第15話 船寿司

 祥子はほっとした。井上に会釈すると、


「なぁ美味しいお寿司屋さんわからん?」

 引っ越してきて二日目、まだどこになにがあるか、祥子は知らなかった。なんとかしなくてはいけない。


「寿司?はちょっとわからんな」

 井上は家賃も払えない大学生だ。無理もなかった。


「『美味しい』お寿司屋さんやったら、『船寿司』やで。川向うの神社の手前にあるねん」


「ほんと?電話番号わかりよる?」


「僕いってきたろか」

 樹にすれば、手慣れた「お使い」だった。


「ほんま?!嬉しいわ」

 祥子が飛び上がって喜ぶ。樹と祥子は、玄関を飛び出した。


 樹は自転車の向きを変えてまたがり、走り出しかけたところで急ブレーキを掛けた。


「えっと、何を言いに行くんやったっけ?」

 祥子は、あ、と言って

「盛り合わせの特上二つと並み……四つ」


 樹は、にこっと笑った。「書いて」




●僕はどうしよかな

 寿司屋に出前の注文をして、「さようなら」と言いながら樹は、からからと寿司屋の戸を閉めた。片手には店の品書きをもらっている。




 奥の間に卓を出し、差し向かいで雪上と敦子が寿司を食べている。


「しばらく来なくていいわよ」「はぁい」

 祥子は、燗酒を取り換えて奥の間を下がった。




 運転手の荻野を含めて、四人が盛り合わせの寿司を食べている。


「これは案外ええ味だね。岡山には負けとるがな」と、荻野が食べながら笑った。


「Qちゃん、ほんまに助かったわ。すごいええとこ知っとるんやな」

 へへっと樹は笑った。堺屋のお使い以外にも、客から商店街の別の店への伝言やついでのお使いも言付かる樹には、自然に近所の情報が集まっていた。それが生かされた。


 荻野はさっさと寿司を平らげると、外に煙草を吸いに出て行った。樹が聞く。


「なぁ井上君は何になりたいのん」


 井上は、

「昨日、Qちゃんのお父さんの仕事ちょっと見せてもろて、やっぱり電気の仕事っておもろいと思てん。電気の学部で勉強もしてんねやし、家電とか電気設備の会社で働こうかと思うわ」


 祥子は、自分は洋裁の店を実現する話をした後、

「Qちゃんは、『いい子になる』んやな」と笑いながら軽く言った。樹は軽く首を横に振り、


「ううん。えっと、僕はどうしよかな」と言った。「え、でもQちゃんさっき」


「うん、いい子になりたいって思ってやんねん」


 井上と祥子は首をかしげた。

「それって誰なん?」


「えっと、心で僕と違うこと考えたり、聞いてきたりするやん。段々ちゃんと話せるようになってきてんで」

 祥子は少し考えて、

「それは、自分が遊びたいなぁと思うても、宿題とかお手伝いもせないけんとも思うってぇこと?」と聞いた。


「そういうのも思うけど、僕が忘れていることとか覚えててくれるし、本とか宿題、一緒にやったり、教えてあげたりもするねん」


「『ジキルとハイド』みたいな感じやろか」と井上が聞く。


「悪いことしたり、けんかなんかせえへんもん」と、すかさず樹が返した。


「そしたら、『星からきた探偵』とか」と、再び井上が聞く。


「う、宇宙人ちゃうもん。僕よりちっちゃい子やで、僕が色々教えてあげることもあるもん」

 ほぅと井上が考え込むと、祥子が、

「それ女の子じゃろ」と言い放った。


「あ、うん。そうや、女の子や」と樹は初めて気づいたように答えた。井上が、「なんで」と聞く。


「さっき、Qちゃんが独り言みたいに話しよった時、Qちゃんによう似た女の子みたいに見えとったけ」

 祥子は自分の見間違いではなかった、正しかったと少し興奮した。「それって妹?」


「えっ、僕妹おらへん……」

 樹の言葉がそこで止まった。口をわずかに開いたまま、微かに頷いている。



「祥子」


「はぁい」

 祥子が振り向くと、三棟の廊下から敦子が呼んでいる。いつの間にか、日はかなり傾き、西日が強く食堂に差し込んでいた。祥子は敦子のもとに駆け寄っていった。




「Qちゃん、それよそでは内緒にしたほうがええんちゃうか」と、井上が言う。「え?」「おかしい奴やて思われたないやろ」

 樹に、小学校でからかわれた様々な記憶が甦った。「うん」


「僕ら三人だけの秘密にしとこ」





●見送り

「お帰んなさるよ」

 敦子には、井上、祥子、樹の三人が賑やかに話している姿が微笑ましく思えた。


「草履出して。荻野さんにも声かけてな」

 祥子は、雪上と敦子の履物を揃え、運転手の荻野に出発を告げた。


 荻野が後部ドアを開き、頭を下げている。見送りの二人に少し声を掛けて、雪上は乗車した。食堂の窓から、井上と樹が、その様子を見ている。窓の向こうには樹の自転車があった。


 表には、紺の着流しの下宮が立っていた。家の近くをさまよい、樹の自転車を見つけて覗き込んだところだった。


 黒塗りの外車が、表の道路に出ていく。下宮は道路脇によけた。


「あ、僕帰らな」

 樹は、母のお使いでここに来たことを思い出した。


「井上君、紙みた?」


「ああ、見たで。お父さんによろしゅう言うといてな」「うん」

 樹は答えると、玄関で靴を履き、皆に手を振ってまだ排気ガスが少し残った道に飛び出した。

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