第20話 神無月の夜③

「叶さん、そっちに行った!」

「了解です!」

 彌月からの伝声の直後、ビルの陰から飛び出してきたのは手足が生えた巨大な灯篭だった。屋根の上には生首が乗っており、口から炎が漏れている。冗談のような見た目であったが、叶――殻烏に向ける敵意だけは本物だった。

 格子戸が開き、中の炎を殻烏に向けて噴射してくる。跳躍した殻烏は縮こまってを狭めながら盾を眼前に構えた。一直線に放出される炎は路地裏を昼間のように照らしたが、殻烏の持つ磨き上げられた盾の表面に歪み一つ生むことはない。間近に迫られた灯篭は後ずさり、格子戸を閉じようとしたが、それより早く殻烏が戸に手を掛ける。

「『御』は……そこか!」

 灯篭の内部には、頭部と反転するような位置に擬宝珠が据え付けられていた。殻烏はそれを手刀で貫き、内側から握り潰す。ぎぃ、と獣じみた呻き声を上げた後、灯篭の体が墨のように黒一色の液体と溶けて地面へ染み込み消滅する。後に残されたのは気絶した一人の女性と、小さな古びたランタンだった。

「無力化しました、付喪神も確保です」

 灯篭を拾い上げ、糸づてに彌月へと報告する。じきに灯篭を追い込んでいた彌月もその場へ姿を現した。

「叶さんがいてくれて助かったわ、今度のは放っておくと被害が大きそうだったし」

「初出勤にしては、上首尾だったんじゃないでしょうか」

「……でもよかったの? 外局うちの仕事なんて引き受けて」

「もちろんです!」

 そう屈託のない笑顔で言われ、彌月は閉口するより他になかった。


 先日、九朗を"孔"の中から救出して三日。叶は神祇院外局との間に、卑神憑きとしてパートかアルバイトのような形で不定期に力を貸すという契約を交わしていた。

 出動するのは危険度が高くないと思われる案件に限り(それでも卑神等が関わる異常、危険がないとは言えないのだが)、必ずサポートとして彌月が同行する。交通費や食費、その他経費はすべて外局が負担。出動したとして、卑神やそれに類する対象との戦闘がなくとも時間に応じて報酬が発生する。また学生という身分に鑑み、午後10時以降は保護者の許可が必要となった。

 そして驚くべきことに、契約を結ぶため局長の四谷が叶の養父母に交渉へ赴いていた。

 当然卑神のことは一般人である彼らには説明できないため大半を秘匿したままとなったが、「類稀なる才能を持っている」「人命救助に欠かすことのできない人材」「絶対に危険な目には遭わせない」という長時間の説得が功を奏し、叶は無事養父母の許可のもと神祇院外局への所属が認められた。

 今回は、叶の「初出勤」であった。


「ところで、百合さん達はどうされたんです?」

 叶から受け取ったランタンを金属製の箱に納めながら、彌月が肩をすくめた。

「昨日も出動したばっかりで、鍾馗の修理が終わってないんだって。あっちは卑神と違って放っておいても治る部分と、そうでない部分があるから。暇な時間は別な仕事に駆り出されるんだって」

 話しながら彌月は携帯電話を操作する。神祇院外局の職員達に連絡したのだろう、灯篭にされていた者を保護するためにやって来るはずだ。

「大変なんですね、創一さんも」

「本人はそっちの仕事も嫌いじゃないみたいだけれどね。彼は元々『こっち側』の人じゃないし」

「こっち側?」

「卑神に関わるような人間じゃないってこと。色々あってスカウトされたんだって、『鍾馗』 に適性があったとか」

 (適性……街頭テストでもしたのかな)

 一人でそんなことを考え込んでいる叶を見て、彌月が遠慮がちに「あの……ごめんね、九朗のこと」と切り出した。

「……まだ目を覚まされないんですか」

「お医者さまの話だと体調に問題はないから、後は本人の気力次第みたいなんだけれど。……話したいこと、あるんだもんね」

「大丈夫です、きっと。ちゃんと起きますよ」

「……そうだね、そろそろ起きてもらわないと。みんなに色んなことを任せっきりだからね」

「私はまだまだ任せてもらって大丈夫ですよ?」

 いたずらっぽく笑う叶を彌月が小突く。その軽口が自分を励ますためのものだと、彌月は気付いていた、

「調子に乗らないの、まぁ……強いのは承知してるんだけれど」

「でしょう?」

 胸を張る叶を見て、彌月も吊られて笑みを浮かべた。



 目蓋を開くと、見知らぬ部屋が目に入った。寝かされていたのは白一色、清潔だが固さの残るベッド。ブラインドから差し込む柔らかな光から、今が月夜だということに気付く。指先から力を入れると、関節が油を指し忘れた蝶番のようにぎしぎしとぎこちなく動く。息をしようとして乾いた喉が痛み、激しく咳き込んだ。

