第4話 ラジオ(後編)

●口添え

 雲が晴れて陽射しが雨上がりのアスファルトに眩しく反射していた。下宮家の前の路地は未舗装で、樹の自転車の轍がついている。


「こんにちはー。堺屋ですー」

 樹は、こんな時、当たり前のように母に仕込まれた通りに大きな声を出す。照れがない。左手の縁のガラス戸がカラリと開いて、


「あれ?もう来てくれたん?」

 ニコニコと下宮夫人・房子が笑っている。


「ラジオ届けに来ました」。ここまでが言いつけられた台詞だった。樹はラジオの箱を入れた紙包みを持って、縁側に歩いた。


「僕、付けていってくれへん?おばちゃんようせぇへんし」


 箱を手渡してすぐ帰るつもりだった樹は、「えっ」、と言いかけたが、「うん」と力なく返事をした。父の手伝いで納品に来る時は、かならず箱から出して、据え付けるものだった。


 樹は、縁側から招き入れられた。先日クーラーを付けた客間の奥が台所になっている。薄暗い台所は、小さな食卓も置かれていて、二脚の椅子があった。樹は、どうしたらいいか半ばわからなくなっていた。


「どうぞ」と房子が、一方の椅子を引く。樹は言われるままにそこに座り、食卓に箱を置き、開け始めた。房子は、流し台の横の棚を指さし、


「ここに置ける?」と言った。


「うん」。言われた場所に置くと樹は、時計の時刻を合わせてプラグをコンセントに挿した。時計の部分にほんのりと電球が灯った。樹はそのまま、


「ここがラジオの電源のスイッチで……」と使い方の説明を始めた。これはあらかじめ仕込まれていないことで、樹は、困った気持ちと何かに引き込まれているようないやな気持になりながら、自分が知っている限りを伝えていった。


「ふんふん」と房子は身を乗り出して、ラジオと樹を交互に見て説明を聞いている。樹は、説明がもう尽きてしまうことが段々怖くなってきた。


 やがて、ラジオの説明は終わった。


「よぉくわかったわぁ」。房子もラジオの操作方法程度がわからないわけがなかった。小さな子供が懸命に説明するのを、もっともらしく、やや大袈裟に感心してみせたのだ。房子の手がそっと樹の肩を撫でた。


「僕ほんまにええ子やなぁ。お父さんの手伝いもできるし。偉いなぁ」と、目を細めた粘っこい笑顔が更に近づく。


「なぁ、この間も天井裏とか行ったやろ。なんかなかったかなぁ」


「わ、わからへんわ」。自分の声が震えていることに樹は気づいた。それが余計に自身の恐怖心を掻き立てていく。


 房子は赤い口紅がのった口をにっちゃりと開き、


「なんかええもんあると思うのよ。内緒でおばちゃんと探さへん?」。房子は、その場にしゃがんで樹を上目遣いに見つめた。樹の全身がこわばる。いつの間にか房子は、両手で樹の肩を、まるで蔦が絡まるように捕らえていた。次の瞬間、房子の向こうに人影が動いた。樹の目に紺の着流しが飛び込んできた。おじさんだ。樹の視線が動く。それに気づいた房子が、猫のように後ろを振り返った。


 房子が振り返る様がコマ送りの写真のようになる間に、男性はにっこりと樹に頷き、消えた。房子は、すぐに樹に向き直った。そこには、少し力の抜けた表情の樹がいた。


「ええよ」。房子は、この表情に返って戸惑った。もう一度、振り向くが誰もいない。


「うわぁおばちゃん嬉しいわぁ」。笑顔の眉を少しひそめて、房子は立ち上がった。


「また天井裏から見てもらおかなぁ」。房子は、柔らかく樹の肩を押して納戸へと歩いた。押されるままに歩く樹の反対側の肩に紺の着流しの袖が触れた。樹は、気持ちがほころぶのを感じた。板襖は軽く開いた。納戸の天井には、引き戸が見えた。樹の後ろで樹にだけ聞こえる優しい声がする。


「梯子あらへんわ」。樹は、そのままを声に出した。「梯子あらへんわ」


 房子は、少し唇を結んだが、すぐ笑顔を作り、


「箪笥よじ登ったら上がれるちゃうのん」と言った。後ろからの声が


「ちっこいからそんなんでけへんわ」と言う。樹が続けて言う。


「ちっこいからそんなんでけへんわ」


「そしたら、おばちゃんが箪笥の上に持ち上げたげるわ」


「うん」「うん」


 房子は、樹の両足を両手でかかえて抱き上げようとした。樹はされるがままになっている。房子が力を入れようとした時、紺の着流しが樹の両肩を抱き、体重をかけた。


「ぇええ?何?凄い重いやん」

 樹はぼんやりと房子を見下ろした。その上から丸い眼鏡の男性が冷たい顔で房子を見下ろしていた。


「んんん」

 房子は何度も力を入れたが、樹は少しも持ち上がらなかった。白いうなじに汗が滴る。


「そ、そしたら、床下見てくれへん?床下やったら自分で入れるやろ」。房子は再び、樹の肩を抱いて、縁から外に降りた。


「雨降ってたから、じゅくじゅくやん」


「雨降ってたから、じゅくじゅくやん」。樹は、面白くなってきていた。房子は唇を噛むと、


「ええっと、そしたら……」と、イライラした様子で庭を見渡し、歩きまわり始めた。


 その時、樹の目に眩しい陽射しが飛び込んできた。目の前が一瞬白くなる。


「あ!僕『ラジオ届けたらすぐに戻ってきてや』って言われてたわ」。樹は、頭の中からまだ言われていたことがあったことを思い出した。腹から大きな声で言うことができた。




 樹は自転車に飛び乗った。




「おばちゃん、僕帰るわ」。房子は、慌てて樹の後を追おうとしたが、目の前の路地はまだぬかるんでいる。樹は、あっという間に角を曲がって行った。


 樹は思い切り自転車を漕いで走った。つい先ほどまでの恐ろしさがすっかり抜けていく。抜けたところに新しい空気がどんどん入ってくる感じがした。


 雨上がりの眩しかった道は、路面が乾きかけている。自転車は、商店街への緩やかな下り坂を駆け下りていった。




●店先

「なんや、そのまま遊びに行ったかと思ったわ」。店では瀞が、時間を持て余していたようだ。


「あのな、下宮さんとこ行ってな…」。樹は、出来事を話そうとした。


「ラジオちゃんと納めて来たんか」


「うん、それでな、あれ・・」。つい先ほどまでの出来事から恐ろしさが抜けると、ただ、ちゃんとラジオの箱を開けて、据え付け、説明をして、帰ってきただけだった。


「あれ?」。樹は、今帰ってきた道を振り返った。そこには、路面から立ち上る陽炎が揺れているだけだった。

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