源義経の事件簿④ 大館殺人事件

鷹山トシキ

第1話

 

 キャスト

 偽義経

 平清範

 根来恵子

 武蔵坊弁慶 偽義経に義経殺害命令 虚ろ舟操縦

 咲子 現代人、弁慶が泰衡を討ったことで歴史が変わり死んだはずの彼女が生存。

 河田次郎 史実では泰衡を殺害

 藤原泰衡

 

 俺たちがやって来たのは鎌倉時代の秋田県大館だ。虚ろ舟を操縦してるのは武蔵坊弁慶だった。

 俺に源義経を殺害するように命令したのは弁慶だった。『義経記』では熊野別当の子で、紀伊国出身だと言われるが詳細は不明。元は比叡山の僧で武術を好み、五条の大橋で義経と出会って以来、郎党として彼に最後まで仕えたとされる。講談などでは、義経に仕える怪力無双の荒法師として名高く、ほか創作の世界でも義経と並んで主役格の人気があり、怪力の者や豪傑の代名詞としても広く用いられている。

 

 熊野別当(『義経記』では「弁しょう」、『弁慶物語』では弁心)が、二位大納言の姫を強奪して生ませたとされる。母の胎内に18ヶ月(『弁慶物語』では3年)いて、生まれたときには2、3歳児の体つきで、髪は肩を隠すほど伸び、奥歯も前歯も生えそろっていたという。父はこれは鬼子だとして殺そうとしたが、叔母に引き取られて鬼若と命名され、京で育てられた。


 鬼若は比叡山に入れられるが勉学をせず、乱暴が過ぎて追い出されてしまう。鬼若は自ら剃髪して武蔵坊弁慶と名乗る。その後、四国から播磨国へ行くが、そこでも狼藉を繰り返して、播磨の圓教寺の堂塔を炎上させてしまう。


 やがて、弁慶は京で千本の太刀を奪おうと心に誓う。弁慶は道行く人を襲い、通りかかった帯刀の武者と決闘して999本まで集めたが、あと一本というところで、五条大橋で笛を吹きつつ通りすがる義経と出会う。弁慶は義経が腰に佩びた見事な太刀に目を止め、太刀をかけて挑みかかるが、欄干を飛び交う身軽な義経にかなわず、返り討ちに遭った。弁慶は降参してそれ以来義経の家来となった。


 その後、弁慶は義経の忠実な家来として活躍し、平家討伐に功名を立てる。兄の源頼朝と対立した義経が京を落ちるのに同行。山伏に姿を変えた苦難の逃避行で、弁慶は智謀と怪力で義経一行を助ける。


 一行は加賀国安宅の関で、富樫介(能の『安宅』では富樫の何某なにがし、歌舞伎の『勧進帳』では富樫左衛門。富樫泰家に比定される)に見咎められる。弁慶は偽の勧進帳を読み上げ、疑われた義経を自らの金剛杖で打ち据える。富樫は弁慶の嘘を見破りながら、その心情を思ってあえて騙された振りをして通し、義経一行は無事に関を越える。


 義経一行は、奥州平泉にたどり着き、藤原秀衡のもとへ身を寄せる。だが秀衡が死ぬと、子の藤原泰衡は頼朝による再三の圧力に屈し父の遺言を破り、義経主従を衣川館に襲った(衣川の戦い)。多数の敵勢を相手に弁慶は、義経を守って堂の入口に立って薙刀を振るって孤軍奮闘するも、雨の様な敵の矢を身体に受けて立ったまま絶命し、その最期は「弁慶の立往生」と後世に語り継がれた。


 なお、義経主従は衣川館では死なず、平泉を脱して蝦夷地へ、あるいは西国に逃れたとする、いわゆる「義経北行伝説」にも、弁慶に関するエピソードは数多く登場する。


 俺は義経と弁慶ってベジータとナッパっぽいなと思った。弁慶はかなりの巨漢で200cmはある。義経は150cmくらいしかない。

 

 義経は衣川で死んでおらず、奥州からさらに北に逃げたのだという不死伝説を生み出した。さらに、この伝説に基づいて、実際に義経は北方すなわち蝦夷地に逃れたとする主張を、「義経北方(北行)伝説」と呼んでいる。そして寛政11年(1799年)に、この伝説に基づき、蝦夷地のピラトリ(現・北海道沙流郡平取町)に義経神社が創建された。


