第10話 下宮(しもみや)

●死に囚われた者 囚われた時間

「Qちゃ~ん、ごはんやで」

 階下からさと子が呼んでいる。日が暮れて樹の部屋は薄暗くなっていた。


「Q?Q?」「はぁい」

 樹は「怪奇四十面相」を置いて、降りていった。


 物干し台に現れた下宮は、樹に声を掛けられないままでいた。それにしても自分はなぜこんなところでただ立ちずさんでいるのか。看板の途切れたところから道路に目をやると、気づけばもうそこに自分が立っていた。日が暮れた商店街には人や車が行き交っているが、そんな下宮に目を向ける人はいない。下宮は、自宅に向けて緩やかな坂をゆらゆらと登りかけた。うなだれた下宮の視線に着物の破れ目が入った。腹の少し右寄りで、肋骨より少し下に激痛が走った。着物の破れ目から血が溢れ出してくる。


 次の瞬間、下宮は自宅の台所で倒れていた。包丁が、腹に突き立っている。そばに房子が立っている。今まで見たことがない形相でこちらに向かって口をぱくぱくさせ、目が魚のように飛び出して血走っている。釣られて草むらであえぐ鮒みたいな顔しくさってと思い、下宮は笑った。腹から流れ出した血が体をつたって床に広がり始めている。そこだけ血のせいで温かいが、手足は痺れるように冷たくなってきた。心臓が痛いほど打っている。房子が、しゃがみこんで顔を近づけてきた。ぱくぱくした口から上ずったかすれた声がしている。


「人に我慢させて貯めこんだもん、全部あたしがもろたる。全部もろて贅沢させてもらうわ!」

 房子は続けて罵声を浴びせてくる。


「池田のズベタが笑わすな」


 下宮が囁くような声でようやく言った一言に房子は凍りついた。この男は、自分と池田の関係を知って結婚し、今まで暮らしてきたのか。


 二人がいる台所は、購入時に改築させたものだ。この家を買う前は土間にガスや水道がひかれただけのものだった。金は掛かっていないがこの古びた家でここだけが新しい。この物件と改築を請け負った不動産屋は、下宮がずっと信用金庫の職員として、取引をしてきた馴染みだった。万博前の大阪は、中央環状線の大規模な工事が進み、人口は大きく動いていた。住宅や土地取引の仕事を通じて、この不動産屋は、下宮の成績の半分ほどをもたらしてくれていた。不動産屋にしても、すぐに融資を実行させる腕を持った下宮は、心強い相棒だった。改築が終わって鍵を受け渡した時、不動産屋は言った。


「いやあ、下宮さんはほんま現代の会社員の鑑やな。上司の女も引き受けて、これからも出世間違いなしや」


 下宮は、あの瞬間から胸の中に重たい石を抱えるようになった。戦争で親を失い、この埃っぽい町でがむしゃらに、勉強し、就職して金を稼ぎ、職場で認められ、家族を作ろうとしてきた自分はどこかに行ってしまった。大阪万博で賑わい、動いていく人や、車や、電車が、自分だけが動作していない巨大な時計の歯車の一つひとつに見える。いつの間にか、「この女に何も与えないこと」が唯一の自分が生きる意味になっていた。


 「なんもやらん」。声にならない声で下宮は房子に言った。房子はその意味を測りかねた。問いただそうと口を開いた時、下宮は、最後の息を使った。


「俺の宝は……」


 絶命した下宮の傍らで、房子は途方にくれている。


「宝…。そんなもん、え、どこ」

 房子の声が遠くなっていく。半乾きの糊付けした何かを剥がすように、体の内側と外側が離れてくる。先ほどまでの痛みが嘘のように薄れていく。そのまま、光の中に意識が遠のいていった。



 びくっと全身が震えた。気付くと下宮は無人の台所に立っていた。亡霊となって数十日は、包丁で刺され息絶えるまでの時間が果てしなく繰り返された。やがて、


「あの女には決してなにもやらん」という情念が固まるにつれて下宮は、何か自分を保てるようになっていた。この数十日で、下宮のものの見方や考え方が変化していたり、別の情念に固まっていれば今に至る行動は変わっていたかも知れない。しかし、この一種類の情念に固まることで、この家と房子に縛られるようになっていた。一方で房子は、下宮が今際の際に吐いた言葉によって、この家のどこかに「宝」が隠されていると固く思っている。「全部もろたる」という強い拘りに囚われている。


 房子は早速、下宮の通帳を探しだした。定期預金も合わせて70万円ほどだ。

「こんなはずないわ」

 下宮は、房子が部屋中、いや家中をひっくり返して探し続ける様を薄笑いをしながら眺めていた。

「なにもやらん、なにもやらん」


 少したって、房子には付き合う男ができた。下宮と房子の後輩でもある高橋だった。下宮は、部屋の変化などから自分が殺されたことに気付いてくれればと期待を寄せたが、高橋は房子の体ばかりを見ているだけで、それどころか房子に気に入られようと言いなりになっている。


 房子は高橋と楽しむため、いや自分の贅沢のためにカラーテレビを買うことにした。そのために現れたのが、堺屋電工舎だった。小さな子供を連れた背の高い痩せた男が工事に来た。配電盤から配線を増やし、アンテナも屋根に上げるようだ。


「天井裏、上がれるところわかりますか」


 男に言われて、房子はぎょっとした。そんなことになるとは思いもしなかったのだ。納戸の天井には引き戸がついている。ここを開けてくれれば、ドンゴロスに詰められた、干からびた自分のバラバラの体を発見してくれるかも知れない。下宮は、この男が家中を歩き回って引き戸を見つけてくれないか、この男を納戸に引き寄せるにはどうしたらいいかと考え始めた。ところが、房子が言いよどんでいる間に、子供が床の間の上を指さした。


「お父さん、あそこ」

 そう言えば天井板の一角だけが、木目が違う向きになっている。この子よく気付いたなと、下宮は思った。

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