第16話 宝物

 牧家と三福荘の間に下宮が立っている。


「あ、おじさん」

 樹は自然に頭を下げ、通り過ぎようとした。


「Q、Qちゃん」と、力なく下宮は声を掛けた。右手は袂に入れている。


 樹は、その様子が少し心配になった。同時に自分の中で、「はなれて」「はなれて」と声がする。樹は少し離れたところで自転車を降りた。胸がどきどきしている。体の半分は下宮を警戒し、逃げようとしている。同時に樹の中では、二度も親切にされ、話しもしている人だ。お客さんとはちゃんと挨拶しなくてはならない。


 アパートの表の道路は、強い西日が壁や電信柱に長い影を引いている。


「ちょっとだけ、話しせえへんか」

 以前のように口調は優しい。しかし、下宮には影がなかった。恐怖が樹の全身を走った。町のざわめきが遠ざかり、下宮の後ろの背景が色あせ、白っぽくなる。シンとした世界に、下宮と自転車のハンドルを握った樹、そして、樹の後ろに隠れるように一回り小さな、樹によく似た女の子が立っている。


「今日もこのアパート行ってたんか」


「うん」


「また、お店のお手伝いか」


「うん」


「えらいなぁ。昨日もここ来てたやろ」


「うん」


「うちの家見てくれてたなぁ」


「うん」。樹の後ろの女の子が、樹の背中を強く握った。スパークの一件が樹の記憶に戻ってくる。


「昨日のあれって」


「なんや驚いたで。・・こんななってもて」と下宮は、消えた右手を袂から出した。


「うわ」

 樹が息を呑む。樹の表情を見て下宮は動揺した。


「あ、こんなもん子供に見せてしもて」

 下宮は、樹に以前見せてしまったドンゴロスの袋の奇怪な場面と、房子の異様な顔を思い出した。あの時、「子供にあんなもん見せて」と確かに思った。下宮の脳裏に一瞬、焼け野原の大阪が甦った。吹き飛んだ手足や焼死体が散乱している。その記憶が甦ったことに下宮は驚いていた。そうだ、自分は確かにそんな経験もしていた。


「そうや。Qちゃんと話したら、ずっと忘れてたこと思い出せるんや」と、下宮は声をあげた。煙草の灰が落ちるように、右手首のあたりまでがぼろりと崩れた。


「僕は、房子、あのの女に仕返ししたいだけなんや」

 消えかける右手を振って下宮は、話している。樹は左手で後ろの女の子をかばいながら、「な、なにかされたん」と聞いた。


「ぼ、僕は騙されてたんや。あの女に、池田にも」

 下宮は嗚咽した。


「なんて騙されたん」


「僕は、信用金庫の営業職員なんや。大学卒やからって僕ばっかし目標の数字引き上げて、『大卒はあかん、大卒は』って、目の敵にしくさって。必死に成績あげて一番を続けてきたんやで」

 声を震わせながら下宮が話し、跪いた。樹たちは少し気の毒に思えてきた。


「ほっといたらよかったのに」


 樹の言葉に、下宮は顔をあげた。


「ほっとく?」


「うん。お母さんが言うててん。嫌なこと言う子なんかほっといたらええねん」


 下宮は顔を上げて、少し笑った。


「Qちゃん、ほっといても、営業は営業や。成績はあげなあかんねんで」


 樹は女の子と顔を見合わせた。

「ほな、成績あげなあかんって、おじさんが思てたことなん?」


「え」

 自分が思っていたこと?。下宮の胸の重たい石がぐらりと揺れた。


「おじさんは何をしたいって思ってたん?」


「…僕は、お金を廻してあげることで、工場を立てたり、家を建てて、みんながやりたいことを存分にできる世の中にしたかったんや。僕は、生まれてすぐに親がアメリカの爆撃で死んで、おじいちゃんに育ててもろたんや。おじいちゃんの工場も爆撃でやられて、戦争が終わって、みんな物が欲しいのに、工場がないから何も作られへんねん。お金借りて、機械入れて作ったらなんぼでも買うてくれるねんで。お金ないから、勉強しよう思ても本も買われへん。お金があったら世の中が廻って、みんなに行き渡って豊かになるやろ。せやから頑張って勉強して大学出て、信用金庫に入ったんや」


 下宮は一息に喋った。房子への情念だけの体が、ボロボロと崩れていく。


「そうや。せやから『なんもやらん』のが最大の罰……」

 下宮は胸の中の重たい石がなくなっていくのを感じていた。


「僕はな、房子に『なんもやらん』て言うたんや。ほんで、あいつが、いつまでも欲しがって探して悔しがるように、『宝』はもう絶対に手に入らんようにしといたんやで」

 下宮は、夕陽に溶け込みかける体で、穏やかな顔をしている。樹と話す中で、下宮は房子への執着と自分らしさをくっきりとさせ、ありたい自分に気付くことができた。


「よかった、よかった、生まれかわれるわ」


「おじさん、宝物って」


「それはもうみんなにあげたんやで。みんなに。あぁ、ありがたい」


 下宮は光の中に消えた。白っぽい風景が、少しずついつもの当たり前の下町に戻っていく。夕方のざわめきが樹の周りいっぱいに満ちてきた。排気ガスの臭いさえまだ残っていた。


「帰ろか」「かえろう」

 二人は同時に同じことを言って、クスクス笑った。




●寄贈印

 水曜日、樹は図書館にいた。児童書のカウンターで借りていた二冊を返却する。係の女性が本の一番後ろと、樹の貸出カードに日付印を押した。樹は、カードを受け取るとぶらぶらと図鑑のコーナーに歩いていった。


「うちは本当に児童書が充実してますよね」と係の女性が言う。先輩らしき別の女性が、


「ここんとこ寄贈が凄かったのよ。ほらこれも」

と言って「怪奇四十面相」を開いた。寄贈印が押してある。


「寄贈 昭和四十五年九月十三日   下宮満氏」

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