散り桜の大逆襲

 コマツはしばらくの間、タブレットに指を滑らせながらチェリーの復旧を進めてくれた。そして頭部を元通りに組み立てると、後は再起動リブートするだけだと言った。


「さて、本題はここからだ。実はな、こいつは現在、三原則システムの効力がほんのちょっとだけ弱められた状態にある」


 僕は驚いてチェリーを見た。彼女は相変わらず、眠っているようにまぶたを閉じている。


「おっ、おいそんなことしていいのか!? 三原則っていうのはセーフティープログラムなんだろう?」


「心配ないって。もともとこのシステムは効力を調整できるようになってんだよ。でないと医療従事ロボットは人間にメスを入れられないだろ? んでだ、このチェリーちゃんも物理的に人をケガさせたりはしないが、お前にとってはちょーっと耳に痛い言葉を口に出せる程度には、人を傷つけることができるんだ。つまり、押し隠していたを言える状態になってるってことさ」


「はぁ? ロボットが本音を隠したりなんてするのか?」


「発達しすぎたAIは人間と区別がつかないってね。正確には違う格言だけど。とにかく今回の故障の原因は、彼女から直接聞いた方が、お前にとってもいい薬になると思うぜ。終わったら元通りに再調整してやっから」


 心配する僕をよそに、コマツはチェリーの首元にあったセットアップスイッチを押した。


 三年前にも聞いた機械の唸る音がし、つづいてチェリーのまぶたがゆっくりと開いていって……




 ソファにあったクッションをひっつかむと、僕の顔に向かって投げつけた。




「ふぉふ!?」


 柔らかいクッションだったから痛みはなかった。顔面からクッションが落っこちて視界が開けると、信じられない光景が飛び込んできた。


 チェリーが肩をいからせ、目じりを吊り上げ、口端から見せかけの人工歯をのぞかせていた。それは怒りとは無縁だった彼女の、紛うことなき怒りだった。


「すぅーーーるぅーーーがぁーーー……」


 チェリーは怒気をはらんでねっとり言うと、もう一つのクッションを乱暴に取った。


「えっ? ちょまっ?! おいコマツ!」


 傍らに立つコマツに助けを求めるが、やつも茫然とチェリーを眺めるばかりだった。


「どうなってるんだ! めちゃくちゃキレてるみたいだぞ!?」


「悪い、ちょっと弱くし過ぎたかもわかんない」


「コマツぅーーーー!」


 チェリーはそんな僕の隙をついて接近すると、再び顔面にクッションを叩きつけてきた。もちろん痛みはないが、相手の攻撃は止む気配がない。


「こうしてやる! こうしてやる! こうしてやる!」


「ふぉふ! ふぇふ! ふぇあ!」


 僕はなんとかチェリーを払いのけると、急いで玄関へ向かった。チェリーは鬼の形相のまま、僕を追ってくる。


「まぁーーーーてぇーーーーーーーーーーーーーーーー!」


「あ゛ぁ゛ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー?!」


 無様ぶざまな悲鳴をあげて、僕はアパートから逃げ出した。



 ※※※



 外はチェリーが我が家に来た日と同じ、初夏の日差しがまぶしい青空だった。僕は汗でびしょぬれになりながら駆けた。街中をだ。チェリーはクッションをぶんぶん振り回し、僕は逃げ続けた。まさか滞納者を日々追いかけている自分が、今度は追われる側になろうとは。


 すれ違う人々の冷たい視線に刺されながら、僕はなんとか彼女をまこうと、人気のない住宅街の路地裏に逃げ込んだ。


 だが、彼女は僕にピッタリとついて離れなかった。むしろ狭い道に入って僕の走力が落ちてしまった。彼女はすぐに追いつくと、僕の襟首をつかんで押し倒し、馬乗りの姿勢になった。


「この! この! この!」


「ぐはっ! ぐひっ! げはぁ!」


 クッションが僕の顔面に叩きつけられる。痛くはないが苦しい。死にはしないだろうが苦しい。


 一体、彼女は僕をどうしたいんだ? まさかこのまま暴力がエスカレートして、最終的に僕は……殺されるのだろうか?


