花弁の記憶

尾岡れき@猫部

花弁の記憶



 ■

 


 幼い記憶を辿る。桜の花弁が舞い散る中で、彼女と出会った。


 黒髪で、陶器を思わせる様な白い肌。言葉が時々通じなくなる。言葉を介しながら、突然、不明瞭な言語を話すのだ。彼女は口をパクパクさせて、必死に言葉を伝えようとする。すると、少しずつ理解できる言葉が、鼓膜を震わす。それはその日、その時によって違う。


 だから懸命に、話せる時に話す。彼女に恋をしていたのかと問われたら、どうなのだろうと思う。もう会えなくなった人だから、余計に必死になっているのかもしれない。


 次第に、言葉を聞き取る事ができなくなった。


 次第に、彼女の姿が霞んで見えた。


 次第に――見えなくなって――声が聞こえなくなって――そこにいる事も分からなくなって。


 今は――そこにいるかどうかも分からない。


 ただ、時々感じるのだ。


 僕の手を握る感触を。


 


 


 ◇


 


 


「愚かなことよ」


 と猫又の翁は、無表情に言う。黒猫の翁は300年を生きて、尾が割れた。それはまさに境界線を通り超えた妖の証だった。


 愚か――そうなんだろうな、と私は思う。たかが100年の樹齢の桜の木だ。猫又と化した翁から見れば、雛鳥にも等しいだろう。


「人との境界線を超えて、交わりを求める者は昔からいた。そうじゃの、人魚族の話なら、汝も聞くのではないか? 交わりを求め、声を捧げ、結局は水の泡となって命を費やした。それほどの代償をもってして、ヒトと交わることの意義を儂は感じないがな」


 淡々と言い放つ。


 そうだろう。


 同じ桜の木も、薔薇も、金木犀も、百合ですらも口を揃えて「諦めろ」と言う。あの人と言葉を重ねることができたのは偶然でしかない、と。そもそも精とヒトが境界線を超えて、交わることそのものがなることであるのは間違いない。


「そうかな?」

 と呟く妖がいた。


 白い猫の姿をした彼は【騎士】と呼ばれていた。なんでも中世ヨーロッパの時代から生きながらえた妖であるという。グローバルな社会とヒトは言うが、妖の世界でもそうなのか、と思うと夢物語も夢に思えないから不思議だ、と精は思う。


 翁は眉をひそめる。それはそうだろう。彼からしてみれば異郷の者であれ、先を長く生きた年長者には違いない。どうしても遠慮し、席を譲るのも致し方がないことか。


 【騎士】は1000年をとうに越えた妖なのだから。


「桜の君」


 と【騎士】は言う。


「彼は君が見えなくなっても、この場所に来ている。忘れる事が出来ないほどに、記憶の欠片を大事に抱きしめている事に他ならないんじゃないかな?」


 目の前にいる、【騎士】達の存在を一切感じる事のできない彼を見て言う。


 黒猫の翁は不快そうに鼻をならす。翁は【騎士】に対抗意識を燃やす。精から見てもそれはあからさまで、花たちはそれを見て陰でこっそり笑うのだ。


「仮に百歩譲って、そうだったとしても、妖や精の境界線にヒトは入り込めるものか。交わりのできぬ事に期待を持たせるなど【騎士】殿、それ程酷な事はありますまい」


「もう会えないと割り切る事の方が確かに幸福だろう。だが、本人が逢いたいと覚悟を決めるなら、その想いを磨り潰すことの方がなんて残酷か。例え、それが束の間の夢であっても」


