第11話 下宮(後編)

「ほんまやな。ほなあそこいっぺん覗かせてもらいますわ」

 房子に余計な返事をさせないように口を塞ごうとしたが、下宮の体はすり抜けてしまった。ただ、房子は少し息が詰まったようだ。その間に男は頭を軽く下げて「Q」と子供に声をかけた。その子供は、もう縁を降りて、庭に運び込まれていた脚立を父親が縁から受け取りやすいように傾けようとしていた。


 男は、「ちょっと待ってや」と言いながら、床の間の花を部屋の脇に寄せると、そこにシートを敷いた。父親に脚立を持たせると、子供は脚立の足についた土を手で払い落した。父親が脚立を床の間に立てる頃には、縁に上がった子供が自分の靴と父親の靴を持って、シートに置こうとしていた。父親がその靴を履き、脚立を上がり始めると、子供は脚立に手を添えている。何か完成された作業を見ているようで、下宮と房子はしばらくその様子をただ眺めていた。


 父親が床の間に掛けられた掛け軸をはずす時には、子供がすでに軸先を持っている。


「奥さんすんませんけど、これ」と男に言われて、房子ははっと我に返り、

「は、はい」と八双の部分を受け取り、部屋の隅に移した。その間に、天井板は音もなく外れ、懐中電灯を取り出した男が天井裏を覗き込んでいる。子供も興味深そうに見上げている。部屋の隅に掛け軸を下した房子は、ドンゴロスの袋を怪しまれるのではないか、そこから自身の悪事が露見するのではないか。それを阻止することができないまま、親子の仕事が進んでいく。


「どうしよう。どうしよう。こんな痩せた男ぐらい、でも子供も?」と一瞬で目まぐるしく、房子の思考が周っていく。下宮も房子から発せられる異様な気配を感じた。


 房子が、二人と台所を交互に見ている。いや台所ではなく、包丁が入った引き出しを見ていることに下宮は気づいた。


「行けるわ。ほな奥さん、ここから上がって、玄関の横の配電盤から線引きますわ」

 極めて淡々とした調子の穏やかな男の声に、房子は、胸を撫で下ろした。


「ぇえ、お願いします」

 もしかしたら、納戸とこの部屋は、天井裏にも壁があったかも知れない。房子はそんなことを考えたこともなかった。「気付かなかった?大丈夫や」と思った房子の肩から力が抜けた。


「電球」と父親に言われると、子供は片手に持った白熱電球に針金で枠をこしらえた電灯を手渡した。父親が肩の辺りまで天井裏に入って様子を見ている。再び房子に緊張が走った。


「よっしゃ、Q、上がれるか」「うん」


「えっ?僕が天井あがるのん」と、房子は思わず声を上げた。こんな小さな子供がそんなことをするのか。もし天井板を踏み抜いたり、そこから落ちて一騒動になれば、警察が来るかもしれない。それだけはやめさせなければと、何か言おうとした。が、言う前に、


「何べんもやらしてますから」と、こともなげに男は言った。子供も靴を履き、するすると猿のように天井裏に入ってしまう。


 下宮は、この子供に自分を見つけさせようと思った。いや、もしこんな小さな子供がバラバラの手足を発見してしまったら、天井板を踏み抜いたり、そこから落ちて怪我をしてしまうのではないか。そんな目に合わせてはいけない。そう思った時、下宮の体は、天井裏に移っていた。


 二人の心配をよそに、白熱電灯を引きずりながら、子供は蜘蛛のように玄関の方に進んでいく。配電盤の上に穴を開けた父親が、


「ここやで」と声を掛けると、「うん」と天井板越しに子供の返事が返ってきた。



 工事の一部始終を、下宮と房子は見守っていた。


 房子は、テレビの説明を聞きながら、ふと気づいた。そうだ、天井裏は探していない。あの子供を上手く使ったら、何か見つかるのではないか。下宮もあることを考えた。この父親にもう一度天井裏を見てもらえば。


 下宮は、房子の耳元で繰り返し大声を出した。「クーラーを買え。クーラーを付けてもらえ」。それに呼応するように、房子が言った。「そうや、クーラーも付けてもらおかしら」


「ありがとうございます。ほな線だけ今日ひいときますわ」父親は、また子供を天井裏にあげた。


 今日するのん!房子は、次に親子が来る前にドンゴロスの袋を片付けてしまえばと思っていた。


 また子供にいかせるのか!下宮は、次に親子が来る前に天井裏に違和感を作りだせればと思っていた。


 二人の思惑は外れた。




●ポチ袋

 親子が片付けをする間に、房子は、納戸の小引出しをさらって、そっけない柄のポチ袋を探しだした。そこに5百円札を折って入れる。親子が、挨拶をして出ていこうとするところで、房子は、子供にポチ袋を握らせた。子供を手懐けようとする態度に、下宮は苦い顔をした。



 下宮は、また無人の台所に立っていた。房子に「なんもやらん」ために、房子の企てを端々で妨害する時以外は、自分が刺される場面と、不動産屋から「上司の女も引き受けて」と言われる場面を繰り返し、苦しみ、呪い、恨みを募らせることしかできなかった。その中で、あの「Q」と呼ばれる子供だけが、何か違う方向に自分を引いてくれる存在になっていた。あの子を守ろうとしなければ結果的に房子をもっと追い込み、自分の目的は達成されたように思えるのに、そうはしなかった。そのことに下宮自身は気づかないまま、樹の部屋の外の物干し台に現れ、ためらい、引き返してきたのだ。



 房子は池田と別れた後、一度家に戻り、派手な化粧をし直して、また出掛けた。今度はスーパーマーケットのロゴが入った紙袋を持っていた。映画館のある駅から電車に乗ると、ネオンが灯り始めた街で降りた。ぶらぶら歩きながら、適当なゴミ箱に紙袋を捨てる。


「ちょっと飽きてきたわ」

 房子は、何もなかったように歩き去った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る