか、悪夢みたいな女だ」

 彌月に付けられた糸を介し、八雲には聞こえない声で九朗が呻く。

「今の、"不知火"の方がよかったんじゃないですか?」

「調息が間に合わないし、そっち殻烏にも当たりかねん」

「多少の無理も織り込まないと、多分相手にもしてくれませんよ。あの人」

 にこにこと笑いかける八雲を警戒しながら、距離を保ちつつ叶が答える。

「分かった。遠慮はなしだ――次は巻き添えにする気で行くぞ」

『ちょっと、巻き添えは前提にしちゃダメだからね!』

 糸を仲介していた彌月が思わず叫ぶが、すでに二人は駆け出していた。


「へぇ、次は一体何を見せて……」

 余裕を保った八雲の耳へ最初に届いたのは、凄門でも殻烏でもない。乾いた破裂音だった。咄嗟に音の発せられた方角――先程鍾馗が銃撃してきた隣のビルを振り向いた八雲だったが、その姿はすでにない。いたのは歩兵銃を構えた二条である。

(付喪神の寄せ集め、じゃない方?)

 八雲に浮かんだ疑問へ答えたのは、全く別方向から放たれた二発目の銃弾だった。今度は受け止める暇もなく、八雲の胸部を貫く。鍾馗――創一はすでに最初の狙撃地点から移動し、八雲の死角を移動して解体中のクレーン上層から予備の歩兵銃で以て銃撃を行っていた。

「やってくれるじゃない。私を相手にして生身で囮になるなんて」

 八雲の疑問に、無言の刃が答えた。白い炎――〈不知火〉を纏った直刀が八雲を目掛けて振り下ろされ、ビル屋上の床を抉る。わずかに触れただけなのに、炎の軌道にあったコンクリートの表面が跡形もなく焼失する。

 だが、それだけだ。炎が届く寸前に座標がずれたかのように八雲の姿は搔き消え、少し離れた場所に移動している。そして追撃した殻烏の踵を、片手で事も無げに受け止めた。

(……まずい!)

 "先読み"で己の運命を悟った叶は盾を構え、来たる衝撃に備える。そして次の瞬間、殻烏の体は八雲の細腕から放たれた一撃により吹き飛ばされていた。摩擦熱で焦げた掌をぱたぱたと振りながら、感心したように八雲が言う。

「残念、今のはちょっと本気で殴ったんだけれど」

「お礼でも言ってほしいんですか?」

 軽口を叩きながらも叶は腕の調子を確かめる。盾越しとはいえ、今の一撃は重過ぎた。そう何度も受け止められるものではない。

『……さっきの動きは何だ。"起こり"も予備動作も全く読めない』

『多分、糸を使ってるんだと思う』

 糸を伝って九朗と彌月の声が届く。

『床と自分との間に張力を溜めた糸を対になるよう仕掛けておいて、必要に応じて切断しているのよ。そうすれば逆方向に反対側に高速で移動できるわ』

『何だ、その出鱈目な技は』

『元から反則の塊みたいな人よ、一つや二つ増えたところで今更よ』

『先に糸を切っておくのはどうかな』

 クレーンの上で銃を構える創一も会話に加わったが、彌月がかぶりを振る。

『あの人、歩きながら糸を張り続けてるわ。一本や二本切ったくらいでは』

『同時にまとめて処理できればいいんだが、そんな恩頼は――』

『九朗さん』

 名前を呼ばれ、顔を上げた視線の先で殻烏が盾を指差した。そして二言三言続ける。

『いいのか、それだと加減はできないぞ』

『加減できる相手じゃないでしょう、思いっ切りやって下さい』

 しばしの逡巡の後、吹っ切れたように九朗が続ける。

『……分かった。君を信じる』

 凄門と殻烏は己の得物を構え直し、再び八雲へと対峙した。


「内緒話は終わった? あんまり仲間外れにされると他の人に遊んでもらうよ」

 どの程度本気なのか、ビルにまだ残っている神祇院外局の職員へ向けて指を伸ばす八雲。それに答えず、凄門と殻烏とが八雲を目掛けて突進する。凄門の動きがこれまでよりも格段に加速しているのは、身体機能を強化する零落神名帳「累祀かさねまつりて火車かしゃ」によるものだった。

続祀つづけまつりて・不知火!」

 急襲した白い炎、同時に背後からは殻烏の足刀。八雲は先程見せた特殊な歩法で、そのどちらも回避する。だが八雲が回避する方向は殻烏――叶がすでに"読んで"いた。

 不知火の炎を纏った凄門の直刀は勢いを失わず、殻烏が構える盾に直撃した。そして反射した炎が迸るその先にいるのは、挟撃を回避したはずの八雲。

「……へぇ?」

 炎を浴びた八雲だったが、その体には火傷一つ負っていない。炎が焼き払ったのは、彼女が張り巡らしていた糸だった。四方八方へと延焼する炎の中心目掛け、返す刀で再び凄門が不知火を纏った直刀を振るう。

(これで先程のような回避は!)


