第6話 ビール(中編)

●仕舞い時分(閉店の時間ごろ)

 樹の店は午後9時に閉店になる。瀞が店じまいをしている頃、千鶴子は子供二人を銭湯に連れていく。樹の店のすぐ斜め前が銭湯だが、ちょうどこの時間、他の店も明かりを落とし商店街は静かになる。街灯の明かりだけがぼんやりと道を照らしている。親子が銭湯から出てきたところに、下宮家の夫人・下宮房子が、風呂の支度を抱えてやってきた。


「あ、こんばんは。僕もお姉ちゃんも、こんばんは」と、ニコニコと話しかけてきた。ちょうど良かった、下宮家に男手が居るか上手く聞こうと千鶴子は思い、子供たちに挨拶だけさせると先に家に帰るように言った。すると、


「あ、僕とお姉ちゃん。これ持って帰って」と、手提げ袋一杯に詰まったお菓子を差し出した。


「こないだラジオ持って来てくれた時に、持って帰ってもらおうと思てましてんけど、僕帰ってしもたからな」「え?」と、樹は少し混乱した。房子は続けて、


「ちょっとお菓子を家の方々に隠してね、天井裏とか床下とか探してもらったらお菓子がいっぱい見つかる宝探しをしてもらうと思ってましてんけど」と付け加えた。子供もいてへんのに、そんなこと考える人なんやなぁと千鶴子が思っているうちに、


「はい。また遊びに来てな」と房子は、お菓子を樹の手に持たせてしまった。樹の関心はお菓子に吸い寄せられていた。


「Qちゃん、もう今日は食べたらあかんで」とさと子に言われながら、二人は家に戻った。


「ほんまに可愛らしいし、お手伝いもできて、羨ましいわぁ」


「いえいえ、あれでものすごく手がかかるんです。忘れもんしたり、ぼーっとしてることも多くて」「まぁ」と他愛のない会話が続いた後、「そうそう」と堺屋の女将として話を変えた。


「こないだ主人とQがお邪魔した時、男の人がいてはったってQが言うてましてんけど、主人は気ぃつかへんでご挨拶もせんと失礼しました」

 その言葉に、房子のニコニコとした顔が一瞬ぎこちなくなった。


「え、いややわ、奥さん。そんなん誰もいてませんで。うちの人出ていってしもぅて」


「まぁ、ほんまですのん。丸い眼鏡の背の高い着物着た男の人やったってQが言うてましたんでてっきり。一人でラジオ届けた時にも一緒にいてはったって言うてたもんで」


 房子は、首筋に氷水を流し込まれたように全身を強張らせた。目の前にいる電気屋の女将と風呂屋と明かりの灯った商店街が、いきなり遠くの闇に吸い込まれていく。電柱や消えた看板の影から何かざわざわとした気配が湧き上がる。足の下から震えが上がってくる。意識が下がり、よろめきそうになるところをぐっと堪えると、なんとか立っていることができた。


「ほんまあの子何言うてんねやろ、すんません」

 女将は、自分の店の方を見やってから笑顔で房子に向き直った。そこには、どっと汗を拭きだした白い顔があった。いきなりの変化に千鶴子は驚いた。


「あの、なんか失礼なこと言うたかしら」


「いえいえそんなこと。なんでもあらしません」と房子は取り繕うと、


「僕……、Qちゃんなんかと勘違いしてはんのちゃいます?。ほな」と、よろよろと銭湯の暖簾をくぐりこんでいった。


「いややわぁ。あの子のおかしな話のせいでいらんことで謝って、自分の子供がゆるんでること話しただけやん」と千鶴子は、結局あそこに男手はいない、そして、樹にはまた改めて聞いてみようと思った。




●冷蔵庫

 いくら湯に浸かっていても、房子の寒気は収まらなかった。手短かに風呂をすませ、銭湯を出る。夜風に当たった瞬間、どっと汗が噴き出してきた。のどが渇いた。商店街の酒屋は既に閉まっていたが、店頭の自動販売機に明かりがついている。


「瓶ビールなんか買えるんやわ」と大瓶を二本買うと、着替えやタオルを入れた袋に突っ込んだ。




 からりと音をさせて玄関のガラス戸を開くと、房子は客間を見やりながら、


「高橋君ただいま」と言った。客間には明かりがついている。ついこの間買い換えた最新のカラーテレビがついている。障子を開けると、そこには若い男が、下着姿で胡坐をかいていた。男もまた風呂帰りで、短く刈った髪は乾きかけている。房子が置いていった大きめの丸盆には、一升瓶とガラスコップ、そして塩辛の小瓶の蓋が開いて、割りばしが突っ込まれていた。


「瓶ビール、自動販売機で売ってたんよ」と一本を盆に置くと、冷蔵庫にもう一本をしまった。


 栓抜きとコップを取ると、自分もだらりと高橋に寄り掛かるように座り、栓を抜いた。高橋はまんざらでもない気がしたが、表情に出さないようにしていた。自分は今、年上の人妻の家に上がり込んでよろしくやろうというところだ。青臭い息巻いた何かを押さえつけていた。


「へぇ。このへん、割と店もあるし、便利ええやん」

 高橋はテレビから目を離さず、コップの酒を飲み干すと、それを房子に向けた。ビールが注がれると半分ほど飲み、盆に置く。


「なぁ、ほんまにもう旦那が帰ってけえへんねやったら、俺もここに住もかな」


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