『片岡義男エッセイ・コレクション なぜ写真集が好きか』
実を言うと私は、映画や美術といった「視覚」に主に訴える芸術を理解できない。むろん「視覚」を働かせるだけがそうした芸術の楽しみ方であるとも思わないのだけれど、何しろ漫画もロクに読めないのだからこれはもう才能がからっきし欠けているとしか思われない。なので本ばかり読んでいるのだけれど、では片岡義男という稀代の読書家にして文章家はどう「写真集」を楽しんでいるのだろう。そこに興味を惹かれてこの『なぜ写真集が好きか』を読んだのだけれど、これがなかなか面白い読書体験となった。私自身の読書体験も少しは刷新されたかもしれない。
「写真集」を楽しむ時、ここにいる私は主観的にその写真にコミットしていく。と言っても小難しい話をしたいわけではなく、例えば「写真集」を手に取り、ページを繰る(その前に「写真集」と出会うところから始まるかもしれない。片岡はこうした「写真集」を引き寄せる才能に恵まれている)。そこで展開される「写真」や「絵」を見ること、それをもっとよく能動的に見つめることによって主観的に写真の中に入り込んでいく。そしてその没入から得られた感覚を言葉にしていく。それが「写真集」を楽しむ、ということだ。それは常識的な所作としてわかりやすい。
だが、「写真集」を読む時私たちは「写真集」の映し出す写真の数々、画像の数々によって自分の中の記憶が引き出され、整理されていく。頭の中に連想が浮かび、そこからもしかするとストーリーすら生まれるかもしれない。それは私たちが受動的に写真によって操られたとさえ言えるのではないか。写真集が私たちに対して問いかけたものに私たちが応えると考えれば、私たちはここで客体になったとも言えるわけだ(から、もしかしたら私たちは「写真集」によって客観的になれる、とさえ言えるのかもしれない)。片岡はそう問いかける。
この見る/見られる、あるいは主観的/客観的という構図の切り替わり、あるいは転倒。片岡は「写真集」を鑑賞する過程で、そうした自己がはらみがちなナルシシズムから距離を置き自在に自分自身をカメレオンのように切り替えていく。「写真集」とのドラマティックな出会いから彼自身の中に蘇る様々な記憶、そして読書体験が開陳されるこのエッセイ集が見事なのはそうした「自分のなさ」であるのではないか。対象に応じて自分自身との距離を操り、自分自身をも操る。ベテランのボクサーがパンチを放つ過程で相手との距離を調整し、バランスを取って一撃を狙うように。そこにこのエッセイ集の面白みがあると思う。
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