三
そして、時が走り夏の盛りに、予定通り立山・剣岳縦走を、室堂にベースキャンプを張り基点として完遂し、北アルプスの岩稜の岩肌を充分に堪能した。そして、秋の谷川岳山行も終え正月が過ぎて、また我らの冬山シーズンへと入っていた。勿論、その間の丹沢への山行も欠かさなかった。基礎体力強化のためと称してである。無類の山好きらにとり、時間が空けばなにかにつけ登るための理屈を探し、山に入っていただけなのかもしれない。それはともかく、ふたたびの挑戦となる。
佐久間は肩に食い込むキスリングザックを背負い、木枯らしの吹きすさぶなか、ゆっくりと新宿駅へと向かっていた。程なくして駅へ着くなり、勝手知ったる顔で、西口のコンコースへと歩を進める。
先に阿部が来ていた。遠くでそれを見つけ、にやっと笑う。阿部も周りを伺っていて、佐久間を見つけるなり、片手を軽く上げ顔が崩れた。佐久間が歩みを速めて近づき手を挙げる。
「よっ!」
阿部も同様に返した。列の最後尾に置いてある阿部のキスリングザックの後に、背負っていたキスリングを下ろして並べた。
「おい、阿部。早かったじゃねえか!」
弾む声をかけた。
「おお、今来たところだ!」
浮いた返事が返った。
「そうか。よっこらしょっと」
佐久間が少しばかり高揚した顔で、ザックの上に腰を下ろし、ピッケルを傍に置いた。
「ところで、村越は?」
「いや、まだ来てねえ。そのうち来るさ、何時ものことだ。惚け顔してな」と、阿部が貶す。
「そうだな」
佐久間がそう応え、胸ポケットから煙草を取り出し火を点けくゆらせ、はやる気持ちを抑え大きく息をした。その顔に無精ひげが生えているが、どことなく輝いていた。
「阿部よ。また今回も、何時もの時間だな・・・」
「ああ、変らねえよ。冬の八ツは、これに決まっているからな」
談笑しているところに、離れたコンコースの端から大声で叫ぶ声がした。
「悪い、悪い、遅くなってすまねえな!」
村越が汗かきやってきた。近寄る彼に、佐久間が告げる。
「おお、来たか。これでメンバーが揃った。さてっと、まだ時間がたっぷりあるな」
言いつつ腕時計を覗く。
「ちょうど午後六時を廻ったばかりだ。十一時五十五分発の長野行き鈍行列車の発車まで、まだ時間があるぜ」
「おお、そうだな。それにしても、俺らより先に来ている奴らもいるんだな」
村越の視線が列の先に置いてある山男らのザックを追った。
そこで佐久間が推測する。
「けど、列もまだ短い。この分なら前と同じように陣取れそうだ。けど、油断しちゃいけねえ。山男はせこい奴ばかりだ。他人のことなど、屁とも思わねえからよ」
「おお、その通りだぜ。でも、この位置さえ確保しておけば、充分大丈夫だ。楽勝だぜ。これも経験と知恵のたまものだ。こんな早く来ること自体、山に入らねえ奴から見ればナンセンスだろうが、寝る場所を確保するには、ここが肝心なんだよな。夜行で行くんだ。少しでも身体を休めるには、立っていちゃ寝られねえからよ」
村越が得意気に講釈した。すると、阿部が気負い声を上げる。
「まったくだ。しっかり陣取ろうぜ。さあ、とうとう今日の日が来たぞ。張り切って行くとするか!」
「それにしても、腹減ったな。ところで、飯食ってきたのか?」
佐久間が問う。
「いいや、食ってねえんで、腹減ったよ」
まじ顔で阿部が返す。すると、
「そうか、それじゃ何時ものように夕飯でも食いに行くか。今一度、縦走計画のコース取りや予定所要時間の再確認をしなきゃならんしな」
佐久間が導いた。
「そうしようぜ!」
村越が頷いた。すると、にやつく阿部がけしかける。
