第8話 駅前映画館

●気まずい翌朝

 日曜日、雨戸の隙間から差す朝日が障子に映っている。房子は客間に敷いた布団の上で、障子にうつる光や、傍らに眠る高橋をぼんやり眺めていた。普段房子は、玄関奥の居間で寝ていたが、腹を下している高橋のために、少しでも近い客間に寝床をこしらえていた。腹を抱えて縮まって寝ている高橋を後目に房子は立ち上がり、障子を開き縁に出るとガラス戸と雨戸を一気に開けていった。


 朝日が客間に差し込み、部屋が明るくなった。高橋は目をしばつかせたが、また布団に顔を埋めた。


 感情のない言葉で房子は、


「起きてや、高橋君」と言うと掛布団をめくりあげ、居間の押し入れに運んでいった。高橋はその場に起き上がると何かを言っている。房子は取り合わずに、居間の鏡台に向い、髪をとかし始めた。


「あたし出掛けるから。昨日貸した鍵も返してな」


 高橋は、房子をがっかりさせたことを改めて思い知らされた。


 高橋は、下宮の信用金庫の後輩で、下宮が房子と社内結婚してからこの家にも呼ばれることがあり、下宮がいなくなってからは、房子に呼ばれるままにここに通い、関係を深めていた。昨日は庭の草むしりを頼まれて汗をかき、風呂に行くよう、また、鍵も持っていてと言われて、すっかりその気になっていた。ところが、二人でビールを飲み、気持ちが高まったところで、その気持ちに水をさされることが続いた。いきなり包丁を突き付けられ、飛び退いて転んでぶざまに頭を打ち、冷蔵庫でビール瓶が薄気味悪い右手に見えて肝を冷やし、腹を下して、明け方まで便所に通うはめになってしまった。


 服をもぞもぞと着ると、「そしたら、帰りますわ」とズボンのポケットを探りながら、玄関を降りる。房子は、それをせきたてるように、化粧途中の顔のままで玄関まで来た。


「鍵」

 突き出された手の平に、高橋は鍵を載せた。鍵を確かめると、房子は急に笑顔を作った。


「あ、高橋君。池田部長元気にしてはる?あたしまた働かなあかんねんけど、今度相談にのってもらわれへんかしらって伝えといてくれへん」


「あ、はい」と、返事をすると同時に高橋は追い出されてしまった。


 房子は、居間に戻り、化粧を簡単に済ませると、下宮が使っていた大きな本棚の扉を開けた。ぎっしりと様々な分野の本が並んでいる。


「なんか隠したあると思もたら迂闊にほられへん」とこぼしながら、一冊取り出すと、ページをぱらぱらとめくり、なにか挟まっていないか、書き込まれていないかと調べ始めた。




●樹の朝

 日曜日の堺屋は定休日で朝が遅い。9時を過ぎた頃、樹は布団の上にのそのそと起き上がった。股間や腰のあたりや敷き布団を探ると、「大丈夫や」と小さくつぶやき、にっこりした。あくびをしながらカーテンがひかれた窓の方に顔を向けると、カーテンの生地ごしの日差しが少しぼやける。頭が少しぼーっとして、自分がどこを見ているのか分からなくなり、まるで遠くから景色を眺めているようになっていった。樹は時々こうなる。誰かの声が遠くから聞こえるようだったり、体のどこかが勝手に動いている時もある。今日も右手がゆっくり持ち上がって、自分の頭や肩を撫でている。声は途切れがちのラジオのようであり、舌足らずな言葉で、まるで隣の部屋の会話が襖越しに漏れてくるような感じだ。


「……ょかったね……よかったね……」と、言ってるみたいだと樹は思った。優しく自分の右手に撫でられながら、樹はじっと座っている。言葉の意味がわかったのは初めてだ。そのうち顔がゆっくりと左に動き、勉強机のランドセルに視点が移っていった。


「……しくだい……。……しくだぃ……」


「しくだい?」

 樹は心の中で無意識に聞き返していた。土曜日の終礼の場面が頭に出てくる。


「あ、ドリル?宿題?」

 樹は、四つん這いのままのそのそと勉強机に向かった。ランドセルから算数と国語のドリルを出した。自分が手足を動かしているようであり、誰かが半分動かしてもいる。樹は勉強机の筆箱を取ると、窓辺に這っていった。


 樹と同じ部屋にはさと子も寝ていた。日曜日の惰眠に浸っていたが、徐々に尿意が高まってくる。しばらくは眠気が勝っていたが、「あかんわ。起きよ」とつぶやき、起き上がった。目の隅に窓辺のカーテンを少し開き壁にもたれて、畳にドリルを広げている樹が映った。


「……、138、そう、……ちゃうで……うんうん」と樹はぶつぶつ言いながら、宿題をしている。さと子は、布団の脇を回って窓際の樹のそばに行った。

「あんた何してんの?」


 樹は、おもむろにさと子を見上げて、

「あ、一緒に宿題しててん」


「はぁ?誰と」


「え?」と樹は、我に返ったように自分が両手に握った鉛筆とドリルを見つめた。


「うわ、寝ぼけて宿題やってんのあんた。お母さん!」

 さと子は、隣部屋の襖を開けた。千鶴子も起きだして、樹の様子に驚いている。小学校入学以来宿題は、こちらから確かめないとほぼ忘れたままにする樹が、日曜の朝から、自ら取り組んでいるのだ。千鶴子はしばらくどう解釈していいか考えていたが、


「自発的にできるようになったんやわ」と結論を出した。


「でも、誰かと一緒にしてたって言うてるねんで。寝ぼけてやってんねんて」「誰と?」「知らんやん、Qちゃんに聞いてぇや」


「Qちゃん、誰と一緒にしてたん?」


「ええとな、起きたら『しくだい』って教えてくれてな、一緒に考えててん」


 さと子がつっこんでくる。

「だから誰と」「えっと…あれ?」ときょろきょろしている樹を見下ろして、


「ほらな、おかあさん、やっぱし夢の中やで」と樹を指さした。千鶴子は苦笑いしながら、


「どこまでやったん。うん。あと1ページやん。先やってしまい。終わってから着替えて降りといでな」と言った。




●朝食の風景

 遅い朝食をほおばりながら、さと子が最後に起きだしてきた瀞に、朝の一件を報告している。


「とにかく宿題したらそれでええがな」と瀞が言う。千鶴子も、


「ほんまやね、誰でもええからこれからもQちゃんと一緒に宿題してくれたら大助かりやね」と言った。本当なら、朝食を片付けた後、樹が遊びに出て行かないうちに、宿題を確かめて、やらせる一仕事が控えていただけに、母としては大助かりだ。そこで母は、


「ほな、みんなで買いもんいこか」と言った。「どこいく?」とさと子も嬉しそうな顔になっている。


「僕、図書館いきたい」

 樹は怪人二十面相の続きを読みたくなっていた。


「うぇ、本なんかええやん。ニチイ行こや」

 ニチイは、樹の住む周辺のターミナル駅にある、大型の総合スーパーだった。ニチイと図書館は一駅ほど離れている。


「ほな車で出かけて、お母さんとお姉ちゃんをニチイで下ろして、お父さんとQで図書館いこか」

 おー!と子供たちが立ち上がる。父のアイデアで話がまとまった。

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