第2話

 秋田県の北部に位置する。北境で青森県と県境を接し、東境で鹿角郡小坂町と鹿角市、南境で北秋田市、西境で藤里町と接する。2005年(平成17年)、西部の田代町、北部の大館市、南部の比内町が合併し、面積がほぼ2倍となった。


 秋田三大河川の1つである米代川が東から西に向かって中央部を貫き、南から流れてきた犀川と引欠川、北東から流れてきた長木川、岩瀬川、早口川が次々と合流する。大館市は、四方を山に囲まれた盆地である。北部の山々は、白神山地の東端に位置する田代岳を主峰とする1000メートル級の峰が連なり、東部には鳳凰山に代表される500メートル級の山々に樹海が広がっている。南部には、竜ヶ森を主峰とする比内連峰が屏風のように聳え、東部には魔当山などのなだらかな山並みが続いている。大館盆地の中央(米代川南側)には、霊峰として知られる達子森がピラミッドのような山容で聳えている。


 大館市周辺の北秋鹿角地方は縄文時代の遺跡が多く残る地域で、大館市内にも170か所におよぶ遺跡が確認されている。8 - 9世紀ころまでは蝦夷の地であり、当時は大館市周辺は火内(=比内)と呼ばれる大和朝廷の勢力の及ばない地域であった。


 大館地方が文献に初めて登場するのは『日本三代実録』元慶2年(878年)条の元慶の乱の記事で、秋田城下の村の一つとして「火内」と記され、大館地方は古来から比内郡の一部であった。


 1590年(天正18年)に豊臣秀吉の朱印状により比内郡が秋田郡に編入され、以後、1878年(明治11年)に旧比内郡のほぼ全域が北秋田郡となるまで秋田郡に属していた。


 関ヶ原の戦い以後、常陸国から佐竹氏が移封され、大館城には現在の常陸大宮市から佐竹氏に従って移った小場義成(佐竹西家)が城代として入城して、江戸時代には久保田藩の大館城下として栄えた。


 しかし戊辰戦争のおりに十二所の戦い・大館城攻城戦などの激しい戦闘が行われて大館城などの中心部を含む市内の広範囲の部分が焼失した。とくに中心部は町屋29軒しか残らなかったほど焼き尽くされ、その後も大正・昭和期に中心部が幾度となく大火にみまわれ、歴史的な建造物や城下町だった面影はほとんど残っていない。


 近世では、1885年(明治18年)に花岡村で黒鉱などが発見されたことを初め、広範囲で鉱山が開山された。鉱石の運搬などのため秋田県でもいち早く鉄道網が整備され、1980年ころまでは秋田県の都市圏の中では秋田市に次ぐ規模として人口も増加し周辺が発展していった。しかし、昭和時代後半には資源の枯渇にともない鉱山の閉山が相次ぎ、人口が流出すると同時に鉄道の廃線や商業施設の衰退など市として一時の勢いがなくなり、秋田県の都市圏としても2000年以降6位まで下落している。


 1980年代後半からは大手医療機器メーカーニプロが進出し、秋田県内では最大規模の工業団地を形成している。 

 

 弁慶は鳳凰山に虚ろ舟を着陸させた。

 大館市の市街地から東に見え、市のシンボルとされている山である。山は市街地のすぐ近くにあり、麓を長木川が流れる。


 山の名称は、かつて山嶺に鳳凰山玉林寺(現在は移転)があったことにちなんで命名された。鳳凰山玉林寺は、室町時代にこの地区を治めていた豪族の浅利氏が守瑞禅師を開山として建立した。