「おお、そうだ、そうだ。予定通り行けるように確認しておこうぜ。なんて言ったって、以前みたいに、誰かさんが稜線から落っこちたら大変だからな!」
「あれっ、それって、俺のことか?」
「ううんにゃ、誰だっけ。昔のことなんで、忘れちまったよ」
「くそっ、惚けやがって、阿部!」
村越が睨み、ピッケルで尻を小突く。
「痛って、なにすんだ。危ねえじゃねえか、尻に刺さったら如何する。この美尻によ!」
「なにが美尻だ。小汚ねえ尻しやがってよ。尻のごみを落としてやったんだ。礼を言うのが筋だぞ!」
「ああ、そうか。それは有り難うよ」
すると、村越が高飛車に出る。
「いいや、阿部君。そういう謝り方では、誠心誠意感謝しているとはいえねえな。もう少し、心を込めた言い方があるんじゃないかい?」
「くそっ、またこれだ。直ぐに揚げ足を取るんだから」
阿部がうんざり顔になると、村越が調子づく。
「ううん、その発言、益々誠意がねえ態度だ」
「ああ、分かった、分かったよ。有り難うな。これでいいだろ!」
つんと鼻を上げる村越に、ちょこんと頭を下げた。
「うん、まあいいか。端からそういう風に感謝しねえとな。人間、感謝する時は謙虚にならねばいかんのだ」
「まったく、村越はこれだから参るよ」
小声で愚痴った。
「あれ、阿部君。今、なにか言ったかな?」
「あいや、別になにも言ってはおらん!」
慌てて口を塞いだ。
二人のやり取りを聞く佐久間が茶化す。
「お前ら、何時になっても、いいコンビだな。聞いていると、二人して漫才やってるみたいだぞ」
「冗談じゃないぜ。こいつと漫才なんか出来るか!」
阿部と村越が同時に返した。すると、三人は顔を見合わせどっと笑った。どことなく立ち振る舞う姿には、これから行く冬山へと向いているようで、心ここにあらずの面持ちになり、地に足が着かぬ振舞いになっていた。
「それじゃ、そろそろ飯でも食いに行くか!」
佐久間が声をかけた。
「ああ、行こうぜ!」
二人が頷いた。
「それにしても、腹減ったな。ところで、なに食うんだ?」
腹を擦り村越が尋ねた。
「なんにするか。明日から勝負だ。今夜はスタミナつけておかなきゃな」
阿部が付け加えた。すると、佐久間がのたまう。
「それじゃ、中華にするか。にんにく入りの餃子を添えてな。それにスタミナドリンクのビールもよ」
「おお、いいんじゃねえか。それじゃ、それ食いに行こうぜ!ううん、待てよ。考えてみたら、昨年もその前も同じじゃねえか。ラーメンと餃子食わなかったか?」
村越が疑問を呈すると、阿部が同調する。
「おお、そう言われりゃ同じだ。しかし、何時になっても進歩がねえ。同じもの食おうってるんだからよ」
「まったくだ。このメンバーじゃ、その程度だぜ。でも、いいじゃねえか。冬山に入るセレモニーみてえなもんで、それで無事帰ってこられる。そういう意味から弦担ぎみてえなもんだ」
佐久間が能書きを加えると、阿部が貶す。
「そういう解釈もあるが、なんだかしょうもねえ弦担ぎだな。出発時間待ちの夕飯に、ラーメン餃子それにビールとちんけなことをよ」
「そうだよな。当て付けみてえで、結局は他に思いつかねえんじゃねえか。まあ、お前らのような野暮な男じゃ、高級レストランで、美味いものを上品に食う芸当なんて出来ねえだろうからな」
また村越が卑下した。
「なに言ってやがる。どの面下げてそんなことが言える。そう言うお前だって、俺らと違わねえのによ。よおく、鏡に自分を映してみろ」
からかい阿部が反撃した。
「そりゃそうだ。身分相応だろう。それにこんな格好してんじゃ、高級レストランなんか断られるのが落ちだ。まあ、そこいら辺のラーメン屋が、いいところじゃねえの。だからこうして自然と足が向うんだ」
