春の予感
チェリーがやってきてからの三年間は、僕らにとって充実した毎日だった。
家事という重荷から解放されたおかげで、僕は心置きなく仕事に打ち込むことができた。風邪で寝込んだときはチェリーがつきっきりで看病してくれた。礼を言って頭をなでると、小さな子どものように喜んだ。
休日ともなると、二人で近所の大きな川にピクニックへ出かけた。爽やかな風に吹かれながら、川べりにシートを広げてサンドイッチを食べる。チェリーが水筒にいれる紅茶は、装着したハートセンサーの信号によって、その日の僕の気分に最適な種類を用意してくれた。だから毎回違う味で、それでいておいしかった。
そんなある日のこと。シートの上に寝そべって日向ぼっこをしていると、どこからかゴムボールが飛んできた。
「すいませーん! 投げてもらっていいですかー?」
声がした方を向くと、小学生くらいの男の子と、彼の両親らしき男女が手を振っていた。快くボールを投げると、親子はまた楽しそうにボール遊びに興じた。
「いいですね、家族団らんって」
チェリーは親子を見て微笑ましそうに言った。
「そうだね。ああやって次の世代が育てば、この街の税政も安泰だ」
「えっ? なぜ税政の話が出てくるんですか?」
「ジョークだよ、ジョーク。チェリーにはわかりづらかったかな」
首をかしげるチェリーに僕は笑った。ハートセンサーを付けてないと、チェリーは僕の心を読み取れない。だから言うことを真に受けてしまう傾向がある。だがそれはAI特有の従順さの表れだ。
そう、機械は従順だ。付き合うのに頭を悩ませる必要がない。
「ほんと、これなら彼女なんて作る必要なかったな」
ふと口をついて出たつぶやきだったが、チェリーの聴覚センサーにはばっちり聞こえていた。
「スルガ様にも恋人がいたんですか?」
「昔はね。でもうまくいかなかったんだ」
あまり思い出したくない過去だったのに、チェリーの前だとなぜか抵抗なく話すことができた。これもまた、彼女がAIだからだろう。
「仕事柄、人を疑ってかかってしまうんだ。滞納者というのは、なんだかんだと理由を付けて税金の支払いを渋る。だからまず相手の言い分を疑ってかかって、矛盾を見抜いて滞納者を問い詰めるんだ。なにせ人間は、思ってもないことを平気で口にできるからね」
だから、恋人との付き合いがうまくいかなかったのは僕の責任だ。一緒に暮らすほどの仲になれたというのに、携帯端末の通話が長いというだけで浮気を疑い、ボロがでるはずだと問い詰めて愛想をつかされ、その後本当に浮気された。なんという自業自得だろうと、自嘲の笑みを浮かべる。
「その点、チェリーはいいよね。嘘をつかないし、ハートセンサーを使えば僕の心を受信してくれる。人間同士でも互いに何を考えてるかわからずけんかをするのに、チェリーとだったらその心配がない。一つ屋根の下で暮らすなら、人間よりもロボットの方がよほど楽だね」
僕は褒めたつもりだったが、チェリーはなぜか少しの間、言葉を詰まらせた。
「ありがとうございます。スルガ様のお役に立てているなら、ロボットとして本望です。あなたを傷つけるようなことは絶対にしません。そのために三原則システムがインプットされてますから」
「んっ? それって前に話しかけたやつ?」
「そういえば解説がまだでしたね。三原則システムはアイザック・アシモフが――」
彼女が尻切れトンボになっていた話を始めようとした矢先、僕の視界の片隅にある男が写った。
川べりを散歩していたらしきそいつは、僕ら納税係が要注意人物としてマークしていた滞納者だった。相当の財産を隠し持っているのはわかっているのに、僕らの目を巧みにかいくぐって捕まらなかったやつだ。
「ごめん、チェリー。その話はまたあとだ。仕事の用事ができた」
僕はシートから飛び起き、すぐさま走り出した。男も僕の姿を認めると、慌てて逃げ始めた。しかもやつは泳いで逃げるつもりだったのか、なんと川の中へ入っていく。だがここで会ったが百年目だ、絶対に逃がしはしない!
僕も水しぶきをあげて川に飛び込み、ようやく取り押さえた。
「どうも。支払いの滞ってる住民税、しっかり払ってもらいますからね!」
すると男は逆上して、びしょ濡れになりながらのたまった。
「ふざけんな! この税金泥棒が! 俺たちが一生懸命稼いだ金をごっそり持っていきやがって!」
「納税は国民の義務ですよ! 払ってさえいただければ問題ないんです!」
「うるせぇバカ野郎!」
僕は罵声を浴びつつも、携帯端末で同僚と連絡をとった。そしてやってきた同僚とともに、あるときは男に詰め寄り、あるときはなだめすかし、ようやく電子マネーで滞納分を支払わせた。
やれやれ。せっかくの休日だというのに、ずぶ濡れになってしまった。全身が冷えて寒い。チェリーの元を走り去ってだいぶ時間も経ってしまっている。
水を滴らせながら戻ると、彼女は僕がいなくなったときと同じ正座の姿勢で待ってくれていた。
「お帰りなさいませ。お仕事お疲れ様です」
チェリーが水筒のふたに注いだ紅茶を差し出した。僕はそれを受け取り、喉に少しずつ流し込む。温かい紅茶が、冷え切った身体と心を温めていった。
「ありがとう、チェリー。君にはいつも世話を焼かせてしまうね」
チェリーは持っていたタオルで僕の身体を拭きながら言った。
「これが私の生きがいですから」
生きがい。ロボットがそんな言葉を使うとは思わず、また笑ってしまった。何がおかしいのかわかっていない様子のチェリーの頭をなでてやると、彼女もまた無邪気な笑顔を浮かべた。
こうして気づかぬ間に、僕はチェリーに対して特別な愛着を抱くようになってしまっていた。そう、なってしまっていたのだ。なぜならそれが後々、重大な間違いを犯す原因になってしまったからだ……。
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