「それはあまりにも無責任な放言ではないか!」


「折角の宴に、そうまくしたてるな、若き翁よ」


 と言うのは九尾の狐。九百年を生きた老獪である。その隣で巨大の鬼は小さく頷く。ビルの屋上よりこうべが高い。鬼は窮屈そうにビルの間で胡座をかいていた。


「まぁ、何にせよ。ヒトと交わりたがる妖や精は今に始まったことではない。猫の【騎士】殿、少しご助力頂けないか」


 穏やかに語るのは二千年を生きた鴉天狗。扇で扇ぐ度に桜の花弁がひらりひらりと吸い寄せられるかのように踊るのだった。


 白い猫は小さく首を垂れる。


「心得た」


 桜の精である彼女は、そんな妖たちの宴を尻目に彼を見やる。これだけ騒ぎ通しても、彼は精も妖も見えることはない。その手に触れたことにすら気づかない。


 愚かなんだろう、と思う。

 翁の言う通りに。


 猫の【騎士】と目があう。かの猫は小さく喉を鳴らす。それは小さく微笑んだような錯覚すら憶えたのはどうしてか。











 会えないことが分かっていながら、変わらずに桜の木の下で佇む。なんて愚かなんだろう、と思う。


 お化け桜と、人は言う。


 ここは妙にザワザワするの、と誰かが言う。きっとその時代、命を絶った人たちがいるのだろうと、無責任に誰かは呟く。


 誰かがいる感覚がある。でも怨念だとか恨みとか、そんな突き刺すような感情ではなく、誰かが寄り添っている感覚が拭えない。


 特に、こんな満月の――桜が舞い散る夜には。


 と、猫が佇む。

 いつの間にいたんだろう。


 澄んだ目で、彼を見やる。自分はまるで惑わされているのだろうか。そう思っていると、猫はにゃー――とは鳴かなかった。


「少年、探し人を求める覚悟はあるのか?」


 淡々と言う。

 桜の花弁が散る。


 どうしてか、幼い記憶がわきあがる。誰か隣にずっと寄り添ってくれているような。あの時から変わらずにあの子がいるような感覚が拭えなくて。


「覚悟はあるか?」


 猫は変わらず問う。彼は迷わず――頷いた。






◇■




 月に照らすこと、七日の清酒。それを無造作に桜の根元に撒く。

 炎で炙った銀の鈴。枝に吊り下げて風が鳴らすのを待って。


 磨り硝子の眼鏡で視界を塞ぎ、香を焚く。

 護符に書かれた不規則な漢文を読み上げる。


 これを他人が見たらどう思うだろうか?

 騙されたと思って、一心に念じる。


 一度でいいから、会えたらと思う。


 さわさわと風が揺らす。

 さらさらと、 桜の花弁が散るのが分かる。


 さらさらと、さらさらと、その手に触れる感触に気付く。


 眼鏡越しに、一人の少女が佇むことに気付く。あの時の少女が、少しだけ成長した姿で 。


(え?)


 不覚にも視界に涙が滲む。それでも焼きついて離れない彼女がいる。その手を彼は握る。彼女は少し驚いて――満面の笑顔を浮かべた。


 花弁が舞い散る。


 月明かりに灯されて、蕾が開いて。


 花弁が舞う。

 花弁が降る。

 花弁が踊る。


 そんな中で、彼女は手をのばす。不器用なステップで、彼も手をのばす。覚悟はあるか? と猫は問うた。答えは最初から決まっていたんだな、と今さらながらに思う。


 恥も外聞もなく、彼女を抱きしめて。

 言葉で契りを交わしながら。


 それは巷の恋人たちから見たら、なんて幼稚なんだろうと思いながら。


 それでも、と思う。

 猫に問われた覚悟を捧げることに躊躇はなく。


「ずっと探してたんだ」


 という言葉と


「ずっと待ってたんです」


 という言葉が重なって。なんて色香もなくて、青臭いんだろうと思う。聞こえるんだ、触れられるんだ、ただそれだけが嬉しくて。


 その感触を確かめるように――二人は抱き締めあった。






















 猫が祝福するようににゃーと鳴いたのは――天狗が空を駆け――鬼の影法師を――猫又のぼやきを、少年が感じる事が出来るようになるのは、もう少し先で、また別のお話である。


 今は、ヒトが住む境界線、その向こう側。その住人の祝福を、知らず知らずに受けとるのみだった。 


 

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