佐久間が結論付けると、顔を見合わせ、
「そりゃそうだ」と互いに妙な気持ちになるが、結局、変わりはなかった。そして話題が変る。
「しかし、今年の八ヶ岳はどんな案配かな・・・」
「そうだな、気圧の配置や雪の状態も、今頃が一番安定しているから。それに週間天気予報でも継続的に晴れだと言っていた。だから俺らが入るには、ちょうどいいんじゃねえか。まあ、誰かを除いて日頃の行いがいいからな」
阿部の問いに、佐久間が応えた。すると如何いうわけか、村越が背筋を伸ばす。
「そうだぜ、俺の場合は常にそう言われているがな」
すると、阿部がちょっかいを出す。
「そういう風に自慢する奴ほど、日頃の行いが駄目なんだよな。それに比べ俺なんぞ、黙っているが、品行方正の手本と言うものだ。如何せなら、これから入る前に、法螺吹く誰かに、爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいよ」
「ほう、言ったな。品行方正にしている阿部さんよ。むしろ自分で飲んだ方がいいんじゃないですか?」
「また二人して、そんなこと言っている場合じゃねえだろう。まったくお前らは、直ぐにそうなるんだから、しょうがねえ野郎らだ。いい加減にしろ!」
笑みを浮かべ佐久間が窘めた。そして促す。
「さあ、そんなくだらんこと言ってねえで、早く飯食いに行こうや」
「そうだな、そうしようぜ。腹減ったしよ。とにかく早いとこ、にんにくのいっぱい入った餃子と、ラーメン食いてえ!」
「おお、俺もだ!」
村越の望みに阿部が同調した。そして、短めの列にザックを置いたまま、ピッケルを持ちぞろぞろと薄汚れた格好で登山靴を引きずり、西口コンコースから東出口方面へと向かう。
「やけに、腹減ったな」
村越が腹を摩ると、佐久間がのたまう。
「そうだな、とにかく今夜は明日からの山行のために、にんにく入り餃子を食い、冷えたビールを飲んでスタミナつけておかなきゃ。息が臭くなっても、他人なんかに遠慮していられねえ」
「あたりまえじゃねえか。気にしていたら他の奴らに先を越されてしまうぜ。格好つけ寝場所確保できなかったら最悪だし、たとえ確保しても遠慮していちゃ寝られるか。ずうずうしくやらんとな。なんせ、この世界じゃ、早いもの勝ちだ。遠慮なんかしてられるかってんだ。臭くったって知ったこっちゃねえ」
村越が気勢を上げると、
「そうだ、そうだ。早く食いに行こうぜ!」
阿部が急きたてる。
「合点だ。たらふく食うぞ!」と、さらに村越が肩を揺する。
すると、ふいに思い出したのか阿部が呟く。
「そう言えばよ。昨年の八ヶ岳も本当に寒かったな。佐久間なんか鼻っ柱が凍傷になりかけて、見られたもんじゃなかったぜ」
「ああ、あん時はびっくりしたな。一時は如何なるものかと案じたが、それにしても本当に寒かった。厳冬期の風雪の中を歩いたんだもの、当たり前か」
「それに比べりゃ、新宿なんか温けえのなんのって。なあ、村越?」
佐久間に振られると、首をすくめる。
「けどよ、そりゃ山の中に比べりゃ暖かいかもしれんが、やっぱり冬はこっちも寒いよ」
「まあ、それは言えるな。真冬の如月だから、ほれ、身体が冷えきっちまったぜ。早いとこ熱っいラーメン食いてえな」
阿部が道理と答えると、佐久間が続ける。
「それにしてもよ、今日からまた冬山縦走が始まるんだ。なんだかわくわくしてくるよ。中岳コルの急斜面で、また滑落停止の訓練しようじゃねえか!」
「ああ、やろうぜ。それによ、話は変わるが。阿弥陀の頂上から見た赤岳、すげえな。あの素晴らしい絶景をまた拝めるんだぜ!」