 登山道はよく整備されている。山麓には長根山総合運動公園や大館少年自然の家などの施設があり、多くの市民に活用されている。


「まずは泰衡を殺すはずの河田次郎を見つけるのじゃ」

 弁慶は下知した。

 河田 次郎(不詳 - 文治5年9月6日(1189年10月17日))は平安時代末期、鎌倉時代初期の武士。藤原泰衡の郎党。安田次郎とも。諱は守継。


 文治5年(1189年)、源頼朝の奥州征伐によって主人・藤原泰衡が敗走すると、比内郡贄柵(現秋田県大館市)の領主であった河田次郎は裏切って9月3日未明に泰衡を殺害した。6日、河田が泰衡の首級を持ち、陣岡に進んでいた頼朝の下へ参じる。頼朝は実検を行うと、泰衡の首はかつて源頼義が安倍貞任の首を釘で打ち付けさせた例に倣わせた。


 その後、河田はかつての桐生六郎と同様に主君を討った不義を頼朝によって「泰衡は既にわが掌中に収まっている。何ぞ汝ごときの手を借りようや。汝は旧恩に背き、反逆を敢てするとは許し難い」と激しく咎められ、斬罪に処せられた。


 以前に頼朝の父・源義朝も同じような状況で家人・長田忠致に裏切られて殺されており、頼朝の立場として河田次郎を許せなかったと考えられる。

 

 桐生 六郎(生年不詳 - 寿永2年9月18日(1183年10月6日))は、平安時代末期の人物。足利俊綱・忠綱父子の家人である。諱(実名)は不詳。


 寿永2年2月25日に野木宮合戦に敗北した忠綱は上野国山上郷竜奥に籠った。忠綱の郎従たる六郎は忠綱にただ一人付き従って数日間隠れていたが、忠綱を諌め、山陰道を経て九州へと向かわせた。


 同年9月13日、源頼朝は和田義茂(和田義盛の弟)に俊綱の討伐を命じて、義茂は佐原義連・葛西清重・宇佐美実政と共に下野国に下った。義茂は使者を派遣して六郎と通じた。六郎は頼朝への忠節を示すべく主人たる俊綱を斬ったので、その首を持参したい旨頼朝に伝えた。 9月16日、さらに梶原景時を通じて「主君・俊綱を斬って首を持参した賞により、私を御家人としていただきたい」と頼朝に伝えた。


 9月18日、頼朝は景時に「譜第の主人を殺す所存は不当であり、いささかも賞賛すべきでない。早く誅殺せよ」と命じた。景時は六郎を斬り、その首を俊綱の首の傍らに晒した。頼朝は義茂に対し、桐生の者を含む俊綱の子息郎従で降伏してきた者を許す旨下命した。


 河田はすぐに見つかった。

 河田は評定の末に源太の軍門に下ることを決めた。長年の友であった義経を討つよう命じた弁慶に内心反発していた源太は、弁慶に河田を殺すことを進言する。河田は泰衡を裏切った悪人だ。殺せばカウントされるかも知れない。

 源太と同様に河田を「人間ではない」と唾棄していた清範の進言もあって弁慶は河田を殺すことを許した。

「主君であるお主が決めることだろう?」

 弁慶は苦笑いしていた。


 牢屋に向かい俺は唖然とした。

 扉が開き、河田は忽然と姿を消していた。

 見張り番をしていた清範の姿はどこにもなかった。

「アイツ、また裏切りやがった!」

 俺は吠えた。

 泰衡が殺される9月3日まで残り2日。

 秋の虫が鳴いていた。

 

 泰衡は長木川の近くに砦を築いていた。

 秋田県大館市東部の鹿角郡小坂町境界に近い長木沢を源流とし、秋田県道2号大館十和田湖線およびすでに廃線になった小坂製錬小坂線とほぼ並行して西へ延び、大館市の中心部を東西に横断して米代川へ合流する。

 砦に向かう最中で、清範が合流する。 

「この裏切り者!」

 俺はぶん殴ろうと拳を握りしめた。

 弁慶は清範を殺すのでは?と、俺は思ったが彼を許すが後方に回される。

「河田に脅されてな、こっちだって怖かったんだ」

「で、河田は?」

 俺は尋ねた。

「知らん」

 その内に9月2日になり、いくさが始まる。夜明けとともに清範以外の源氏方が一斉に攻撃を仕掛けるが、泰衡の攻撃に手も足も出ず大勢の犠牲を出す。平軍は味方の他軍を一切助けないまま翌日になり、日が暮れてから夜討ちをする事になる。夜討ちのメンバーにはなぜか恵子だけが見当たらない。城壁を乗り越えると戦いが始まっていた。敵か味方か分からない雑兵達に襲われるが、まともに刀も扱えないような兵ばかりで全員一撃で殺してしまう。