「義経北方(北行)伝説」の原型となった話は、室町時代の御伽草子に見られる『御曹子島渡』説話であると考えられている。これは、頼朝挙兵以前の青年時代の義経が、当時「渡島わたりしま」と呼ばれていた北海道に渡ってさまざまな怪異を体験するという物語である。未知なる地への冒険譚が、庶民の夢として投影されているのである。このような説話が、のちに語り手たちの蝦夷地のアイヌに対する知識が深まるにつれて、衣川で難を逃れた義経が蝦夷地に渡ってアイヌの王となった、という伝説に転化したと考えられる。またアイヌの人文神であるオキクルミは義経、従者のサマイクルは弁慶であるとして、アイヌの同化政策にも利用された。またシャクシャインは義経の後裔であるとする説もあった。これに基づき、中川郡の本別町には義経山や、弁慶洞と呼ばれる義経や弁慶らが一冬を過ごしたとされる洞窟が存在する。


 義経はおそらく弁慶みたく虚ろ舟に乗ってこっちにやって来た。

 小林って部下はメチャクチャ強く、陸自でも倒せなかったイクチって怪物をいとも簡単に太刀で斬り殺した。

 イクチは大洗沖に出没したそいつはタンカーすら破壊した。俺はマシンガンでイクチを撃ったが全く歯が立たなかった。小林がいなかったら俺はここにはいなかった。

 

 古書、『譚海』によれば常陸国(現・茨城県)の沖にいた怪魚とされ、船を見つけると接近し、船をまたいで通過してゆくが、体長が2キロメートルにも及ぶため、通過するのに12刻(3時間弱)もかかる。体表からは粘着質の油が染み出しており、船をまたぐ際にこの油を大量に船上にこぼして行くので、船乗りはこれを汲み取らないと船が沈没してしまうとある。


『耳袋』ではいくじの名で述べられており、西海から南海(近畿地方、九州)にかけて時折現れ、船の舳先などにかかるものとされている。ウナギのように非常に長いもので、船を通過するのに2,3日もかかるとあり、「いくじなき」という俗諺はこれが由来とされている。また同書では、ある人物が「豆州八丈(現・東京都八丈島)の海に、いくじの小さいものと思われるものがいるが、それは輪になるウナギ状のもので、目や口がなく動いているものなので、船の舳先へかかるものも、長く伸びて動くのではなく、丸くなって回るものだ」と語ったという。


 鳥山石燕は『今昔百鬼拾遺』で「あやかし」の名で巨大な海蛇を描いているが、これはこのイクチをアヤカシ(海の怪異)として描いたものである。


 平成以降では、怪魚ではなく巨大なウミヘビとの解釈や、海で溺死した人間たちが仲間を求める姿がイクチだとの説もある。石燕による妖怪画が未確認生物(UMA)のシーサーペントと酷似していることから、イクチをシーサーペントと同一のものとする指摘もある。


 義経や小林は最初は俺たちと仲がよかった。

 酒を飲んだり、カラオケに行ったりした。ケータイやパソコンに義経は驚いていた。  

 2005年の年末の出来事で、夏にブレイクした『世界はそれを愛と呼ぶんだぜ』(サンボマスター)を俺は熱唱した。フジテレビ系木曜劇場ドラマ『『電車男』エンディングテーマだった。

 義経は催馬楽さいばらを披露した。平安時代に隆盛した古代歌謡。元来存在した各地の民謡・風俗歌に外来楽器の伴奏を加えた形式の歌謡である。管絃の楽器と笏拍子で伴奏しながら歌われた「歌いもの」の一つであり、多くの場合遊宴や祝宴、娯楽の際に歌われた。語源については馬子唄や唐楽からきたとする説などもあるが定かではない。


 催馬楽は、平安時代初期、庶民のあいだで歌われた民謡や風俗歌の歌詞に、外来の楽器を伴奏楽器として用い、新しい旋律の掛け合い、音楽を発足させたもので、9世紀から10世紀にかけて隆盛した。


 隆盛の例としては、醍醐天皇の時期(897-930)に、催馬楽と管絃を合わせた音楽体系が一定の様式に定まり、天皇や公卿・殿上人が演奏者として合奏や唱歌を楽しむ「御遊(ぎょゆう)」が宮廷で催されるようになったことである。


 もともと一般庶民のあいだで歌われていた歌謡であることから、特に旋律は定まっていなかったが、貴族により雅楽風に編曲され、「大歌」として宮廷に取り入れられて雅楽器の伴奏で歌われるようになると宮廷音楽として流行した。催馬楽は、雅楽として組み込まれてから何度か譜の選定がおこなわれ、平安時代中期には、「律」および「呂」の2種類の旋法が定まった。