「ここは……」

「病院ですよ」

 いつからいたのか――いや、最初からずっとそこにいたのだろう。ずっと自分が目を覚ます時を見張っていたのだと、九朗は当たりを付けた。

 病室の隅、光の当たらない一角。陰の中に沈むような色の学生服を着て、叶がそこに座っていた。瞳だけがわずかな光を反射するように目立ち、九朗をじっと見つめている。

「九朗さんがあの"孔"から助け出されて、今日で五日目です」

「……もう、そんなにか」

「随分と待たされました」

「まさかとは思うが……」

「毎晩来ていましたよ。場所さえ分かれば忍び込むのは簡単でした」

 叶は懐から仮面を取り出す。黒く輝く、殻烏の仮面だった。その反対側の手で水の入ったペットボトルを渡され、九朗は一口含む。一息ついてから、叶を見上げた。

「目が覚めて最初にお話しするのが、彌月さんじゃなくて私でガッカリしましたか?」

「……いや、アイツなら大丈夫だろう」

「そういうこと、絶対本人に言っちゃ駄目ですよ。手遅れになる前に自分の考えはちゃんと伝えた方がいいです」

 九朗はふん、と鼻を鳴らし「善処する」と応えてからペットボトルをサイドボードに置いた。


――生き残れたらあなたと……ちゃんと話をさせて下さい。


 姿を現した「くちなわ」を撃退する直前に聞いた、叶の言葉を思い返す。そして"孔"の中の闇で、ずっと考えていたことを口にする。

「話、というのは――朱田すだあかねの、彼女を殺した時のことか」

 その言葉に、叶が息を呑むのが伝わった。返答はないが、小刻みに震える彼女の唇が言葉以上に伝えている。

「やはりか」

「……そうです。どうしてあの時あなたは、私を――」

「君をひだるで斬り付けて力を奪い動けなくしたのは、朱田茜を殺めることに手を貸させないためだ」

 わざわざ言われるまでもない。彼からその言葉を引き出したかったのは、なぜ「斬り付けたか」ではなくなぜ「茜の元に行かせなかったのか」を訊くためだ。

 その言葉にごまかしも、嘘偽りもない。先ほどまで死んだように眠っていたのに、彼の言葉には明確な意志がこめられていた。こちらを苛立たせたいからではない、言うべきだから言ったのだ。分かっている、分かっているはずなのに。叶は自分の声が荒ぶるのを止められたい。

「どうして、そんなことを!」

「どうして?」

 暗がりから出て、ベッドに詰め寄る叶を見上げ鸚鵡返しに応える。

「質問を質問で返すが、ならなぜ君は彼女を殺そうとした」

「それが正しいから、あの時の茜ちゃんを……『祟り』となった彼女を止めるにはそれしかなかったからです」

 やっぱりか、と九朗は内心呟く。

(この子は……正しいからと、それを迷いなくやれてしまうんだな)

「あの時、茜ちゃんを止められるのは私と九朗さんしかいなかった、だから――!」

「『止められる』じゃない、『殺せる』だ」

 九朗の言葉に叶が押し黙る。

「卑神なんて名前が付いてはいるが、俺も君も化け物だ。人間なんて、俺たちの気紛れで児戯のように殺せる」

「だからです。だから私たちは力ある者の責任として、個人ではなく秩序のために自分を殺して――」

。秩序や倫理なんかに委ねるんじゃない、俺たちは自分の意志で殺すんだ。でないと……正しさなんてものに任せて人を殺せる奴は、いつか自分の意志を正しさにすり替えて他人を殺すか、正しさ故に自分を殺すことになる」

「だから!」

 一際大きな叶の声が病室に響き渡る。その後の静寂は破られることなく、彼女の声は看護師等には聞き付けられなかったようだ。

「だから、そうさせないために私を行かせなかったって、あなたはそう言うんですか!」

「……いや、もっと単純だ」

 ふ、と九朗の口角が上がる。笑ったのだ。「君に友達を殺させたくなかった」

「勝手なことを……!」

「勝手な言い草だよな。自分は殺しておいて他人にそれを許さないなんて」

 叶が言葉に詰まる。自嘲気味にそう言う九朗の「自分は殺して」が一体何を意味するのか、意味するのかを察してしまったからだ。先ほどのは微笑みなどではなく嘲笑。その笑みが自分ではなく九朗自身に向けられていることは、叶にとって明白だった。

