第5話 ビール(前編)
●夢の話・ドンゴロス
食卓を樹の一家が囲んでいる。台所に一番近いところに樹の母・千鶴子、左手に父・瀞と樹の姉・さと子が並び、その向かいに樹が座っていた。
食卓は、机面の中央部の板が長方形に外せるようになっていて、ガスコンロがついている。今日はそこに鉄板が置かれ、お好み焼きが二枚焼かれていた。樹の家は、毎週土曜の夜はお好み焼きだった。
土曜日の夜はテレビで「巨人の星」を放映している。その日の登場人物の「寝言」という台詞から、
「このごろまたQちゃんの寝言がひどいわ」と、さと子が言い出した。
樹は、先日のラジオ納品の夜、寝小便をしてしまった。怖い夢を見て、目が覚めると漏らしていた。次の日も寝小便をしてしまい、今日は相当落ち込んでいる。樹は、幼稚園の頃はもっと頻繁に寝小便をしていた。軽い交通事故にあったりもしたため、心配した千鶴子に何度も病院に連れられたり、灸をすえられたり、鍼を打たれたりしていて、樹には、辛い経験として意味づけられていた。
今、ソースが盛られ、花かつをが踊り、青海苔が振りかけられたお好み焼きを目前にして、話題はどんな夢を見ていたかになっていた。樹の夢は、下宮家の台所から始まる。
「ドンゴロスの袋が台所の机にぼたぼたぼたって落ちてきて、袋の口から手とか足がいっぱい這い出してくるねん。あの気持ちの悪い納戸の部屋抜けて僕逃げんねんけど、庭に出てずっと追いかけてくるねん」
樹が深刻な表情で話すものの、さと子は、
「そんな話、晩御飯の時にしなや。ドンゴロスてなんなん?」
「コーヒー豆入れてる麻袋のことや。下宮さんの天井裏の物置で、ドンゴロスが吊ってあったん見て、そんな夢見るようになったんやな」と、瀞が言った。
「なんで手や足が出てくるんよ。そんなん入ってるっていややわ。ゲゲゲの鬼太郎か、江戸川乱歩とか
「江戸川乱歩?」と樹が聞くと、さと子が答える。
「こないだ図書館連れていってあげた時、あんた借りてたやろ。『怪人二十面相』やん。テレビの『少年探偵団の話やで』って教えてあげたやん。あれ書いた人やで」
へぇと言う顔の樹の皿に、小さく切り分けたお好み焼きが盛られた。「ほんまに『忘れ』やな」とさと子は思いながら、小さいコテを使って自分の皿にお好み焼きを取り分けた。
「なんか天井裏やけど変な臭いしたし、血ぃとかついてるみたいになってて、ほんまに気持ち悪かってん」
樹の表情は更に曇っていく。少し見兼ねたのか瀞が、笑い顔で口を開く。
「夢はな、途中で『これ夢やなぁ』って気づいたら、逃げられるからやってみぃや」「ほんま?」と、樹が顔をあげる。
「お父さんもな、ほんまは中国行ったことないのに、大陸で中国軍に捕まった夢見たことあってな。こう後手に縛られて、目の前に穴掘ってあって、その前に何人か並んで跪かされて、これから順番に銃殺されるんや」「うわ」と、樹が声を上げる。これはこれで恐ろし気な話だ。
「でもな『あれ?おかしいなぁこれ夢やなぁ』って気づいたんや。お父さん中国行ったことないもんな」「ほんでほんで?」
「トコトコって走り出したら、すーっと、中国兵も穴も消えてな、目ぇ覚めたんや」「へぇ」
「Qもそうしたらええねんで」
「うん、やってみるわ」。樹は、箸を持った左手を顔の高さでぎゅっと握りしめ、明るい顔になった。夢の話は樹の中で一区切りがついたようだ。さと子は、そんなん簡単にできるか、という顔をしながら黙ってお好み焼きを食べている。瀞も話題を変えた。
「そう、下宮さん今度冷蔵庫もツードアの大きいのんに変えたい言うてくれはってな。重たいから、誰か人頼まなあかんわ」。瀞は頼めそうな人を頭に巡らせ始めた。
「あそこのおじさんに頼んだら?」と、樹が言う。
「あそこ?下宮さんとこか?」「うん」
「あそこ、去年離婚しはって、旦那さん出ていきはったから、奥さん一人やで」と、瀞が返した。樹がまた返す。
「えっ、着物の男の人おったやん」
怪訝な顔をして瀞と千鶴子は顔を見合わせた。
「それよその家と間違ごうてるのん違う?」
忘れっぽいの樹のことだからと千鶴子は思ったが、
「丸い眼鏡の背の高いおじさんで、ほんまにおったもん。クーラー付けるのに『重たいからおじさん手伝ってくれたらええのに』とか思っててん」と樹に返され、何も言えなくなった。
「ほんまやで。こないだラジオ付けたあと、おばちゃんが『天井裏にええもんないか見てくれ』とか言うた時も、ずっと僕の後ろからついてきてくれたもん」
樹もいくらか自分が忘れっぽいことを自覚しているが、これは間違いない。父はしばらく思い出していたが、
「いや、誰もいてなかったで」と、答えた。
「離婚したって聞いたけど、戻って来はったんかも知れんなぁ。かっこ悪い思て、挨拶にも出て来はれへんかったかも知れんし」
千鶴子は、あっという間に論理的な結論を導いた。「ほぉ」と、瀞とさと子が頷く。樹は、なんだか中途半端な顔をして家族の顔を見ていた。
「そしたら頼んでええもんかどうかわからんな」と瀞と千鶴子は、相談を続けている。巨人の星は終わっていた。樹は、テレビのチャンネルを4chに回した。仮面ライダーの主題歌が流れ出した。母は横目でテレビの画面を見ながら、樹が怖い夢を見るのも、こんな番組のせいだわと思った。
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