 歌詞は、古代の素朴な恋愛など民衆の生活感情を歌ったものが多く、4句切れの旋頭歌など様々な歌詞の形体をなしている。


 催馬楽の歌い方は流派によって異なるが、伴奏に笏拍子と琵琶(楽琵琶)、そうしょう篳篥ひちりき、龍笛、大和笛(神楽笛)など管楽器・弦楽器が用いられ、舞はともなわない。また、琴、和琴が加わることもあった。


 義経が歌ったのは沢田川という歌だ。催馬楽ってのは歌のジャンルであってタイトルじゃない。

 霞ヶ浦高校での同窓会のハガキが来たのも同じ頃だ。阿部と恵子が付き合ってるなんて知らなかった。義雄はメチャクチャマザコンだった。

 2016年元旦、弁慶が俺がよく行く喫茶店にやって来た。「義経を殺してくれないか?アイツのワガママにはうんざりだ」

 義経はイクチを倒したことで有頂天になり、茨城を俺のものにすると言い出した。

「アイツは部屋から出てこないでゲームばっかりやってるんだ。我慢ならねぇ」

「随分死者も出てる。これ以上好き勝手は俺だって困る」

「そーいやおまえ、義経に似てるな?」  

 弁慶はブラックコーヒーに顔を顰めた。

 義経は義雄に憑依して好き勝手やってた。

 あの大人しくて、オタクタイプの義雄が殺し屋になったのは義経の仕業だ。

 深夜の河川敷に咲子って女におびき寄せてもらい、背後からサイレンサーつきの銃で射殺した。

 小林は咲子が手にしてたジャックナイフで刺された。

 俺は八龍をそこで手にした。

 咲子は運が悪かった。虫の息の小林が隠し持っていた銃で撃たれ死んだ。

 弁慶は虚ろ舟に乗って元の世界に戻った。

 追求されるのを恐れて俺は陸自を辞めて殺し屋になった。

「泰衡を殺すのを手伝ってほしい」

 弁慶は言った。


 泰衡は奥州藤原氏3代当主・藤原秀衡の次男として生まれる。母は陸奥守・藤原基成の娘。異母兄の国衡は「父太郎」「他腹之嫡男」と称されたのに対し、正室を母とする泰衡は「母太郎」「当腹太郎(当腹の太郎)」と呼ばれ、嫡男として扱われた(『愚管抄』)。『玉葉』文治4年(1188年)1月9日条には秀衡の次男であるにもかかわらず、「太郎」と記述されている。秀衡正室所生の子は何人かいたか、もしくは泰衡のみだったのかは正確には不明だが、秀衡の6人の息子(男子)の中で泰衡が正室の長男だったと推測できる。


 文治3年(1187年)10月29日、秀衡の死去を受けて泰衡が家督を相続する。父秀衡は死の直前、源頼朝との対立に備え、平氏滅亡後に頼朝と対立し平泉へ逃れて秀衡に庇護されていた頼朝の弟源義経を大将軍として国務せしめよと遺言して没した。


『玉葉』(文治4年正月9日条)によると、秀衡は国衡・泰衡兄弟の融和を説き、国衡に自分の正室を娶らせ、各々異心無きよう、国衡・泰衡・義経の三人に起請文を書かせた。義経を主君として給仕し、三人一味の結束をもって、頼朝の攻撃に備えよ、と遺言したという。これは兄弟間なら対立・抗争がありうるが、親子は原則としてそれはありえないので、対立する国衡と泰衡を義理の父子関係にし、後家として強い立場を持つことになる藤原基成の娘を娶らせることで国衡の立場を強化し、兄弟間の衝突を回避したものと考えられる。


 文治4年(1188年)2月と10月(あるいは11月)に頼朝は朝廷に宣旨を出させて泰衡と基成に義経追討を要請する。『尊卑分脈』の記述によると、この年の12月に泰衡が自分の祖母(秀衡の母)を殺害したとも取れる部分がある。翌文治5年(1189年)1月、義経が京都に戻る意志を書いた手紙を持った比叡山の僧・手光七郎が捕まるなど、再起を図っている。2月15日、泰衡は末弟の頼衡を殺害している(『尊卑分脈』)。2月22日、鎌倉では泰衡が義経の叛逆に同心しているのは疑いないので、鎌倉方から直接これを征伐しようと朝廷に一層強硬な申し入れが行われた。2月9日に基成・泰衡から「義経の所在が判明したら、急ぎ召し勧めよう」との返書が届くが頼朝は取り合わず、2月、3月、4月と執拗に奥州追討の宣旨を要請している。閏4月に院で泰衡追討の宣旨を出す検討がなされた。


