第14話 西日
●お使い先でお使い
火曜日、堺屋では千鶴子が下宮房子に電話をしている。
「ええ、何度かお電話したんですけど、いえいえ、ほな土曜日に納めさせてもらいます」
ちょうど樹が学校から戻ってきたところだ。ランドセルを投げあげて遊びに行こうとした首根っこを掴んで、「はい、ほな失礼します。おおきに」と電話を切った。
「おつかい行ってきて。三福荘の井上君やったかな、に伝言持っていって」「はぁい」
樹は、母に渡されたメモをポケットに入れ、自転車で走って行った。
三福荘につくと、黒塗りのごつい外車が停まっている。樹は自転車を脇に寄せて、玄関に走った。黒い革靴が揃えてある。樹はそろそろと階段をあがった。二階の「井上」と張り紙がしてある戸を叩く。
「こんにちはー。堺屋ですー」。返答がない。樹はポケットからメモを取り出し、更にあらかじめ持たされていたセロハンテープを切り出して、戸に貼り付けた。ここまでが母の指示だった。
「冷蔵庫の納品 5月22日朝9時に店に来て下さい。堺屋」と樹は読み上げた。ひたひたと祥子が上がってきて、振り返る樹に「しぃ」と人差し指を立てて見せた。そのまま手招きをする。樹は祥子に手を引かれて、そろそろと階段を降り、廊下を歩いて、二号棟の食堂に入った。むき出しの大型コンロやまな板が置かれた無骨な木の台や、ところどころタイルがはがれた流しが並んでいる。いくつか並んだパイプ椅子に樹を座らせると、祥子は、古びた冷蔵庫からバヤリースオレンジを二つ出すと、一つを樹に渡し、自分も座った。
「旦那様が来なさってるんよ」
「だんなさま?」
「そう、離縁なすった後でも若奥様を大切にされとって、このアパートも買って下さって、今日は岡山から顔見にきてくれんさったんよ」と、祥子はちょっと嬉しそうな顔をした。
「祥子ちゃんはなんでこっちにおるの?」
まだ二年生の樹には、そのあたりはわからない。
「まだ子供やもんね」と祥子が言うと、「祥子ちゃんかて子供やん」と樹が返した。
「うちは……まあええわ。旦那様はなぁ、そりゃ立派な網元で、大きな干鰯の工場もあってな」
樹には、「あみもと」も「ほしか」もわからなかった。聞き返すと祥子は、一々丁寧に教えてやった。
「うちは、若奥様と一緒に受け出してもらえて、ご本宅で若奥様のお世話しとったんやけど、祥子も大阪にいって若奥様のお世話続けってな。こっちであたしは、私立の中学校に行かせてもらえるんだよ」
「へぇ」
私立の中学校にいくのもどういうことなのか、樹にはピンとこなかったが、祥子にとっては、「自分は私立に行かせるだけの値打ちがあるのだ」、という言葉だった。祥子は貧しい漁村に生まれた。二人の兄は幼い頃に軽度の障害を発症し、生計が厳しい中、三歳になるころには、禿同然に引き取られ、やがて敦子の身の回りの世話をさせられるようになっていた。美しい女には、可愛がられる値打ちがある。祥子が幼少期に学んだことだった。敦子も祥子を可愛がっていて、敦子が雪上家の旦那に見初められて嫁入りした時も、敦子が旦那に頼んで雪上家に引き取ってもらっていた。大阪には、一人の知り合いもない。頼りにするのは、離婚され、大阪の下町で管理人をするように言われた敦子だけだ。その敦子に仕えている心許ない立場だからこそそれが大切だった。
「うちは、中学を出たら洋裁の学校にいかせてもらって、店を持てるようになるんだよ」
祥子は、洋服のデザインや仕立てという夢を持っていた。堺屋の隣りは洋品店で、あつらえ品の紳士服や婦人服も扱っている。樹にはそこはイメージが持てた。
「すごいなぁ。うちの隣り洋服屋やで」
樹の表情と言葉に、祥子は嬉しそうに笑った。
「Qちゃんは、お店を継ぐんかい」「えっ」
樹は、そんなことを考えたことがなかった。初めて今までの話を自分に当てはめて考えだした。
「えっと」、祥子の顔を見ていたはずの目の焦点が、食堂や窓や視野全体に広がってくる。全体が平面的な絵のようになってくる。
いつもの声が聞こえ始めた。最近ずっと一緒に宿題をし、小説を読む声が、「私は……」と話している。声はいつものように樹に話してくる。
樹の口が何かを言いたげに開いているように見え、祥子は、優しく問いかけた。
「あんた、なんになりたいん」
「わたしはいいこになりたい」
その一瞬、祥子には樹が、樹にとてもよく似た別の子供に見えた。樹の目は自分を見ているはずなのに、少し遠くを見ているように感じられた。
「Qちゃん?」
樹は、穏やかなとろりとした表情で話し続けている。
「だからもっとお手伝いしよ……。うん、するで。しよう……宿題も……。ええよ」
祥子には樹の表情が、繰り返し入れ替わり、先ほどのよく似た誰かと会話をしているように見えた。
「祥子」と、男性の大きな声が聞こえた。
「あ、はあい」と、祥子は飛び上がった。
「旦那様や。Qちゃん、ここにおってな」
祥子は廊下をばたばたと駆けていった。
「はぁい。お呼びでしょうか」
祥子が慌ただしく管理人室の畳に正座すると、一つ奥の間に敷かれた布団の上で敦子が、身繕いをしながら、
「お寿司頼んで頂戴。運転手の荻野さんと祥子も食べてええのよ」
「かしこまりました。若奥様」
祥子はぺこりとお辞儀をすると、管理人室を出て行った。廊下を走って、樹の様子を見に行く。樹のそばには井上が来ていて、二人で話している。樹の様子は、元に戻っているようだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます