第13話 三福荘(後編)
●下宮家西側台所の窓
亡霊下宮は、台所に立っていた。房子は、ラジオをつけたまま食卓の椅子でうたた寝をしている。下宮は、冷たい顔でずっと房子を見下ろしていた。今、房子の楽しみは、ラジオやテレビだ。下宮は、音や映像を乱れさせ、最後には壊してやろうと思ったが、それは、堺屋や樹に迷惑をかけ、可哀相な目にあわせてしまうかも知れない。そんなきっかけを与えて、房子に樹を利用させてはならない。相反する考えが湧き上がり、下宮自身が行動しあぐねていた。
外で子供の声がする。振り返って台所の窓越しに見渡すと、西側のアパートの窓に樹の顔が見えた。
「あ、あの子」。反射的に下宮の意識が、樹に向いた。一瞬で下宮の体は、三福荘一号棟の二階に現れていた。
●「バーン」
これまで亡霊下宮は、房子への情念だけの存在だった。だが、その情念に矛盾する行動に意味を見つけられないまま、下宮は突き動かされたのだ。
樹は、相変わらず外を眺めていた。
「Qちゃん」と樹の肩に手を掛けようとした時、手と振り向いた樹の手のひらの間で青白い火花が散った。
「バーン」
空気が焼け、白い煙が上がった。香ばしい匂いが広がる。煙越しに下宮が見た樹は、二重に重なって見えた。下宮の右手の平は、手の甲の途中まで吹き飛んでいた。「っぐぁ」と、下宮は身をよじりながら消えた。
驚き、振り向いて怯える樹に父が駆け寄っていく。祥子が駆け上がってくる音が聞こえている。
「どないした。なんかしたんか」
樹は震えながら、その場にしゃがみこみ、首を横に振った。瀞は、体のあちこちを触って怪我がないか確かめ、
「大丈夫そうやな。この匂いは、どっかショートしてるな」と周りを見渡した。祥子に続いて、敦子、井上もやってきた。
「どこかで漏電してるかも知れませんわ。このへんでショートしたみたいですわ」
「ちょっと下で休んだらどうですか」と、敦子が言う。
「僕おぶったげますわ」
井上が背中を出すと、敦子と祥子が手を貸して、樹を背負わせた。実は瀞はこれまでにもニ三度、樹のそばで何かがスパークするところを見ている。香ばしい匂いは、何かがショートした時のそれだが、いつもショートを起こす原因が見当たらなかった。樹も震えあがってしまうが、怪我もなく、15分ほどで回復する。堺屋親子は、敦子達の「手厚い」看護に甘えることにした。
四人は、管理人室の畳に車座で座っている。祥子がカルピスを入れて座に加わった。敦子は、樹の手を握り、もう片方の手で頭や背中を撫でてやっていた。樹の震えも収まってきている。
「漏電やったら怖いし、見てきますわ。Q、休ませてもろとき」と、父は敦子に一礼すると立ち上がった。
「あ、僕も行っていいですか。自分の部屋もあるんで」と、井上がついていく。
「僕、大丈夫なん」「うん」
敦子が優しく聞くと樹も声が出てきた。
「何年生?」「二年生」「祥子は六年生なんよ。明日からこっちの学校行きよるんよ」
へぇ、なんかさっきもこのやり取りあったなと、樹は気づいた。
「なぁあんた名前なんて言うん」「堺屋樹」「え、さっきおとやん『きゅう』言うとったが」「え、ええ?」
祥子が、笑い出した。敦子は要領を得ない顔をしている。樹も笑い出した。
管理人室の小窓がコンコンと鳴り、瀞と井上が戻ってきた。井上は、必要な電球や器具と個数を表にしていた。「こんな感じでしょうか」「こりゃわかりやすいわ」
●下宮家 納戸
堺屋の軽トラックが帰路に就く。房子は、うたた寝から覚めた。
「寒、この部屋冷えるわ」と、体を擦りながら立ち上がると、「今日でしまいや」と独り言を言いながら納戸の板襖を開けた。箪笥の隙間に手を入れると、先に鉤型の金具がついた房子の身長ほどもある棒を取り出した。両手で掲げると鉤型を天井の引き戸の金具に掛けて引っ張る。引き戸は30センチほど開き、闇を見せた。箪笥の引き出しを少しずつ出して、そこに足をかけ、房子は登っていく。箪笥の上に置いてあった懐中電灯を点灯すると、ドンゴロスの袋が一つぶら下がっていた。先ほどの鉤型で縄の端をたぐると「ぼたり」とドンゴロスは、箪笥の上に落ちてきた。汚いものを摘まむように指の先で畳に落とす。房子は伸び上って、天井裏の匂いを嗅いだ。
その時、房子の目と鼻の先に亡霊下宮が浮かびあがった。房子には何も見えていない。
「キムコ効いてるわ」。脱臭剤が5つほど並んでいる。「ふん」と一つ鼻を鳴らして、房子は引き戸を閉めた。
天井裏の暗闇の中、下宮は、右手首を左手で握り、消えた右手を見つめた。そこから何かが散逸していく感覚があった。いつもなら、出掛けようとする房子に既につきまとっているはずだ。
体が粘土のように重く、意識が集中できない。
「あ、あいつにはなんもやらん、なんもやらん」と、自分に言い聞かせるように小さく繰り返し唱える。ようやく、亡霊下宮の体は、ぐにゃりとねじれ、粗い繊維が崩れていくように散り始め、筆洗に絵具が漂うように、表の路地を歩く房子の後へと流れていった。
●堺屋団らん
堺屋の夕食が始まった。今夜はカレーだ。樹は、左手のスプーンでカレーを口に運びながら、右手に箸を持ち、皿に盛られたらっきょうを自分のカレー皿に取り分けていた。
「Qちゃん、どっちかにしとき」
母に指摘されて、樹は、「あぁ」と気づいて箸を置いた。
瀞が、三福荘での出来事を話す。その中で謎のスパークという話題もでたが、樹にとっては心から震え上がる出来事だった。ただ、樹の中では、その後の敦子や祥子、井上と過ごした時間によって、それは随分癒され、恐怖感は薄らいでいた。
「二人とも岡山から来たって言うてたで」
あぁ、岡山弁やったんやと千鶴子が頷く。樹は続けた。
「若奥様と、若奥様が結婚した時にお世話役でお屋敷に来てんて。旦那様がアパート買うてくれて、『ここでやっていき』って言われて来てんて」
三人は、少し話を捉えあぐねた。
要約すると、敦子は、「旦那様」のお屋敷に一度嫁入りしてきた。それ以前から敦子の身の回りの世話をする女中見習いのような身分であった祥子も「旦那様」の家に住むことになった。その後おそらく離婚などで、大阪にアパートの管理という仕事を与えられて移り住んできたようだ。
「あんたカルピス飲みながらおしゃべりしただけやん」
姉からの一言に、「ちょっとはお手伝いしたもん。途中から井上君がやったけど」と言う樹ののんびりした話を聞いていた父が、
「お、そうや、その井上君て大学生が三福荘でよう手伝うてくれてな。電気の学部の子でな、下宮さんの納品もアルバイトしてくれそうや」と話した。
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