「できないって、そう思った?」


 ……手応えは、あった。だが想像していたものではない。

 直刀から伝わるのは、直刀で同じような金属か、あるいはもっと硬度の高いものを殴ったような反応。

「九朗は本当に強くなった。あの"孔"の中で得たもののお陰かな? 叶ちゃんも前ほどではないけれど、殻烏が段々と鋭くなってる」

「神威顕装……⁉」

 背後で叶が呻く。あらゆるものを焼き斬ってきた白炎の刃は、八雲に受け止められていた。彼女の姿が変質している。直刀を受け止めた右腕を中心に銀色の外骨格で覆われ、背中からは節を備えた刃物の如き二本の巨大な脚が生えている。

「でも、それじゃあダメ。それだけじゃあダメなんだよ。私は倒せない。

 私はまつろわぬ民が首魁、"土蜘蛛"の八雲。神代も人代も絡め取り、喰らい、我らが統べる御代を作る――そういうモノよ」

 べきり、と直刀が音を立ててへし折れる。

「九朗さん、離れて!」

 刃を握る反対側、未だ人の形を多く残している八雲の左半身を目掛けて殻烏が突き刺すような蹴りを――


「控えよ」


 蹴りを、放っていたはずだった。だが一瞬の後、殻烏は床へと叩き付けられている。

(何が起こったか、全く"読め"もしなかった……⁉)

 起き上がろうとするも力が入らない。一体どこに、どのような一撃を加えられたかすら定かではなかった。神威顕装が解除されなかったことが奇跡に感じられる。

「この……!」

「創一さん、駄目!」

 百合の制止も聞かずに引き金を引いた創一だったが、次の瞬間鍾馗の腕の中で歩兵銃が爆発した。暴発ではない、八雲が銃弾を受け止めて歩兵銃の銃口へと投げ返したのだ。

「寄せ集めのガラクタ風情が、不敬でしょう」

 鍾馗の体も飛来した不可視の糸により絡め取られ、ビルの屋上へと叩き付けられる。

「山科!」

『大丈夫、まだ息はあります……!』

 創一のバイタルを測定していた百合が、振り向いた凄門へと応える。だがその頤へと八雲の手が伸び、強引に己の方へと向かせた。さほど力をこめている風でもないのに、凄門の顔は固定されたかのように微動だにできない。銀色に輝く鋭い指の先が、まるで粘土を抉るかのように凄門の顔へと食い込む。

「さぁ、九朗。あとはあなただけだよ? もっと頑張らないと、次は――」

「何を焦っている?」

 その時。人の形をした災害とまで称された女が急に浴びせられた、たった一言の疑問。まるで職場の同僚にでも投げかけるかのような、世間話が如き一言。それだけに八雲の虚をつくには十分であった。九朗は己の顎にかけられた指が、その瞬間ほんの少しだけ震えたのを感じていた。

「……なんですって?」

 底冷えする声が目の前の八雲から発せられる。それでも九朗は、問いかけることを止めなかった。

「あの窟に引きこもり過ぎて、取り繕い方も忘れたか? もう一度言う。お前は何を焦っている? 殺したければ今すぐここにいる全員を皆殺しにできるくせして、わざわざ俺たちの前へ煽るように姿を現して……神代から長生きしている『まつろわぬ民の首魁』が、随分と人間臭いじゃないか」

「……人間風情が、言うじゃない」

「化け物だよ、俺は――お前と同じでな!」

 八雲がのけぞり、その一瞬後を"不知火"が纏わり付いた直刀が薙ぐ。傷を負わせることは叶わなかったが、八雲の指が凄門から離れた。

『叶はまだ動けるか』

『辛うじて、ですが』

 砕けた外壁の破片の中から殻烏が身を起こす。

『あいつはあからさまに俺をいるが、素直に斬られてくれるとも思えん。注文通り斬ってやる義理もないから、なんとか一度隙を作ってくれ』

『……けっこう無茶を仰いますね』

 糸越しにでも、叶の呆れた様子が九朗へと伝わる。

『上手くいけば、自分が世界の中心だと勘違いしている女に一発キツいのをお見舞いできる』

 九朗がそう言うとしばしの逡巡の後、叶が諦めたようにため息混じりに言葉を続けた。

『そう言われたら、やるしかないでしょ』


 さて、と八雲は凄門を見据える。炊き付けた甲斐もあり、九朗はまだ諦める様子はないようだ。とはいえ侮られたまま帰るのも癪に障る。

「可哀想だけれど、一発くらいは本気で殴っておこうかしら」

 それで生き延びれば良し、死ねばそれまで――あの"くちなわ"に見初められたのだ。一発で死ぬような無様は晒すまい。そう大雑把に見積もった八雲は銀色の外骨格に覆われた右手を振り上げた。

「不遜には罰を以て応じるのも、務めでしょう?」

「死ぬまでそうやって勘違いしてろ、蜘蛛女」

 ゆらり、と蜃気楼のように八雲の脚が揺れる。瞬きほどの間にその体は凄門の眼前へと間合いを詰めていた。動作の起こりを察知させないその歩法に九朗は全く反応できず、振り下ろされた八雲の拳が鼻先へ迫った瞬間にようやく体を硬直させる。

(ほら、全然反応できてないじゃない)

 腕か、脚か。掠めるだけでそのいずれかを抉るほどの力がこめられた手刀が凄門へと迫り――


 八雲の足元が崩壊した。

「なッ……」

 手刀が凄門の直刀を叩き落し、ひしゃげた白刃が崩壊したビルの内部へと落ちていく。だが、それだけだ。九朗に致命傷を与えるには至っていない。

 そして。

「今だ、創一!」

 ビルの内部からうねる何かが迸り、八雲の体を拘束する。

「これは……注連縄⁉」

 彼女の体を縛り上げたのは、先日"孔"から九朗を引っ張り上げるのに使用された注連縄だった。その端を握るのは、八雲の眼を盗んで糸の拘束を脱していた創一である。

「これ、ただの縄じゃない?」

「出雲で百年保管されていた注連縄だ、たっぷり有り難がれよ」

「……無礼るなよ、たかが百年ひゃくとせ如きの神威で!」

 いかに神威がこもった縄であろうと、八雲を拘束し切るには十分ではない。ばつん、と大樹の根を引き千切るような音とともに縄が千々に裂かれる。

 だが、その僅かな間が明暗を分けた。

「――叶ちゃん」

 引きちぎられた注連縄が八雲の視界を奪い、その瞬間に接近していた殻烏が拳を構えて身を沈める。

「あなたのこと、一度でいいから思いっきりブン殴ってみたかったんですよ」

 音を置き去りにする速度で、殻烏の拳が静かな怒りとともに八雲の胴へと突き刺さる。体を覆う外骨格を砕くには至らなかったものの、その体を空高くへと弾き飛ばした。そして上空から見下ろした八雲の視界に入ったのは、炎を携えた凄門の姿。

 彼の手には直刀とは異なる、炎を纏った一振りの剣が握られていた。古い、とても古い時代に振るわれた、両刃の剣。その刃の根元からは枝のように一本の刃が飛び出している。

――そうよ。それでいいの。

 朧気に光るその炎を見つめ、八雲はただそう独りごちる。己を害そうと今、その力を高めつつある炎に、今すぐその身を晒しそうになる。"御"で炎を受け止めれば、この長い、長すぎる生も終わりを迎えるだろう。

「でもね、まだ駄目。私の願いを成就させるのに、その炎はまだ至らない。だから――」

「零落神名帳断簡――汝、八俣遠呂智やまたのをろち也!」

 ビルの上空に広がる夜空を、炎が真一文字に斬り裂いた。


「やった、の?」

「手応えは、あった。だが――」

 呆けたように呟く彌月へと応える九朗。だがその声を、からんという軽い音が遮った。

「九朗、その体……!」

 彌月の視線の先で凄門の体が崩壊し、九朗の姿が露わになる。音を立てたのはその顔から剥がれ落ちた四ツ眼の仮面だった。その顔には疲労が色濃く、立つ力もままならぬと言うように膝をついた。

「体への負担が大きいでしょう? まだあの炎を宿すのに十分ではないのよ、九朗は」

「……お前ッ!」

 声に顔を上げた九朗の視線の先。いつの間にか降り立っていた八雲の姿が、そこにはあった。だがその右半身は炎で炙られたような傷を負っており、特に右腕は肘から先が完全にしている。

「"くちなわ"の炎は確かに強い……けれど、私の命に手をかけるまでにはまだ至っていないわ」

「吐かせよ、蜘蛛女が」

「強がるんじゃないの、満身創痍じゃない。それとも……本当に誰か死ぬまでやるつもり?」

 八雲の言葉とともに、見えない重圧が九朗たちへと向けられる。指先すら動かすことを許さない圧力に対し、九朗は言葉を続けることができなかった。

「とはいえ私もこんなざまだし、今日のところは退いてあげる。それでね、私考えたの。九朗を鍛える方法!」

 場違いなほどに明るく弾む声に、誰一人として疑念を挟む余地はない。手負いとはいえ――いや、手負いだからこそ、目の前にいる災害を刺激するべきではないと誰もが確信していた。

「これから、九朗にぶつけるための卑神憑きを増やすの。今度は人任せにしない、数もいらない。少数……セイエイ?だっけ、とにかくとびっきりのを揃えてあげる!」

 ぎしり、と九朗の横で殻烏の拳が音を立てて軋む。その脳裏に浮かんでいるのは、かつてこの場所で死んだ少女のことだろう。今すぐにでも八雲に飛び掛かりそうな雰囲気を発していたが、それを抑えるだけの理性はまだ彼女にも残っていた。

「だから、九朗――死なないでね」

「待て……!」

 九朗の言葉に応じず八雲はビルの縁へと歩を進め、まるでスキップを踏むかのようにそこから身を躍らせた。無論いつまで経ってもビルの下から何かが落ちた音もせず、どうにかして無事に着地したのであろう。

「上等だ、クソ女が」

 聞く者はすでにいないが、九朗は敵意を以て吐き捨てる。


「必ず報いを受けさせてやる」

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卑しき神の名において 棺桶六 @dobugami

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