第30話 キズアト

エピローグ


―――発症患者B―――


 じりりりと、騒々しく目覚ましのアラームが鳴る。俺はそれを、薄れた景色で確認しながら、手探りでアラームを止める。やはり最近寝坊気味であったこともあって、急な早起きは、体が重い。


 ゆっくりと体を起こし、カーテンを開ける。小鳥のさえずりとともに、きらびやかな日差しが、自分の体内時計のスイッチを強引にオンにする。窓越しから、高校のある方向を見つめる。今日は、俺、平谷和也の、停学明け初の登校日だ。


 せかせかとパジャマを脱ぎ、学生服に着替える。暦は九月。少しだけ肌寒くなってはきたものの、まだ暑さの残る季節だ。俺は、ちらりと真っ黒な学ランに視線を移しながら、半袖のシャツに着替える。懐かしい。半袖で学校に登校するなんて、何年ぶりだろうか。日焼けのしていない真っ白な左腕を右手でそっとなでて、俺は、荷物をもって一階に向かった。


「あら、和也。早かったわね。そっか。今日から学校だもんね。まだご飯よそってないから、自分でよそって食べちゃって」

「分かった。ありがと」


 台所でせわしなく動く母に俺はそう声をかける。出来立ての味噌汁と、炊き立てのご飯。そして昨日の残り物のおかずをさらによそい、いただきますの声とともに食べ始める。一週間という短い期間だったとはいえ、みんなが学校に行く時期に自分だけ休むのは初めての事だった。だから、どこかそわそわした気持ちで、食事を口に運んでいく。


 ――ピンポーン。


 急にインターフォンがなったのは、僕が食事を七割ほど食べ終えた頃だった。


「あら来たんじゃないの」


 母がどこか弾んだ声色で俺にそう言ってくる。俺は、残った料理を慌ててかきこみ、母に言う。


「ごめん。少し待ってもらってて。急いで歯、磨いてくる」


 インターフォンの主が誰だかは、俺にはわかっていた。だからこそ、あまり長い時間、待たせるわけにはいかない。俺はごちそうさまの声とともに、席を立ち、洗面所に向かった。


 大急ぎで、なおかつ丁寧に、歯を磨き、鏡で寝ぐせを確認する。こんなことなら、もっと早い時間にアラームをセットしておけばよかった。本当はもっと身だしなみを整えたいところだが、長い時間待たせる方がよくないだろう。俺は、部屋に置いた自分の荷物をひったくるようにし、玄関に向かう。


「よ、和也。珍しく遅かったな」


 海斗は、松葉杖に体をあずけながら、僕に手を振った。停学明け最初の登校日。そんな今日は、一緒に登校するように、海斗とは約束していたのだ。もちろん普段から海斗は、今日のように重い脚を引きづって登校しているわけではない。彼は一週間前から登校しているが、その時は親に車で送ってもらっている。


 しかし、彼が、別に一日ぐらいなら、歩いて登校できるし、停学記念に一緒に歩こうぜというものだから、こうして共に登校することになったのだ。全くいい親友を持ったものだ。


「ごめん。遅くなった。もう車いすはいらなくなったの?」

「ああ、割と治りは早くて、ちょうど今日から松葉杖だけになったよ。それよりも早く行こうぜ、もう一人さ、玄関の前で人を待たせてあるんだ」

「え? もう一人?」


 彼は、どこか楽しそうな顔をして、俺にそう言った。海斗と二人で登校するつもりだったから、その言葉に思わず驚く。


 ――このメンバーにもう一人なんて、思いつくのは彼女しかいない。


 俺は急いで、靴を履き、玄関の扉を開けようとする。彼女とは、一週間前に部屋で話したきり、連絡は取っていない。転校すると聞いていので、これ以上関わろうとしても寂しくなるだけだと思っていたからだ。ところが、海斗はそれでも彼女の存在を僕にほのめかしてくる。扉がゆっくりと開く。


「あ、おはよう。平谷君」


 彼女は、いつかの透き通ったような声で、僕にそう話しかけた。しかし、僕はその彼女の言葉に対して、なんの言葉も返すことができなかった。それは、彼女がここにいたからでも、彼女がまだ僕たちの高校の制服を着ていたからでもない。もっともっと別の、明確な衝撃がそこにあった。


「あ、えっと、星見さんだよね?」

「なに? 忘れちゃったの、星見京子だよ」

「いや、その、髪、染めたんだね」

「ああ、うん」


 暑さの残る秋風が、僕らのことを包むように優しく吹く。その風が、彼女の真っ黒な髪をさらさらとなびかせる。黒髪の中から、ふさぐものなどない穴を伴った肌色の耳が見えた。


「染めたんだ、似合うかな」


 きっとまだ、自分の色なんて見つかってないはずだ。まだきっとその長袖の中にはおびただしい量の傷跡が、刻まれてるはずだ。


 それでもその真っ黒な髪は、彼女の強い意志の表れだった。


「ああ、すごく、似合ってるよ」


 俺は、彼女にそう声をかけた。お世辞なんかじゃない。黒髪の彼女は、今までの金色の髪をしていた彼女よりも、ずっと俺には輝いて見えた。そしてそこには、彼女の、彼女だけの色が、ほのかに見えるような気がした。


 海斗は、そんな俺たちを見て、笑みを浮かべながら、言った。


「よっしゃ。じゃあ行くか」


 きっとこれから彼女が進む道のりは、今まで以上にきびしいものになるだろう。今やクラス中に彼女の秘密は知れ渡り、まだ同じクラスには月下さんがいる。転校よりもはるかに辛い道を彼女は、歩こうとしている。


 もちろんきっとそれは俺とて例外ではない。暴力沙汰で出席停止。こんなことをしでかしてしまった俺に対して、クラスメイトの接し方はきっと変わってくるだろう。それに俺の性格だって完全に変わったわけじゃない。譲れないものを譲らなくなっただけで、きっと、さほどこだわりのないものに対しては、まだまだ自分の色を出すことは難しいだろう。そして、海斗もきっとそんな俺たちと関わることでクラスメイトによく思われなくなるのかもしれない。


 それでも俺たちは、進むことをきめたんだ。


 これからきっと辛いことはたくさんある。苦しいことはたくさんある。だけど、心に傷を負いながらも、体に傷を負いながらも、確かに生きていく。


 切り傷だらけのその後も、俺たちは一歩ずつ、確かに進んでいくのだ。


――――――fin―――

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キズアト 笹原うずら @sawagawa

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