 俺は腕を斬られて怪我をして、弁慶により泰衡は首を撥ねられた。

 恵子は泰衡に手籠めにされそうになっていたが、俺が助けた。

「怖かった」

 

 一難去ってまた一難、なまはげに俺たちは追われた。

 妖怪などと同様に民間伝承であるため、正確な発祥などはわかっていない。秋田には、「漢の武帝が男鹿を訪れ、5匹の鬼を毎日のように使役していたが、正月15日だけは鬼たちが解き放たれて里を荒らし回った」という伝説があり、これをなまはげの起源とする説がある。

 弁慶は次の戦の準備があるとかで行動をともにはしてなかった。

 命からがら俺たちは虚ろ舟に乗り込み、清範の操縦により、元の世界に戻ってきた。


 4月29日

 富山ライトレールが開業。

 生口島道路の開通に伴い、本州と四国とを結ぶしまなみ海道が一本に繋がった。

 

 泰衡が弁慶に始末されたことにより、死んだはずの咲子は大館市を旅行していた。

 大葛おおぐそ温泉は、秋田県大館市比内町大葛(旧国出羽国、明治以降は羽後国)にある温泉。近くに大葛金山がある。

 共同浴場的な保養施設、「町民浴場」と民宿が2軒ほど存在し、ほかに大葛金山ふるさと館を併設する比内ベニヤマ荘がある。

 民宿に一泊してニホンザリガニ生息地(無脊椎動物 天然記念物)にやって来た。日本ザリガニは環境省レッドブックで絶滅危惧II類 (VU) に指定されている。

 ザリガニの名は元々ニホンザリガニを指したものである。江戸時代の文献から見られ、漢字表記ではほとんど使われなくなったが「喇蛄」と書かれる。江戸期には異称として「フクガニ」「イサリガニ」などとも呼ばれていた。


 ザリガニの語源は、「いざり蟹」の転訛とする説(「いざる」は「膝や尻を地につけたまま進む」こと)と、「しさり蟹」(しざり蟹)の転訛とする説(「しさる」「しざる」は後退り、後退行すること)とがある。アイヌ語においてもいくつかの呼称があるが、ホロカアムシペやホロカレイェプなど「後ずさり」を意味する語源が見られる。


 ほかに「砂礫質に棲むことから“砂利蟹”」であるとか、体内で生成される白色結石から仏舎利を連想して“舎利蟹”と呼んだというような説もあるが、前者についていえば、ニホンザリガニはとくに砂礫質の場所を好んで棲むわけではない。


 地方によってはエビガニと呼ぶ。身近に生息しているためザリ、ザリンコ、マッカチンなど多くの俗称がある。


 海に住むザリガニ下目で、食用として著名な「ロブスター」を、日本で「ウミザリガニ」と呼ぶことがあるが、淡水に住むニホンザリガニやアメリカザリガニとは生息環境が違うため、調理時や飼育時には注意が必要である。海に住むとはいえ、ロブスターはエビの仲間ではなくザリガニ下目である。一方で英語圏において「ロブスター」という言葉は、広義においてオーストラリア原産の淡水ザリガニで食用の「マロン」を含むことがあるので、料理の注文時など、これも注意せねばならない。

 

 その後、咲子は大館城にやって来た。

 大館城は、かつて秋田県大館市にあった日本の城。桂城とも呼ばれる。城跡は桂城公園として整備されている。

 源頼朝の奥州征伐の後、この地には御家人浅利氏が配され地頭職となったのが、比内浅利氏のはじまりとされているが、大館城の歴史は浅く、天正10年(1582年)以前に浅利勝頼により築城されたとされている。