 ついに屈した泰衡は閏4月30日、従兵数百騎で義経の起居していた衣川館を襲撃し、義経と妻子、彼の主従を自害へと追いやった。同年6月13日、泰衡は義経の首を酒に浸して鎌倉へ送り恭順の意を示した。しかし頼朝はこれまで義経を匿ってきた罪は反逆以上のものとして泰衡追討の宣旨を求めるとともに全国に動員令を発した。6月26日、泰衡は弟の忠衡を義経に同意したとして殺害している(『尊卑分脈』の記述によれば、忠衡の同母弟とされる通衡も共に殺害している)。泰衡は義経の首を差し出すことで平泉の平和を図ったが、頼朝は逆に家人の義経を許可なく討伐したことを理由として、7月19日に自ら鎌倉を出陣し、大軍を以って奥州追討に向かった。

 

 泰衡は鎌倉軍を迎え撃つべく総帥として国分原鞭楯を本営としていたが、8月11日、阿津賀志山の戦いで総大将の国衡が敗れると、平泉を放棄して中心機関であった平泉館や高屋、宝蔵になどに火を放ち北方へ逃れた。8月21日、平泉は炎上し華麗な邸宅群も百万の富も灰燼に帰した。平泉軍はわずか3日程度の戦いで敗走し、以降目立った抗戦もなく、奥州藤原氏の栄華はあっけなく幕を閉じた。22日夕刻に頼朝が平泉へ入ると、主が消えた家は灰となり、人影もない焼け跡に秋風が吹き抜ける寂寞とした風景が広がっていたという。唯一焼け残った倉庫には莫大な財宝や舶来品が積み上げられており、頼朝主従の目を奪っている。


 8月26日、頼朝の宿所に泰衡からの書状が投げ込まれた。『吾妻鏡』によると、以下のような旨が書かれていたという。「義経の事は、父秀衡が保護したものであり、自分はまったくあずかり知らないことです。父が亡くなった後、貴命を受けて(義経を)討ち取りました。これは勲功というべきではないでしょうか。しかるに今、罪もなくたちまち征伐されるのは何故でしょうか。そのために累代の在所を去って山林を彷徨い、大変難儀しています。両国(陸奥と出羽)を(頼朝が)沙汰される今は、自分を許してもらい御家人に加えてほしい。さもなくば死罪を免じて遠流にしていただきたい。もし御慈悲によってご返答あれば、比内郡の辺に置いてください。その是非によって、帰還して参じたいと思います」


 頼朝は泰衡の助命嘆願を受け容れず、その首を取るよう捜索を命じた。泰衡は、夷狄島へ逃れるべく北方へ向かい、数代の郎党であった河田次郎を頼りその本拠である比内郡贄柵(現秋田県大館市)に逃れたが、9月3日に次郎に裏切られ、殺害された。享年35歳。


 6日、次郎は泰衡の首を頼朝に届けたが、頼朝は「譜第の恩」を忘れた行為は八虐の罪に当たるとして次郎を斬首した。泰衡の首は前九年の役の故実にならい、眉間に八寸の鉄釘を打ち付けて柱に懸けられた。泰衡の首は間もなく平泉に戻されて近親者の手により、黒漆塗りの首桶に入れられ、父・秀衡の眠る中尊寺金色堂の金棺の傍らに納められた。

  

 俺は仁科を殺したときのことを思い出した。  

 あと2人殺さないと不死身にはなれない。

 藤原泰衡ってのはきっと悪人だ。だが、あの時代は人を殺すことは当たり前だったからな?

 恵子は半魚人を殺した。また3人殺さないといけない。

 清範もゾンビを召喚してる。彼は源太が産衣を着用している。源氏の嫡男の鎧の着初めで使われたという甲冑。異本によっては「元太がうぶぎぬ」、「くわんたかうふきぬ」、「ぐはつたが産衣」「丸太産衣」などとも記される。小一条院に忠実に仕えた源頼義は覚えもめでたく、院より生まれたばかりの嫡子源義家の顔を見たいとの言葉があり、ここで拝領した、もしくはこの機会に新調して、その袖に義家を座らせて参内したことからといわれる。


 胸板に天照大神と八幡神をあらわし、左右の袖には藤の花が威してあったと記されている。平治の乱では、源頼朝が着用し、敗走中に美濃の山中で脱ぎ捨てられた。この時、頼朝は満12歳である。

 源太が産衣は平家の人間を1人殺害すると妖怪を召喚できる。既にゾンビを召喚しているが、始末された。召喚したモンスターが死んだら、新たに平家一族を探さないといけなくなる。


 

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