第3話 ラジオ(前編)

●ラジオ 代済み

 「ただいまぁ」

 樹がいつものように玄関土間の上がり口でランドセルを下ろそうとした瞬間、母・千鶴子は、


「待って、先に拭くから」と樹を制した。今日は朝から雨が降っていた。千鶴子は、身振りで樹に後ろを向くように促しながらしゃがむと、右手に持った雑巾でランドセルの滴を拭った。左手に持ったタオルを樹に手渡すと、樹も衣服の濡れたところを簡単に拭った。千鶴子はランドセルを担ぎあげると、


「はい、お帰り」と言いながら立ち上がった。階段の下にランドセルを置くと、


「ご飯ちょっと待ってな。袋貼ってしまうから」と食卓に座り直した。


「わぁ。何これ」

 家電メーカーのロゴが入った包装紙が、決まった大きさで切られ、積まれている。すでに糊付けして袋になったものは、横に置かれた空き箱に並べられていて、ロゴのバラのピンク色が美しく咲き誇っていた。


「うちで買いもんしてもろた時、紙袋に入れてあげたら、ええやろ。こことここを折って糊付けしたら、袋になるねんで」


「うわ、僕もしたい」

 千鶴子は、このような流れになるのは想像がついていて、


「ほなQちゃん、この糊代のところに定規あてて、折り目つけていって」と、簡単に樹がこなせそうな役目を言いつけた。


「うん」


「丁寧に一枚ずつまっすぐやったら綺麗に仕上がるで」「うんうん」

 樹はもう定規と紙に集中していた。この状態になったら樹はしばらく静かに作業を続ける。千鶴子は、よく樹の使い方を心得ている。また先ほどの「丁寧に一枚ずつまっすぐやったら綺麗に仕上がるで」も、千鶴子なりの工夫があった。「丁寧に一枚ずつまっすぐやらんと綺麗にならへんで」と言えば、樹は「できるもん、やってみんとわからんやん」と反発するのだ。綺麗な仕上がりといういわば目標に向けて、工夫がしたくなるように持っていっているのである。樹は、母の計略(教育法)にまんまとはまって「丁寧」に「一枚ずつ」「まっすぐ」糊代を谷折りにしていくのだった。


 千鶴子はしめしめと頷きながら、糊付け途中の袋を仕上げると、残りの紙を片付けて空箱にまとめていった。樹の様子を見ると、右手で定規を押さえ、左手の人差し指の指先を使って文字通り「丁寧」に折り目をつけていた。


 千鶴子は、樹が無心になにか手作業をするのを見るのが楽しかった。樹は左利きで、どうにも手の動きがもどかしい。当たり前のやり方から考えると、定規や紙の向きを入れ替えたりしながら、進めて行く姿が可愛かったのだ。夫が樹の手伝いをさせるようになると、小さな子供に持たせるのが心配になるような工具を危うい手つきで触ることになる。最初は冷や冷やし、いつか指でも飛ばさないかと気が気ではなかったが、父の手元をじっと見つめて、真似ていく様子がなんとも見飽きないのだ。


 樹の様子を横目で見ながら、千鶴子は台所で昼食を作りだした。


 50枚ほどの紙を折りきった樹は、満足気に紙をトントンとまとめると、食卓の片隅に置いた。ほどなく焼き飯が盛られた皿が、目の前に現れた。スプーンを持った千鶴子の手が樹の左側に伸びてきた。


「はい、お待ちどう」「いただきまーす」

 樹が調子よく食べ始めるのを見ながら、千鶴子も焼き飯を食べ始めた。


 雨はずっと続いていた。こんな日は客もあまり来ない。樹の家が営む堺屋電工舎がある商店街は、銭湯を中心にした20軒足らずの商店が道路を挟んで並んでいる。銭湯が開く時間でもない、雨音だけがしとしとと降り続く午後の昼時だった。


「すんませぇん」

 焼き飯がほぼ片付いた頃、店先で女の声がした。


「はぁい」

 千鶴子が声を返す。口に残ったものを茶で流し込み、千鶴子は立ち上がって、店に降りた。


「あぁ、お昼でしたん?すんませんそんな時に」「いえいえ」「ちょっと前通ったんで、こないだお願いしたラジオのお金払ろとこう思いましてん」と、会話が聞こえる。


「あ、こないだの」

 樹は、つい二日ほど前にクーラーを付けた家のおばさんだと思い出した。そのへんの長屋のおばさんとはちょっと違うと思ったのも思い出した。同時に一瞬感じた恐ろしさも思い出したが、それは少し現実味が無くなりかけていて、本当にあったことなのかも樹の中ではおぼろげになってきていた。


 いつの間にか、焼き飯を食べるスプーンの動きが止まり、樹はぼーっとしていた。樹は、時々こうなる。


「Q、Qちゃん」

 千鶴子が部屋に戻って来て、樹の肩を揺さぶり、樹は我に返った。


「今の人、こないだの奥さん」「うん」


「こんな日に先払いに来はって、変ってるなぁ」「ふぅん」

 要領を得ない顔の樹に、


「買いもんはな、品もんもろてからお金払うもんやろ。雨の日にわざわざ先に持ってくるんてなぁ」と説明した。


「あぁ、ほんまや」

 ようやく飲み込めた様子の樹に、「食べてしまいや」と千鶴子は言い、まだ子供やなぁという顔をした。上り口のそばには店の会計をする机が置かれている。その脇に一か月の予定を書き込めるようになった黒板が掛けてある。千鶴子は黒板の5月13日の欄に、「下宮 ラジオ 代済み」と書いた。



 樹の部屋は二階にあった。二歳上の姉・さと子と二人で使っている。部屋は店の真上にあった。ランドセルからのろのろと教科書を出していると、「Q」と呼ぶ父・瀞の声が店から聞こえた。


「これ、こないだの下宮さんちに届けてきて」

 瀞は、つい今仕入れから戻ったようで、ラジオの箱の他、電池や蛍光灯などが店に運び込まれていた。


 ぼんやりと樹は、あそこに行くのがいやな気持がした。いや、下宮夫人に会うのがいやな気持だった。ただそれを上手く言葉にできない。ぽかんと口が開いたところで、瀞が続けた。


「なんか急いではるみたいやしな。雨もあがったし。それと、ラジオ届けたらすぐ戻ってきてや」

 嫌がる理由が無くなってしまったようで、樹は「うん」と言った。


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