 戦国時代、この地は浅利氏、南部氏、秋田氏(安東氏)、津軽氏の係争の地となる。浅利氏は勝頼の死後、それを継いだ浅利頼平が慶長3年(1598年)に急死し断絶し、秋田氏(安東氏)が勝者となり、豊臣政権下において、この地は秋田氏の所領となった。


 関ヶ原の戦いの後、秋田氏は常陸国に移封され、かわりにこの地は常陸国から移封された佐竹氏が支配することになる。一国一城令の例外としてこの城は横手城同様に存続を認められ、大館城には佐竹西家が入る。初代の城代小場義成は城中に常陸国の若宮八幡宮の神霊を奉持し、2代目城代小場義易・4代目城代佐竹義武が城の東に大館八幡神社を建立して遷座させ、大館城の守護神とした。


 戊辰戦争の際に南部氏が大軍で攻めてきたため、城は大館城代の佐竹義遵(佐竹大和)が自ら火を放ち、堀などの遺構を残して全焼することになる(大館城攻城戦)。この際焼け残った城門を移築したものと伝わる門が一棟市内新町の民家に現存するが、どこの門を移築したものかわかっていない。

 

 戊辰戦争で焼け落ちた城の跡は桂城公園として整備され、大館城の石積み、土塁、堀などが残る。


 城跡は1874年(明治7年)から中城学校の校地となり、校名を改称しながら、1954年(昭和29年)まで学校の用地となっていた。1954年(昭和29年)に桂城小学校が水門町へ移転。1955年(昭和30年)10月に桂城公園として整備された。


 堀の南側(外側)には大館市役所が建ち、東側には市民体育館・武道館などが建ち並ぶ。西側には国道7号が通る。国道7号には1978年(昭和53年)に架けられた桂城橋がかかっており、秋田犬会館と直接往来ができるようになっている。北側は土手で、眼下には長木川と大館市街地を望む高台になっている。


 園内には、歌手・上原敏の顕彰碑が建立されており、毎年、上原が戦死したとされる7月29日には、慰霊祭である流転忌が開催されている。


 公園を出ようというとき、源太たちがやって来た。清範や恵子も一緒だった。

「久しぶり」

 源太は手を振った。

「人を道具みたく扱いやがって!」

 咲子は源太に殺意を抱いた。けど、せっかく蘇ったのだ。もう、二度とあんな痛い思いしたくない。

「あんときはゴメンよ」

 源太は素直に謝った。

 咲子は源太の後輩だ。

 咲子は楯無の情報を源太に教えた。


 楯無は皇室や公家においては家門を表徴する宝器を直系子孫に相伝する慣習が行われていたが、平安時代後期以降は武家においても総領家嫡流では鎧や旗など家の表徴とされる武具を相伝する習慣が生まれる。清和源氏嫡流に代々伝えられた鎧の一つが楯無である。


『保元物語』や『平治物語』にその名が見られ、平治元年(1160年)平治の乱の際に源義朝が黒縅の楯無を身に着けて戦った後、美濃路を敗走中、大雪により進むことが困難になった事から、身を軽くするために雪の中に脱ぎ捨てたとされている。


 江戸時代の一説によると、それを石和五郎(武田信光)が拾って甲斐武田家に持ち帰ったというが、平治の乱当時に信光は幼児であり、この伝承には疑問が持たれる。家祖新羅三郎義光以来、相伝されてきたという武田家の伝承とも矛盾する。また、『平治物語』の楯無は黒糸威と描写されているが、菅田天神社に現存する武田家伝来の楯無は小桜韋黄返威であり、義朝着用の楯無と武田家伝来の楯無は別の物と考えられる。

「楯無は着ると頭がメチャクチャよくなるんだって」

 咲子の話を聞き終えた源太は楯無を見つける旅に出た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

源義経の事件簿④ 大館殺人事件 鷹山トシキ @1982

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る