第12話 三福荘

●雪上敦子・三宅祥子

 樹は学校で「怪奇四十面相」を読んでいたところ、同級生にからかわれ、萎れて帰って来た。


「こんなん読んでもわからんくせに」や、「気色悪い表紙の本読むなや」などを言われ、内容の説明や表紙の絵の意味を伝えようとしたものの、話を聞くような相手ではなかった。


「ほっといたらええのに」

 一通り、樹の言い分を聞いた母・千鶴子が言った。樹は、相手の言葉をそのまま受け取ってしまう。上手く聞き流してしまえばいいのにそれができない。樹は、しおしおと二階に上がってしまった。

 店先で、引き取って来た下宮家の中古テレビの整備をしていた父・瀞は、その様子を見て千鶴子と顔を見合わせた。


 その時、「ごめん~」と言って小柄な老婦が現れた。後ろに若い女と、更に少女を伴っている。


「あ、三福荘の。どうしました?」と、堺屋の主人瀞が挨拶する。


「今度、家主さん変わることなりましてな。うちも辞めますねん」

 この老婦は、三福荘という古いアパートの住み込みの管理人をしていた。三棟が並んでいて、いずれも共同便所、共同炊事場というこの時代でも少し古い部類のアパートだ。三福荘は、建物の簡単な修繕や電気工事などの維持管理を堺屋電工舎が任されている。いつのまにか千鶴子も店先に出てきている。


「この人、新しい管理人ですねん」


「お初にお目にかかります。雪上敦子ゆきうえあつこと言います」

 ちょっと大阪では聞きなれない訛りだった。よくアイロンがあたって糊が利いた白い開襟シャツに黒いタイトスカートを履いている。健康そうな小麦色の肌とのコントラストが際立っている。品良く頭を下げた新管理人は、横に控えている少女を振り返って「祥子」と声をかける。「はい」


「身の回りのこたぁ、この祥子にさせとります」

 そう言いながら、雪上敦子は祥子を促した。


「よろしゅうお願いいたします」

 祥子は、背が高い痩せた少女で、敦子より色黒で黒々と光った髪を後ろでひっつめて垂らしていた。簡単な白いブラウスに青っぽい吊りスカートを履いていた。千鶴子には、どちらも少し田舎っぽい服装に思えた。アパート内の電球がところどころ切れているので、この際、全部を入れ替えて欲しいと言う。瀞が、折り返し下見に行くと約束すると、三福荘の三人は帰っていった。


「Q、降りてきて」

 瀞は店から、真上の部屋にいる樹に声を掛けた。のろのろと樹が降りて来る。


「何?」


「これから手伝い行けるか。三福荘の電球の数、数えにいくで」

 樹は例によって要領を得ない顔をしていた。やったことがないことはイメージが湧かない。瀞は、続けて言った。


「廊下とかの照明器具の電球を全部取り換えることになったんや。先に数と種類、調べにいくねんで。お父さんが言うたら、紙に控えていってや」


「うん」と、なんとなくわかったような気になって、樹は頷いた。



●三福荘

 三福荘は、下宮家のちょうど西裏側の狭い路地を挟んで背中合わせに建っていた。元は、ここから先の川沿いにあった繊維工場の工員用の寮だったが、工場の規模縮小に伴って持ち主が変わり、一般向けのアパートになっていた。それぞれが二階建てだが、一番南側の棟は牧家と路地を挟んで建っている。二番目の棟は、一階が工員用の寮だった名残のある共同炊事場と食堂と便所になっている。最も奥の三番目の棟の一階正面に三福荘の玄関、靴箱と管理人の部屋があった。三福荘は、これも工員寮の名残でどの棟もこの玄関を通らないと行けないようになっている。堺屋の軽トラックは三棟のすぐ手前までバックで入っていった。


 堺屋親子が玄関のガラス扉を開けると、管理人室の小窓から、祥子が覗いて会釈した。かすかに室内で敦子の声がして、祥子が「はい、若奥様」と答えている。すぐ小窓の右隣にある開き戸が開いて、祥子が出て来た。「どうぞ上がって下さい」

 瀞が会釈をして靴を脱ぐのに続いて樹も靴を脱いだ。樹は、裏が白い広告用紙を束にしたものと水性ペンを持たされていた。


 瀞が「玄関灯100ワット、玄関40ワット2本……」というのを、樹は頑張って書き連ねていく。いつの間にか祥子は、樹の後ろについてきて、それを興味深そうに覗き込んでいた。樹はちょっと恥ずかしくなって、ちらちらと祥子を見ながら、メモを続けた。


 「別に隠さんでええよぉ。お手伝いしよんやけん」「隠してへんもん」

 樹は左手で字を書いている。つい、手首で字を覆っているようになる。祥子は人懐こい笑顔になった。


「ほんまやねぇ。左手で上手に書きよるねぇ」「上手ちゃうもん」

 樹の字は立派な金釘流だ。


「Q、貸して」

 瀞が、少し複雑なメモを取るらしく、樹から紙とペンを受け取って何かを書き始めた。樹の手が空いたのを見て祥子はまた話しかけた。


「何年生?」「二年生」「うち六年生なんよ。明日からこっちの学校行きよるんよ」

 へぇ六年生かぁと樹は思った。姉より二つも上で、随分お姉さんに見える。


「なぁあんた名前なんて言うん」


「堺屋樹」


「え、さっきおとやん『きゅう』言うとったが」


「え、あ、う~ん、キューってあだ名やねん。ローマ字のQ」

 矢継ぎ早の問いかけに樹は少したじろぎ気味になっている。


「どねぇしてQになるん」「えっと、」「うんうん」

 祥子は、膝に手を当てて前かがみになって樹の話に頷いている。やがて、


「じゃけ、オバQとも坂本九ともウルトラQともちごうて、QちゃんはQちゃんじゃな」

 祥子が、笑いながら言った。樹も笑い声をあげている。瀞は、樹の様子を見て、今泣いた烏がもう笑うとはこれだと、少し笑った。


 その時、階段を男性が降りて来た。管理人室の小窓をコンコンと叩き、「すいませぇん、井上です」と言っている。井上は、体格はいいが、いかにも下宿暮らしの大学生らしい質素な恰好をして、ぼさぼさの髪に黒ぶちの眼鏡をかけている。


 祥子は、「はい!」と大きな声を上げて廊下を戻っていった。敦子も出てきて話を始めた。瀞は、「二階あがろか」と樹を促した。すれ違いざまに会話が聞こえてくる。


「今、三か月分溜めてて、管理のお婆さんに言うたら、新しい人に聞けって言われてきたんですけど」




●一号棟二階東側窓

 二階には、東側のつきあたりに窓があり、開けられていた。樹は、つま先立ちをして窓の外を眺めた。目の前に下宮家の屋根が見える。自分たちが据え付けたテレビアンテナが誇らしげに立っている。


「お父さん、こないだアンテナ上げたとこ見えるで」


「ん、ああ、下宮さんとこやな。綺麗に仕上がってるな」と、瀞は仕事の出来栄えを確かめた。


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