「どんなに言い繕っても、俺が朱田茜を殺したことに変わりない。恨みたいなら恨めばいい。仇を取りたいなら、八雲あの女を殺した後にいくらでも――」

「恨みたいです。あなたなんか大っ嫌いだって、言いたいんです」

 叶の頬から落ちた雫が、ベッドのシーツに跡を残す。その時ようやく九朗は彼女が泣いていることに気付いた。

「でも恨めない、嫌いになんてなれない。あなたに……あの時、命を助けられたから!」

 堰を切ったような言葉を終え、叶が肩で息をする。流れ続ける涙を学生服の袖で拭う彼女の姿は、醜く哀れな化け物などではない。ただの少女だった。


「……悪かったよ」

 叶の涙が収まった頃、ばつが悪そうに九朗が呟いた。

「意地の悪い言い方をした」

「……いいえ、私も不躾な物言いをしました」

 泣き腫らした叶の眼が九朗を見据える。その視線に耐えられず彼は目を逸らした。そのまま沈黙を保っていると、叶が「あなたの傍で、学ばせてもらいます」とぽつりと呟いた。

「あなたが本当にただの人殺しの化け物なのか……それを見て、私がどうするべきなのか」

「俺の傍で?」

「九朗さんが寝ている間に、神祇院外局でアルバイトとして雇ってもらいました」

「……あの局長オヤジめ、正気かよ」

「人手が足りないと聞いています、反対はされませんよね?」

「俺にそんな権限はないよ、残念だが」

 そっけなく言い放ち、諦めたようにベッドへ身を投げ出す九朗。彼に背を向け、叶はがらりと窓を開いた。

「……まさか、毎回そんな方法で出入りしていたのか」

「こんな時間に正面から出入りしろと?」

「次からはそうしてくれ、ただし面会時間中にしろ」

「善処します」

 九朗の返事を聞く前に叶は仮面を額に押し戴く。その体が殻烏への神威顕装を終える前に窓へ足を掛け、その身を宙へ躍らせた。

「危ないぞ……って、言って聞くようなタマじゃないか」

 窓の下からは何かが落ちるような音もしなかったため、無事に殻烏となって病院ここから離れたのだろうと判断する。

「本当にバイトをするつもりなら……そういう真似をやめることから教えないとな」

 その時、がちゃりと病室のドアが開き人影が入って来る。胸元に荷物を抱えたその姿――彌月は、室内の長椅子に歩み寄り、そしてようやくベッドの上に九朗が身を起こしていることに気付いた。

「……おう」

 九朗に向けられた目が大きく見開かれ、胸元に抱いた荷物がどさりと音を立てて床に散らばった。コンビニ袋からペットボトルや軽食が覗いている。続けて話そうとした九朗の顔面に――おにぎりが飛んできた。

「うわッ、何だよ急に!」

「ふさけんじゃないわよ、『ごめん』って何よ!」

「何の話……ああ、いやアレは――お前も泣いているのか?」

「……お前?」

 ペットボトルを掴んだ彌月の手が止まる。まずい、と思った時にはすでに遅きに失していた。

「お前もって、私以外の誰よ。何をやらかして、誰を泣かせたのよ? 『ごめん』ってどういう意味よ⁉」

「せめて一つずつにしてくれ……!」


 ――開け放たれた部屋の窓から聞こえてくる喧噪をしばらく聞いていた叶は、ほんの少しだが留飲の下がる心地だった。

「やっぱり、ちゃんと話した方がいいんですよ。そういうことは」

 屋上から飛び立つ殻烏の背へと、九朗達の大声はその後しばらく続いていた。



 意識を取り戻した九朗の病室には、神祇院外局の職員たちが立ち替わり入れ替わり訪れた。

「お元気そうで安心しましたよ」

「……ご心配、どうも」

 二条を伴って顔を見せた四谷も、そのうちの一人だった。

「確か病院に運び込まれた時に外傷はなかったと聞いていましたが、その顔は……?」

「気にしないで下さい」

 頬に引っ搔き傷が残った九朗は、傍らに立つ彌月を睨みながら言った。当の彼女は何のことやらとでも言いたげに視線を逸らす。ため息をつき、正面へと向き直った九朗の顔を見て四谷の眉が上がる。

「何か言いたげな表情ですが……。御崎さんのことでしょうか」

「話が早くて助かります。雇ったそうですね」

「断る理由はありませんでしたから」

「あんな化け物どもの相手をさせないことに、理由が必要ですか?」

「看過すれば人が死ぬどころではなくなるということは、彼女の方がよく理解しているようなので。……その話は、またいずれ」

 叶がこことは異なる世界から訪れたことを知るのは、今のところ神祇院外局の中でも四谷と二条のみである。当然、つい先日まで"孔"の中にいた九朗は知る由もない。四谷に言外の含みがあることは承知したものの、それが彌月を雇い入れたことを納得させるには不十分であった。

「反対する権限がないことは百も承知で言いますが、それでもはやり命のやり取りをすることになりかねないような場所には立ち入らせないのが年長者の立場というものではありませんか。危険度の低い仕事を割り振るつもりでしょうが、時には命を奪うことも彼女に強いるおつもりですか」

「詭弁に聞こえるでしょうが、我々にはそうまでしてもやり遂げなければならない責務があると考えています」

「我々?」

「私、御崎さん……そして十津川君。あなたにもです」

 四谷に向けられた視線を、九朗は沈黙で以て受け止める。しばし睨み合っていた二人だが、先に目を逸らしたのは九朗だった。

「ところで、御崎さんはしばらくあなたに任せます。卑神の対処にあたり、あなたと彌月さんとで教示してあげて下さい」

「……戦力的には、創一達と組ませた方が適任では?」

「彼らは卑神憑きではありませんので。卑神を導くのは、同じ卑神が適任でしょう」

 しばし眉間に皺を寄せていた九朗だったが、あきらめたように長い溜息をつく。

「……分かりました。復命でもしましょうか」

「結構です、我々は軍隊ではありませんので。彌月さんは時間が空いたら一度外局に顔を出して下さい、御崎さんの指導について御相談がありますので、それでは」

 返答に満足したのか、四谷は見舞い品の箱をサイドボードに置いて二条とともに部屋を退出する。ため息とともに九朗が箱を開けると、中からゼリーの詰め合わせが姿を現す。

「じきに退院できるってのに、こんな量食えるか」

「いいじゃない、アンタ一人で食べなきゃって決まりでもないし」

 そのうちの一つを手に取りながら彌月が窓の外へ視線を向けると、駐車場に停められていた車に四谷たちが乗り込むところだった。440iカブリオレ、幌を下ろしてはいるものの凡そ公用車には適さないオープンカー。四谷が後部座席の扉を開け、二条が乗り込んだ後に彼は運転席へと座る。

「珍しいわよね、ああいうのって偉い人が後ろに乗るもんじゃないのかしら」

「知らん。運転するのが好きなんだろう」

「あっ、こら! 行儀悪いよ!」

 ベッドの上でゼリーの包装を剥がし、そのまま食べ始めようとする九朗に彌月がスプーンを放り投げた。



「ひとまずは安心、といったところでしょうか」

 低い唸り声を上げて走る車内、ハンドルを握る四谷は後ろに座る二条へと話しかけた。

「あの調子だと来週にでも現場に復帰していただけそうです」

「……果たして、これでよかったのでしょうか」

 二条は銀色の髪をかき上げ、ブリーフケースから書類の束を取り出す。運転中であっても、彼女が何を見ているのか四谷には予想がついた。

「御覧になっているのは……十津川君を救出した時の記録ですか」

「はい。『八洲霊異図』の反応です」

 神祇院外局に設置されている、日本のあらゆる霊地・霊脈と繋がり霊的異常を察知するための地図「八洲霊異図」。二条が見ているのは、八洲霊異図から出力された地震計のようなグラフだった。

 "孔"を開いて以降、微弱な折れ線を描いていた記録はある点を以て激しく反応している。線の数は三本。一つはあの"海月"によるもの、一つは最後に姿を現した"くちなわ"によるもの。そして最後の一つはほんの一瞬のみだが、前述の二本を超える最も大きい振れ幅を描いていた。

 その反応が記録されたのは、九朗が――凄門が一刀で"海月"を両断してみせたあの瞬間。折れ線を指でなぞりながら、二条は車内から九朗たちのいる病院を振り返る。

「私たちは……あの"孔"から、一体何を連れ出してしまったのでしょうか」

 その問いかけに応える術を、四谷は持っていなかった。

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