「おお、そうだ、そうだ。主峰赤岳。なんともいい響きだ。ああ、早く会いてえよ!」と村越が応じ、
「それに、鉱泉小屋から見た大同心と小同心。思い出すと身震いする。あの迫り来る岩稜、絶品といっていい!」
「おいおい、村越。それを言うなら絶景だろ。これだからお前は、阿呆だと言われるんだ。喋る時は、よく考えて言うんだな」
阿部が茶々を入れるが、気にすることなく平然と吐く
「どっちだっていいじゃねえか。絶品でも絶景でも、いいものはいいんだからよ。お前らだって、俺と同じように感動したんだろ」
屈託のない笑顔の山男たちの声が響いていた。そんな歩を進める談笑のなか、突然阿部が真顔で指差す。
「おっとそれによ。村越、気をつけてくれてんだろうな!」
「えっ、なんだよ。急に・・・」
「前回、いや、前々回だって。連日素晴らしい景色を拝めたのは、天気が良かったからだぞ」
「それが、如何したんだ。当たり前えじゃねえか。崩れていたら縦走できたか分からねえ。なんだって言うんだ、阿部!」
むっと睨み返した。が、急に顔を崩し怪しむ。
「やや、お前こそ日頃の行い、俺らに顔向け出来ねえことやってたんじゃねえのか。特にこの一週間よ」
「ああ、俺に振りやがって。もしかしたら、体たらくな生活を送っていたな。村越、白状せい!」
「ああ、なにを言う。お前こそ、この場で正直に答えろ!」
「おいおい、また二人とも・・・」
またかと佐久間が割って入った。すると不意に阿部の質問が飛ぶ。
「佐久間は大丈夫だろうな?」
「ええっ、なんだよ急に」
「なんだもなにもない。日頃の行いが悪けりゃ、今回の天気が悪くなるかも知れねえんだぞ。そしたら絶景なんか見られん」
阿部がぼやいた。
「馬鹿野郎。今頃、そんなこと心配したって如何にもなるか。大体、俺やお前らなんぞ、ろくなことやっていねえじゃねえか!」
佐久間がやり返すと、阿部が尤もだと頷く。
「たしかに、好き勝手にして、まともなことやっていねえな。まあ、大きなことは言えねえが、この場に及んで、互いに言い合っても如何にもならん。とにかくこの際、神頼みしかあるまい。他にいい方法あるか?」
「うんまあ、それしかねえな。お前らの顔を見れば、おのずとそうなるよ」
村越が調子よく結論付けると、三人の目が合い合点して笑いが起きた。
「それじゃ、今からでも神頼みしておくか」
佐久間が神妙に言うと、
「そうだな。やらねえよりましだ。拝んでおけば少しぐらい、言い分を聞いてくれるかもしれねえ。ご利益があるといいやな」
村越と阿部が手を合わせる。
「まったく調子のいい野郎ばかりだ。これじゃ、神様だって呆れるぜ」
佐久間の嘆きに、さらに大きな笑いが生まれていた。
新宿駅午後十一時五十五分発の鈍行列車に乗るまでに、まだ多くの時間を要しているが、そんな彼らにとってはなんの躊躇いもなく、むしろ、その時を楽しむが如く、すでに心は厳冬期の八ヶ岳へと踏み出しているようだった。
あくなき冬山への挑戦ではあるが、どことなく軽やかに、まるで始めてチャレンジするかのような三人の引きずり歩く靴音が、ちょうど今頃、昨年の出発前の山行気分と同様に新鮮な音色となり、喜びを如実に表していた。
そして、胸ときめかす山男たちの馬鹿高い笑い声が、何時までも新宿駅西口コンコース広場上の夜空に響き渡り、まるで愛しい峰々に届けとばかりに飛翔していた。
完
眠る山に入りて 高山長治 @masa5555
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