第12話

   *


 僕は夏休みのあいだにもう一度彼女に会えるのではないかと思っていた。彼女は自由気ままに行きたいところに行っているだけで、待っていればそのうち僕の前に現れるのではないのかと。しかしそんなことはなかった。僕は夏休みのあいだ、週に二回は墓場に行き、入口に立ってそこ全体を見回し、彼女がいないことを確認するとすぐに帰るということを繰りかえした。彼女の姿も痕跡も見当たらず、気付いたら帰りの電車の中でさえあの白いパーカーを探してしまっていた。

 だが不思議と勉強には集中できた。彼女が、またいつか会えると言ったからだ。そう言ったからには遅かれ早かれそうなるのだろう。それを早めるには僕がどうにかするしかないのだが、焦りは感じなかった。

 結局向井とは一度も遊びに行かなかった。何度か連絡をしたが、向井の模試の成績が悪く、それどころではないようすだった。

 夏休みが終わりに近付いてきたあたりで、彼女は少なくとも来年までは現れないだろうということに気づいた。自由に出歩けるのはお盆のあいだだけなのだろう。とすると再び現れるのは来年の夏――そう考えると気が遠くなって、逆に安心した。

 八月三十一日、僕は墓参りに行った。やはり彼女の姿はなかったが、墓場全体の雰囲気が変わったような気がした。いや、僕の感じ方が変わっただけかもしれない。墓場は涼やかで明るい光に満ち満ちていた。

 墓に合掌し目を閉じたとき、僕は彼女にまた会えますようにと祈って、こんなことを考えた。彼女は電車の中で「幽霊はいない」と言った。ということは、父さんと母さんはもうこの世にもこの世以外の別の場所にもいないということだ。彼らは完全な無であり、そのため墓参りをするのも無意味ということになる。だが、そうではない。

墓参りは、抽象的な意味での死、誰でもそうなり得る死について思うことでもある。彼女に『葬式の名人』の内容を説明したとき、僕自身がそう言いながらも自分でびっくりしていたのだった。葬式の意味は、墓参りの意味に繋がっていたのだ。これによって彼女が言った〈一つ目の無意味〉は剥がされた。

 それに加えて僕には彼女がいる。いつかまた僕の前に現れるだろうことが半ば明らかであった。その希望が残されることによって、僕が「結局今の自分の孤独は変わらずに解消されない」と言った、〈二つ目の無意味〉が剥がされることになる。

彼女はこの二つの無意味を解決したということになる。まんまと有言実行して見せたのだ。僕を騙しながら。

 その日から、僕は自分を墓参りの名人だと思うことにした。ドン・キホーテが自分のことを騎士だと思い込んでいるのと同じようなことかもしれないが、それでも彼が風車を巨人だと信じて突撃したときの勇気は偽物ではないだろう。

