第7話 ビール(後編)

 房子は、少し高橋の方を見やった後、部屋をじろっと見渡した。銭湯の前で交わした電気屋の女将との会話が頭をよぎっている。あの時感じた恐怖感と同時に、今度は夫・下宮への怒りがこみ上げてきた。その時、


「なぁ、房子さん」と高橋は、今度は房子の目を見ながら言った。彼にとって先ほどの台詞は、これからの二人について自らの覚悟を示す口説き文句であったらしい。自分より年下の男のちょっと初心にも思える様子に気付いて、房子は少し愛しく嬉しくなった。


「あ、ええのよ。もちろん。けどもう少ししてからがええわ」

 房子も高橋を見つめようとしたが、その率直な顔に目を合わせることができなかった。ぎこちない笑顔を作ると、目が泳いだ。


「なんで?」

 高橋は間を置かず、今度は房子に向き直った。


「ほら、旦那と別れてすぐ誰かと住みだしたらなんて言われるかわからへんやん」

 とっさに出た言葉だったが、高橋は案外「それはそうか」と頷いた。


「明日日曜やし、泊まっていってな、高橋君。もうちょっとなんか作るわ」

 房子は、少し後ずさりしてから勢いよく立ち上がると台所に消えた。


 蓋を開いた鰯の缶詰を雪平鍋で温めながら、房子は菜を切っていた。包丁を入れる度に、ぶつぶつと独り言を繰っている。


「こんな家!、我慢して住んだってんねん!もらうもんもろたら叩き潰して売り飛ばしたるわ」


 この家は1968年に結婚した時、夫の下宮が取引先の不動産屋から安く買った物件だった。昔ながらの土間になっていた台所だけ改築して、住み始めたが、駅や大学、商店街も近い距離にあり、程よく賑やかで、最初は房子も満足していた。


 しかし、下宮は房子より二つ年上なだけなのに、古い考えの節約家だった。下宮は、信用金庫に勤めていた。大学卒の有望な職員だった。給料も多い。だが、房子には、わずかな金を渡してやりくりさせていた。


 房子が、月の金が足りないと言えば、いくら足りない、なぜ足りないと説明をさせられる。話しているうちに自分が言い訳でもしているようになる。


 我慢の限界が来た時、房子は庖丁を両手で握りしめていた。


「人に我慢させて貯めこんだもん、全部あたしがもろたる・・、もろて・・」


「ぉぃ・・おい」

 背中を叩かれて、房子は小さく「ひぃ」と飛び上がると、振り向き様に件の庖丁を突き出した。


「うわっ」

 高橋は、飛び退き様に椅子に足をとられて後ろ向きに転倒した。敷居に後頭部を打ち付けた高橋は、しばらく声もあげずに頭を両手で抱えたままうずくまった。


「あ、あぁ~、ごめんなぁ」

 庖丁をまな板に置くと、房子はおろおろと高橋に駆け寄り、抱きかかえようとした。高橋は軽く房子の手を振りほどきながら、軽い怒りを見せた。


「なにすんねんいきなり」と、言いながらその場に座りなおした。


「ごめんな、あたしびっくりして」


「俺はもう一本ビールもらおか思ただけや」と高橋が言った瞬間、自分にすがりつく房子の背中越しに、冷蔵庫の扉が音もなくゆっくり開いた。白い冷気が床に這い出してくる。高橋の驚いた顔に気付いた房子が振り向いた時には、冷気が房子の足元に絡みつこうとしていた。


「い、いやっ」と小さく叫ぶと、房子は白い冷気を右手で払い、高橋の体によじ登るようにしがみついた。


「い、痛い痛い」

 高橋は、自分の体にのし上がった女の体を客間に転がすと、


「な、なんや、冷蔵庫はちょっとぼろいんかいな」と少し大きな声を出して虚勢を張り、笑いながら立ち上がった。


「そうや、そうやねん。もうこれも買い換えるねん」

 前髪が乱れたまま、房子の声もつられて勢いがついた。そのまま高橋が冷蔵庫に向かうのを眺めながら、自分も台所に戻ろうとした時、冷蔵庫の扉に手をかけて中を覗き込んだ高橋が、声にならない声をあげた。扉の内側には、茶色く変色した右腕が刺さっていた。


「・・あ、ビールやん」

 背中に冷たいものを感じながらも、年上の女の手前、平気な顔を作ると、高橋はビールを取り出した。


「つ、つめたっ・・・なんでこんなに冷えてんねん」


 房子はビールを高橋から受け取り、

「もう古ぅて、壊れてるのよ」と言った。高橋はしゃがみこんで中を覗き込んでいる。


「ほら、このツマミ、一番『強』になってるやん。きついわけや」


 そんなんわかってるわと思いながら、ふぅんと返事をすると、房子は扉を閉めた。


 白い冷気がその勢いに巻き上がり、消えていった。


 鰯と菜を炒めたものをつまみながら、二人は冷えた2本目のビールを飲んでいる。テレビは洋画が終わって弁護士もののドラマが始まっている。二人は体に残っている恐怖と強張りをほどくために、またお互いの気持ちが改めて高まるのを待つために、ぼんやりとテレビを眺め、他愛のない話をしていた。だが、なんのきっかけも生まれなかった。やがて、


「ちょっと、便所」「また?お腹冷えたん」

 房子は何度も便所に立つ高橋を見送りながら、少しずつ気持ちが白けてしまうのを感じた。

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