小箱の二人

 燦々のエントランスを抜けたらば 七階へ行く小箱に二人


 名も知らぬ濡れたお下げの女学生 黒艶の髪 塩素の匂い


 七階の僕は真ん中 黒艶は突き当たりに行く 塩素残して


 月火水 火だけ乾いた黒い髪 ならばどうして吾と乗る小箱


 木曜日 君は振り向き会釈して そのまま去った 塩素残して


 金曜日 君が尋ねしその問いは 僕も尋ねたかったことだよ


 ドアベルを鳴らし呼んだ君の名を わずかに棒読み 小声似合わぬ


 すぐ下がるドアノブ覗く顔を見て 胸は高鳴り 顔はあかまり


 シアターの最後列では二人きり たまに目が合うスクリーンの男


 迎えたる山場で秘かに企てる 吾の手と君の手重ねようかと


 君の手は吾の手に隠れているのだと 赤らめた頬 手の平しっとり


 余られるポップコーン持ち停留所 待ちながら食むうす塩しょっぱし


 首傾げこうべ載せたる吾の肩へ 抑えたる息 いといと愛し


 さよならと告げた戸口で君 ずっと寂しく涙を流しててくれ




 赤く燃ゆ太陽照らす砂浜に訪れし夏は恋の季節


 君が着る黒ビキニから目を逸らし 果てなき地平を指差している


 泳げない僕は浮き輪に胴通し 君が後ろでモーターとなる


 「潜ってよ」君の声に従って 海の底に小魚の


 昼飯は焼そば、たこ焼き、とうもろこし 「食べ過ぎだよ」と吾に叱る君


 寄せ返る波を横目に築きたり 主は僕で細君は君


 指差した果てなき地平ににび色の雲が拡がり吹くぬるい風


 「帰ろうか」「帰らないわよ」君の顔意地悪くにやり 胸高鳴りけり


 本降りの砂浜二人波荒し 天守は雨の砲撃に陥落


 停留所待ちたれどバスは一向に来ぬ来ぬ来ぬ来ぬ来ぬ来ぬ来ぬ来ぬ


 退屈は無けれど雨と海風とペトリコールが煩わしい


 やっと来たバスには吾と君二人だけ 一番後ろの一番端へ


 首傾ぐ 揺れる身体を寄せ合って 君はどさくさ吾にキスをする




 あの日から九年の月日が流れたり 君は遠くへ 空の彼方へ


 首飾るペンダントには君がいる 純白姿 笑顔の花嫁


 三歳の娘がたまにぼそぼそと「ママ、どこなの」と尋ねききたり


 「いるじゃん」と娘を指差し泣く父に釣られて泣き出す娘を抱く




 十七の娘は母によく似たり 顔はもちろん声も背丈も


 顎にあるホクロも同じ位置にあり 叱る口調も 母と同じ


 今日もまた塩素が匂う身体して キッチンの父へ「ただいま」告げる


 部活無き日もまた遅く帰りける娘を心配しないのは何故


 玄関でたまたま聞いた「さよなら」と告げし娘の相手は誰ぞ




 幾十年経て暮らすここは三人の孫と娘夫婦の住まい


 娘婿 かつてに聞いた「さよなら」の娘の相手であるのは確か


 娘が言う二人の出会いはエレベーター ここもまた似し 今亡き母と


 孫娘 今年で十五になりにける 顔は母にも祖母にも似たり




 床の上 終わりが近き春先のわずかに冷たき風にのって


 君が来た 吾の夢枕に若き日のあの姿のまま 目を潤ませて


 子らのこと 歩んできたこと 今のこと 色々話せど君は『うん』のみ


 目覚めれば脇に眠れる孫娘 起こして告げけり「みんなを呼んで」


 集まった娘と孫らに この先の住まいは妻と同じ小箱へ




 暗闇をしばらく歩けば見えてきたエプロン掛けの母である君


 「これからは一緒に居ましょ」と言う君は吾の手を引っ張り導く光へ


          *


 父母が眠る小箱のその中に私もいつか入らんと思う

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コスモポリタンの三十一音 江坂 望秋 @higefusao_230

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