 合掌を解いて目を開けたとき、静まり返った意識の中で、強く念じていた。

こうして僕は墓参りの名人になったのだ、と。


 墓参りから帰ってきて、夕食の支度をしていたとき、電話のベルが鳴った。

「もしもし」

「ああ、俺だよ」、叔父さんの声だった。「しばらく電話できなくてごめんね。本当に今年は仕事が忙しくて」

「大丈夫だよ」

「夏休みは今日で終わりか?」

「うん。明日始業式」

「今日はなんか声が明るいね。このあいだは少し元気がなさそうで心配してたんだよ」と叔父さんは言った。「夏休みのあいだには何かあったか?」

「確かにあったけど、でも、かなり不思議なことだったな。言葉で言うのは難しいけど」

 僕は自分の中で慎重に言葉を選んでいた。ありのままのことを話しても信じてもらえないだろう。

「もしも姉がいたならあんな感じなんだろうなって人に会ったんだよ。たまたま」

「姉?」、叔父さんが食いついてきた。

「うん。俺より何歳か年上に見えたから」

「もしも姉がいたらって今言ったけど、そう言えば太一はあのことは聞いているのか?」

「あのことって?」

「姉さんにも義兄さんにも聞いてないのか」、神妙な声色で叔父さんは言った。

「うん。何も」

「実は姉さんはお前を生む前に一回死産しているんだよ」と叔父さんは言った。「生きていれば、お前の三歳上くらいのお姉さんになってたろうな」

 僕は言葉が出なかった。

「話すタイミングもないまま死んじまったんだな。まあ十二歳にそんなこと中々話せないか」

「……うん」

 生きてもいないし、死んでもいない存在。墓に挿してあった三本目の卒塔婆。

「姉さんはあのときかなり落ち込んでいたけど、水子供養をちゃんとやったら案外早く立ち直ったよ。落ち込んでいるときは、引きこもるより動いた方がいいんだな、きっと」

「水子供養ってどこでやったの?」

「何だったっけな。水子供養で有名なところを千葉から見つけてきたんだったかな。ああ、子安地蔵尊だか何だかだよ。検索すれば出てくる」

「千葉? 二人が火事で死んだとき千葉に行ってたけど、それって」

「そこにお参りに行ったのかもしれないね。水子の共同墓地があって、確かそこに納骨したって姉さんが言ってたよ。覚えてないかもしれないが、お前も子どものころに何回か行ったことがあるはずだよ」

 共同墓地にお参りしながらも痴話喧嘩に明け暮れる両親の姿が脳裏に浮かび上がった。高速道路を走る車の中でさえ二人の声が絶えることはなかったのだ。

「自分の娘のお参りに行った帰りに火に飛び込んで死ぬなんて、バカだろ?」と叔父さんは笑っていた。「死んだらそれっきりなのに死なない気でいたんだから」

 もしかしたら千葉に向かう車の中で、僕に姉がいたかもしれないという話をするつもりだったのかもしれない。

僕は言う。「でも、周りからどれだけ正しくないって言われても、自分たちにとっては間違いなく正しいのだって、父さんは言うな。母さんも言うかもしれない。そういう性格だから」

 それは間違いないね、あの二人はそうだよ、と叔父さんは言っていた。


 電話を終えて、夕食の支度に戻っても僕は別のことに意識を奪われていた。水を張った鍋を火にかけているあいだ、ずっとうずうずしていたのだ。名前のない彼女の正体がわかった。だが、この喜びを伝える相手がいないことがさみしかった。

僕の両親はもうどこにもいないが、彼女はいるのだ。僕の家族として。

僕に家族はいるのかと誰かが気いてくれれば、確かにいる、と答えるだろう。

そして僕と彼女は墓参りという手段によって両親のことを思ったのだ。それはもう現実には存在しないが、一つの家族の形に違いない。

気付いたら、僕は電話をかけていた。向井の携帯電話を鳴らしていた。

「もしもし」、向井が出た。

「もしもし、向井?」

「何だよ。急に」

「お前、明日用事ある?」、僕は単刀直入にきいた。

「用事っていうか始業式があるけど」

「そうか。お前、明日休めよ。僕も休むから」

「は? なんでだよ」

「夏休みのあいだ一度も休み行かなかったじゃねーか。それを明日行くんだよ」

「急すぎるだろ」

「始業式なんか出るだけ無駄なんだよ」

「おいどうした。普段のお前なら絶対そんなこと言わないぞ」

「どうしても行きたいところがあるんだよ」

「どこに?」

「千葉のどっかにある寺。場所はこれから調べるよ」

「寺? まさか墓参りに行くのか?」

「墓参りじゃなくて、会いに行くんだよ」、僕は言ってのけた。

「はあ? まあよくわからないけどいいよ。約束してたしな」

 明日の朝から電車で行くことにして、僕たちは電話を切った。ぐつぐつと煮えたぎる鍋の中を見つめながら、その場所に行って最初に話す言葉を僕は考えていた。

 仮に彼女に名前がなかったとしても、彼女は僕の姉なのだ。

                                    了

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墓参りの名人 小原光将=mitsumasa obara @lalalaland

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