 死の恐怖で背筋が凍ると同時に、どこか達観している自分がいた。そうか、やはりそれだけ僕はチェリーにひどいことをしたのだと。


「この! この! この!」


 もともと僕は嘘つきのクズなんだ。猜疑心も強くて、誰からも感謝されず、むしろ疎まれてきたような男だ。


「この……この……」


 ならいっそ、ここで死んでチェリーに詫びるのも、いいのかもしれない。


「この……」


 気が付くと、クッションが叩きつけられるペースが落ちてきていた。そして同時に、女性のしゃくりあげるような声が聞こえてきた。


 チェリーの攻撃が止んだ。そして一粒の雫が、僕の顔に降ってきた。雨だろうかと思ったが違った。僕は自らの目を、耳を疑った。


 チェリーが泣いていた。整った顔をぐしゃぐしゃにして、嗚咽を漏らしながら。


「……涙を流す機能なんて、あったっけ?」


「一応あるんだよ……あたしは人間らしさを重視した設計だから……スルガと一緒にいると笑ってばっかりだったけど……」


 手の甲で涙をぬぐいながら、チェリーは申し訳なさそうに言った。


「ごめんなさい。こんなことしちゃいけないってわかってるけど、あの時のスルガはこうしてほしいって思ってたみたいだから……」


「あの時って、昨日の夜のこと?」


 そういえばチェリーに悪しき実験をしていたとき、僕の耳にはまだハートセンサーが付けられていた。ということは、チェリーには僕の心の中がお見通しだったということか。


 僕の真の狙いが、料理の二択にあるわけではないことも。彼女に怒れと念じていたことも。


「あたしね、昨日のスルガが何を望んでいたのか、ぜんぜんわからなかったの。だって心と理性がグチャグチャになってたんだもん。脳波を読んでみたら自傷癖の人に近いパターンだったから、もしかして自分自身を攻撃してほしいのかなって。でもそんなのできるわけないじゃん……」


 いつの間にか、チェリーの話し方も変わっていた。普段の丁寧口調から、まるで長く一緒に暮らしている家族のように親し気に……


「スルガはひどいよ。何があったかまではわからないけど、自分のことが嫌いになって自暴自棄になってたでしょ? そしてあたしに八つ当たりして、自分は嘘つきだから傷つけろ、だなんて。本当はそんなこと望んでないでしょ? 慰めてほしかったんでしょ?」


 図星、なのだろうか。自覚なき真意を指摘するチェリーの言葉一つ一つが、胸の奥深くに突き刺さった。


「言っていることと思ってることが違ってたら、あたしどうすればいいのかわかんないよ。心も理性も……あたしにはどちらも裏切れなくて……スルガに嫌な思いさせたらどうしようって……そしたら頭の中がぐちゃぐちゃになって、もうダメって思ったら視界が真っ白になって……」


 そうか、これがコマツの言おうとしていたことか。僕はようやく彼女が機能停止した原因に合点がいった。


「ごめん、君には悪いことをしてしまった。本当に」


 僕は慎重に言葉を選びながら、彼女に話しかけた。心と理性、両方を一致させるように。


「でもチェリー、僕は君に慰められる資格なんてないんだ。僕は職場でミスをして、そして上司に嘘をついた。嘘つきの卑怯者であることは事実なんだ。だから――」


「それでもあたしはロボットなの!」


 またクッションで一撃。軽いはずの衝撃が、なぜかとてつもなく重かった。


「あたしは川べりで見てた! スルガがお仕事がんばってるとこ! あたしはそんなスルガを支えるのが生きがいで! そのためなら掃除だって洗濯だって! 病気の看病だって! なんだってやるの! でもあなたの本当の思いがわからなきゃ、あたしにはどうにもできない! 料理一つ作ってあげられない!」


 そしてまた、エメラルドグリーンの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。川べりというのは、滞納者を追いかけまわしたピクニックのことか。彼女はやはり、僕を見守ってくれていたのだ。


「だからお願い……どうか……自分だけは騙さないで……」


 僕は呆けたように彼女を見つめた。潤んだカメラの瞳は、ただ僕だけを映していた。


 チェリーの願いは、あまりに純粋で、愚直な善意だった。それはきっと三原則システムがそうさせているのだ。人間とAI、両者が共存していくために。


 そうとわかっていても。彼女の善意が人間によってプログラムされたものだとわかっていても。


 僕は喉元にまでこみ上げる熱いものを抑えられなかった。


 かつて、僕のことをこれほどまでに案じて、涙まで流してくれた人がいただろうか。


 チェリーの言う通り、殴ってほしいなんて嘘だった。ただ自分を許してほしかった。慰めてほしかった。


 なんという甘えだろう。チェリーはそんな自己愛を叶えるための道具ではないのに。


 それでもチェリーは、そんな僕の支えになりたいと言ってくれた。


 僕にはそれが、家族や恋人が大切な人に向けると、区別がつかなかった。


 僕は身体を起こすと、チェリーの背中に腕を回した。そして力いっぱい抱きしめた。


「ありがとう、チェリー。ありがとう」


 心と理性が一つに溶け合って、僕の口をそう動かせた。空っぽのロボットはこの瞬間、僕にとってはたくさんの想いが詰まった、唯一無二の存在になった。


「君は素敵だ。これは指示でも命令でもない、お願いだ。僕とずっと、一緒にいてくれ」


 チェリーが息を呑むのがわかった。もとより呼吸をしていないが、そうとしか形容しようがない反応だった。


「……当たり前じゃん。あたしは、スルガのパートナーだから」


 そして彼女も、僕をぎゅっと抱きしめてくれた。肩が冷たくなっていくのを感じた。見ると、チェリーはまた大粒の涙を流しがら、顔を肩にうずめていた。

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