後藤繁雄『skmt 坂本龍一とは誰か』

後藤繁雄『skmt 坂本龍一とは誰か』を読み返す。坂本龍一について私は誤解していたのかもしれないなと、この本を読んで思った。坂本龍一について思っていたのは、テクノポップの立役者で『戦場のメリークリスマス』の巨匠で、かと思えばダウンタウンとつるんでコントに出てみたり自由なところもあって、村上龍や浅田彰とのコラボで知性派なところも見せる、というような印象だった……つまり「よくわからない人」、特に「『何がどうすごいのか』がわかりにくい人」だと。やってる音楽だってポップなのかクラシックなのか、見方を変えれば実験音楽なのか大衆的な歌謡曲なのかわからないし。


でも本書を読むと(実を言うと彼の自伝『音楽は自由にする』を読んだことで再読したくなって読み返したので、その本の印象も含めてこう思うのだけれど)、そうして「わかりにくい」ところは彼の「わかりやすい」ところでもあるのかなとも思うのだった。つまり、彼は多分その時その時やりたいことを「自分自身の一貫性」や「外部からどう思われるか(パブリック・イメージ、というやつだ)」を気にしないでやり続けていて、それが散漫とも取れる活動実績に結びついているのではないかと思ったのだった。多面体、というか妖怪で言うところの「ぬらりひょん」なのかもしれない。ならば凡人である私に彼の多面性を把握することなどできっこない。


でも、それはある意味ものすごく「わかりやすく」ないだろうか。私だって朝考えていることと今考えていることは違っていたりする。折に触れてメモを書くクセをつけているのだけれど、朝の時点で私は「今」暇ができることも、坂本龍一についてこんな駄文を書きたくなることもまったく考えていなかった。今そのメモを読み返してわかった。とまあ、こんな風に散発的/突発的に書きたくなったから書く……なら、坂本龍一だってそうして自分自身にリミッターを課さず読みたいものを読み、聴きたい音楽を聴いたっていいわけだ。喋りたいことを喋り、作りたい音楽を作る。そんな正直さというか敢えて言えば「隙だらけ」なところが「教授」の所以なのかなと思う(「たかが電気」が物議を醸したが、あれだってどこまで本人が本気だったか!)。


そんなわけで、この本を読み返してみて「教授」がわかったようなわからないような、また複雑な気持ちになったのだった。ただどんな時も自分に正直に、自分自身の語りたいことを語るという生き方もしんどいなと思う。人はどこかで調和が取れていないと(ある意味「首尾一貫」していないと)、その不協和を抱えるストレスを感じなくてはならない。そのために自分に対して嘘をつく可能性もありうるし、そうなるとその嘘を真とするために無理をする必然性だってあるわけだ。さて、この本の中で(あるいは今までの中で)「教授」はどれだけの自分のとっさの嘘を自分の真実として信じ込んで生きてきたのだろう、と失礼な邪推をしてこの文を〆る。

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