第2話 犬と恋人と私
自転車を降り、思った通り『橘』という表札が掲げられている3階建ての白い家を一瞥する。広くて立派なこの家に2人だけで住んでいるとはなかなかだ。
塀の隙間から見える窓ガラスはもう綺麗に修理されていた。
パトカーは勿論警察の姿ももう無い。花のない生垣と背の高い塀で目隠しされた家は、確かに空き巣の人気職場になり得るだろう。
玄関に防犯カメラはあるな――そう思った時。
「ポポイ、窓ガラスの修理業者さんすぐ来てくれて良かったね……」
庭から女性の声が聞こえてきた。
視線を向けるとセミロングの大学生程の女性が、良く吼える犬として知られる茶色のビーグルに向かって話し掛けている。
パステルグリーンのワンピースを着た小柄な彼女が噂の人物だろう。
「すみません!! 橘由良さんですか? 公園前派出所の松永です。空き巣犯からの予告状が届いたと伺ってパトロールに来ました」
真吾の声に女性がビクつき、犬が一層吼える。
――この犬は、3丁目にあるゴミ屋敷の隣家の犬だ。
自分も良く吠えられているのですぐに分かった。圭もこの町に住んでいるのか。
「あ……有り難うございます」
自分の制服を見てすぐに緊張を緩めた女性は、圭が言うように確かに美人だった。下がり眉が印象的で儚げだ。
「午前加藤圭さんが、この家が空き巣に狙われて予告状まで出されているからパトロールしてくれ、と言いに来てくれたんです」
「……え? 圭が……!?」
気弱そうな美女は、恋人からの好意を知り一瞬嬉しそうに驚いていたが、すぐに不安そうな表情になり頷いた。
「あなたが怯えてる、と言っていましたよ」
「はい……! 予告状は今朝来て。大学がこれからだったので家には私だけが居ました。そしたらいきなりパリンッ! って窓ガラスが割られて小石が……。もう意味がわからないし怖くてすぐに警察に通報しました」
段々早口になっていく由良の瞳には、薄っすらと涙が滲んでいた。ゆるく巻かれた髪がそよ風に揺れている。
「父は悪戯だろって鼻で笑うだけなんですよ……父は少し遠いところで仕事をしていて多忙だから家を空けがちで。でも明日は戻って来るみたいで嬉しい……じゃなくて。一応警察の人が明日は家に来てくれるんですけど、やっぱりまだ怖くて。そうしたらさっき圭がポポイを、あ、この子ですけど、貸そうか? って言ってくれて連れてきてくれたんです……ここまでして貰ってるのに、まだ私怖いんです。駄目ですね……」
「当たり前の感情ですよ。明日は私達も重点的にパトロールして目を光らせていますから安心してください。あのビーグルが居るだけでも大分違うとは思いますが、それでも不安でしたら、ホームセンターで売っている防犯砂利を敷いたり、裏口にもダミーで十分ですので防犯カメラを設置したら良いですよ」
「は、はい!」
高級住宅地は近隣住民も空き巣の気配に敏感だ。橘家だってもう少し対策をしたら、不審者の方から逃げていくだろう。
それにしても由良は話下手の部類のようだ。何が言いたいかあまり分からない。
「署の人間にも聞かれたとは思いますが、空き巣に入るような人物に心当たりはありますか?」
「ありません……だから余計に怖くて。お母さんが遺した宝石やブランド品も、お父さんの骨董品も盗まれてもおかしくない位高級なので……空き巣が入ってもおかしくはないかもしれませんが。でもなんでうちが……」
どうやら橘家はセレブと言っていい家のようだ。さすが2丁目に住んでいるだけある。並んでいる物もきっと価値があって、骨董品愛好家の宮林には垂涎物なのだろう。
「失礼ですが、そのような品物が家にあるとご存知の方は多いのですか? ご友人とか」
「一部はリビングに普通に置いてありますから、家に遊びに来た事がある友達は知ってると思いますよ。で、でも友達はみんな良い子です……まさか疑ってます?」
「いえ、申し訳ありません。少し聞いただけです」
由良の表情が強張ったのを見て頭を下げる。
隠していないというのなら、友達が空き巣に入る可能性もあるだろう。これは子供の悪戯では済まされないかもしれない。
それに可憐な女子大学生に片思いしている人が、暴走している可能性だってある。
「わんわんわんっ!!」
その時。
由良の足元に居るボディーガードの声が一段と大きくなった。尻尾の動きもはち切れんばかりに激しくなる。
何事かと周囲を見てみると、少し離れたところに青いチェックシャツの青年が立っていたのだ。あの好青年は圭だ。
どうやらポポイは飼い主の登場に興奮して吠えていたようだ。
「ポポイ! 由良!」
聞こえてきた圭の声に顔の向きを変えた由良の表情がパッと明るくなる。圭は大学に行くらしく、先程と違って焦げ茶色のショルダーバッグを提げている。
「圭!」
恋人の登場に目元を緩ませた由良は門へと向かう。
「どう? ポポイは役に立ちそう?」
「うん、凄い心強い。お父さん明日帰って来るから大丈夫かもだけど、一応お隣さんにもポポイが吠えすぎてたら怪しいと思って下さい、って早速伝えたよ。……有り難うね」
「本当? それなら良かった」
2人の仲睦まじさが眩しくて目を細めていると、圭がこちらを向いた。
「お巡りさんも早速パトロールに来てくれて有り難う御座います」
自転車を押しながら自分も門の入り口へと近寄る。
「当然の事ですので気にしないでください。……この犬知っていますよ、良く吠えられます。加藤さんもこの町に住んでいたんですね。橘さんとは大学からのお付き合いだとばかり」
「ああ、由良とは小学校が同じだったんです。由良は中学から私立に行ったので同窓会でちょっと、へへっ。由良ファザコンだから親父さん帰って来るの嬉しいだろ?」
「嬉しいけど、からかわないでー」
含み笑いをしながら言ってくる恋人の言葉に、白百合に似た女性は嬉しそうに唇を尖らせる。学生時代恋愛とは無縁だった自分には些か眩しすぎる光景だ。
その反応に嬉しそうに笑う圭の足元で、ポポイもわんわん! と吠え大きく尻尾を振っている。
「私達もパトロールします。何かありましたら遠慮なく110番して下さい」
「有り難うございます」と目元を和らげた由良が頭を下げてくる。「では」と告げ赤い自転車に乗り、仲睦まじい若い恋人達の元から離れる。
警察の制服を着ている以上この場にばかりも居られない。まだまだ仕事は残っている。
交番の前に立つ立番という仕事をしながら、何時もより多くパトカーが行き交っている二車線道路を見守る。
気付けば時刻はもう夜。冬よりもずっと暖かいが、夏よりも肌寒い。
――明日9時、空き巣に入ります。
考えるのは予告状を送ってきた犯人の事。
もう半日後には橘家に空き巣が入る事になる。
子供の悪戯か、由良の友人か、第三者か。真吾にはさっぱり分からなかった。
22時を回ると巡査は夜間パトロールに出向く。
酔っ払いの取り締まりと巡回が主な目的だ。再び赤い自転車に乗り、駅前や橘家の周囲を見て回った。
明かりが僅かに漏れたカーテンがピシリと閉められた橘家は静かだ。この広い家に、由良は今1人で居るのだろうか。確かに寂しくてファザコンにもなるかもしれない。
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