三十路、旅に出る。

しらす丼

天に向かって架かるはしご

「静岡県内、大雨の影響で速度を落として運行しております……」


 聞こえてくるその車内アナウンスにそっと耳をすませながら歩いていた私は、ようやく車体中央部に座れる席を見つけ、小さく息をつきながら腰を下ろした。


 八月中旬。私はいま、悪天候ではあるものの、千葉県房総に住む祖母の家を訪れるため、東海道新幹線こだま号に乗っている。


「せっかくのお盆休みシーズンなのにね」


 ごうごうという音が車体の外から聞こえた。その音を聞きながら、私は座席シートにそっと頭をつける。

 荒れ狂う猛獣のように雨風が新幹線の車体へ襲いかかっているようだ。コロナ禍で会話がほとんどない車内では、不気味なその音だけが響いている。

 この夏の長期休暇を蹂躙する風雨ふううの猛獣に、どれだけの人びとが辟易しているのだろう。そんなことをふと思う。


 現在、台風八号が私たちの天上で猛威をふるっているらしい。確信が持てないのはSNSで流れてきた台風情報だったからだ。

 テレビや気象庁からの発表という確実性の高いところからの情報ではなく、SNSで調べるあたりはまだ若者たちと同思考だと思いたいのかもしれない。そんな自分の滑稽さには少し鼻で笑いたくもなるが。

 だがしかし。実際、SNSの情報というのはどこまで本当なのだろう。


「こういう情報を知ると、勤め人なんかは悲しがるだろうなとか思っちゃうよね。五月の連休から頑張って働いて、ようやくやってきた連休に台風がぶつかるなんて」


 こんな皮肉めいたことが言えるのは、今の私が無職だからだと思う。

 私も勤め人だったとしたら、おそらく嘆き、わめき散らしていたことだろう。


 そんなわけで。七月末で派遣の契約期間を終えた私は、八月に入ってから有給消化のために仕事はせず、ずっと家で過ごしているのである。


 ときどき就職面接のために家を出るものの、それ以外はずっと籠りきり。

 働いていた時は早く休みたい。仕事辞めたいと思っていたが、実際に辞めてみると不安で毎日が押し潰されそうだった。


 そして次の勤め先がなかなか決まらないことも、私の焦燥感を加速させている。


「このままニート街道まっしぐらなのかな。歯科助手の正社員辞めて、派遣になんてならなきゃ良かったのかな……」


 後悔しても後の祭りとはこのことだ。


 ため息をつき、左側にある窓へ視線を向けた。


 薄曇りの空。覆うように広がる雨のカーテン。車窓から見える景色が、私の人生に似ていると思った。不安に曇り、何かに視界を閉ざされ、進む先も未来もわからなくなっている私の人生に。


「お先真っ暗って感じ?」と自嘲するように呟く。


 すこし雨が弱まると、風に流された雨粒がおたまじゃくしのように車窓を泳いでいて、私は思わず目を見張った。

 雨の化身か何かなのだろうか。もしもそうならば、私をこの世界の外へと連れ出してほしいものだ。


 それからしばらく行くと雨が小降りになり、ようやく外が見渡せた。

 しかし、外の世界はどこまで遠くを見ても白いモヤがかかっていて、薄暗いままだった。ジメジメとした空気が新幹線の中にいても伝わってくる。


 思わず、ため息が漏れ出た。


 これはいつまで続くのだろう。いつまで私は暗い道を進んでいかなければならないのだろう、と。


 長い長い私の人生。まだ始まったばかりであることも分かってはいる。けれど、しんどい時はどうしても訪れるのだ。


 担当に薦められた次の派遣先の面接で落ちる。

 就職活動が思うようにいかない。

 紹介してもらった男性たちとなかなか関係が続かない。

 絶対にしないと鷹をくくっていた友人が授かり婚をしたと連絡が入ったのをキッカケに、周囲が結婚ラッシュに妊娠ラッシュ。


 何もかも嫌だった。周りの人達が手にする普通の幸せを何一つ手にできない自分のことがどうしようもなく嫌いだった。


「どこで人生間違えたのかな、私」


 トンネルに入ると、車窓には湿気た私の顔が映った。


 黒のショートヘア。茶色の縁メガネ。つぶらな瞳がこちらを見つめる。


 ドラマやアニメに出てくる、オシャレでかっこいい女性像とは別の姿。


 その姿は自分が頑張らなかった結果であることは分かっている。


「でも今さら頑張ったって、人生何も変わらないよね……」


 トンネルを抜けると、途端に眩い光が目に入った。その光に思わず目を窄め、額に右手の甲を当てる。


「え、晴れてる?」


 驚いて顔を近づけると、コツンと窓に額が当たった。少し顔をしかめてから、広がる景色を凝視する。


 雲の隙間からは微かに青い空が覗いていた。そこから注ぐ数本の白い光の線は、神秘的な空間を表しているように感じる。


「『天使のはしご』、だっけ」


 地上から天界に向かっているはしごに見える。確かそんな由来だったよね。


 あまりお目にかかれない現象だったと聞いたような気がしたので、忘れぬようにと目にしっかりと焼きつけるように見つめる。


 なんだか良いものを見た。それだけでなぜか幸先が良いような気がして、口の端が上がる。悩んでいたことが全て馬鹿馬鹿しく思えたのだ。

 もともと単純だと思っていた思考は、どうやら本当に単純らしい。本来、その単純さに頭が痛くなるところだが、今の私はそれに救われている。


 そんなことを思っている間にも、天から伸びる光のはしごは、少しずつその数を増やしていた。


「来て、よかったな……」


 旅に出たからこその、光景である。

 そしてそれは楽しい方へ、ポジティブな方へと無意識に選択した結果だった。


 この先がダメな人生になるかどうかはこれからの私の行動選択で決まるということなのだろう。


 根本的には何の変化もない。でも、今はそれでいいんだ。

 止まない雨がないように、私の未来を閉ざす雨雲も必ず明ける日が来ると思えたのだから。


「まだまだ三十歳。人生ここから! だよね」


 車窓に映る自分に呟き、ふふっと笑う。



 人生という旅路はまだまだ始まったばかり。

 だからこそ楽しもう、私だけの人生を。


 私は少しずつ光の射す空を見つめ、静かにそう誓う。



(完)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

三十路、旅に出る。 しらす丼 @sirasuDON20201220

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説