第26話 頭を冷やして

「バケツを外してっ!たぶん本人には外せない!」

「いや、それは違うぜ……!」


 目の前の少女が必死に助けを求める光景を見ながら、ブロードは自分の意志とは裏腹にそう呟いていた。

 頭部を水に覆われているはずの彼女の言葉が、右手に浮かび上がった口から流れ出てきている。それはブロードにとって非現実的な光景だ。

 だが、それが彼を混乱させるようなことはなかった。

 プレーン能力。スティープルの発した言葉が答えなのだろうと、ブロードはすぐに感じた。目の前にいるのはファインやデウムを一人で圧倒した少女だ。普通の人間には無い何かしらの能力チカラを持っている。それだけのことだ。

 

「スティープル、お前はそのバケツを俺なら外せると思っているようだが……それは違う」


 自分の声が届いているとは思わないが、それは重要ではなかった。

 教会の神父に罪を告白するように、ブロードは自分のペースで言葉を並べていく。

 

「俺が溺れそうになってお前がバケツに手をかけてきたとき、俺は心を打たれたんだ。俺を見捨てることもできるのに、なんていい奴なんだろう。こいつの味方になれば俺は救われる。殺されるかもしれないっていう恐怖も少しは和らぐに違いないってな」


 ブロードはゆっくりと歩き出す。


「そして思ったんだよ。お前との勝ち負けなんかどうだっていいんだ。大事なのはお前の持つ眼球とチョキを依頼主に届けること。お前の味方になれば一緒に俺の依頼主に会ってもらえるかもしれない」

「聞こえてるのブロードッ!早くっ!早くをバケツを……このままだとあたしも溺死するっ!」


 少しだけ息を荒げながら、ブロードはしゃがみこむ。彼の心臓は大きく脈動し、これ以上ない緊張感を感じていた。


「“なんとかなるかも”。自分都合で考えがちな所が俺の悪さであり良さなんだ。溺死する寸前に俺が思ったその考えが俺を絶望の水底からすくい上げた。分かるか?俺のバケツが消えたのはな、俺が諦めるのを止めたからなんだよ」


 次の瞬間、ブロードはスティープルを抑えつけていた。


「ブロード……!?」

「逆だ、スティープル!そのバケツは本人にしか外せない!俺に頼み込んだ時点でお前は詰んでいるんだ!」


 彼女のポケットから眼球を奪い取り、ブロードは高らかに笑う。


「お前の味方でいる必要もたった今なくなった!やったぞデウム、ファイン!チームBFDはまだまだやれる!これで依頼は達成だァァァァァーッ!!」

「ブロードォォォォォォーッ!!」


 ブチィッ!


「……え?」


 スティープルの腕がブロードに掴みかかる。そして次の瞬間、削るように肉を食い千切る!

 

「ぎ……や、あ、あ、あァァァーッ!?」


 叫び声と共にブロードの足がもつれて、フラフラと倒れ込んだ先にはテーブルが置かれていた。

 転倒の衝撃でテーブルの脚が一本へし折られ、上に乗っていた鳥カゴと睡眠薬入りの小瓶が落下する。


「キョキョキョキョキョッ!」


 ドルホークがバサバサと羽ばたきながら横倒しになった鳥カゴを転がしていく。本能的な行動だった。何はともあれ、その鳥だけは危機を脱することには成功した。

 一方、崩れ落ちたテーブルの下ではブロードが泡を吹きながら昏睡していた。




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 雨足は早朝よりやや強まっていたが、倉庫の屋根を叩く音は喧騒と呼べるほどではなかった。たった今そこを訪れた人物が、地下室への梯子を数段飛ばして踏み鳴らした音と比べれば些細なものだろう。

 仮面を被ったその人物は迷うことなく右側の部屋へ向かい、そこで倒れているブロードを発見する。次に足元に転がっている小瓶を広い、何かを考え始める。


「…………」

「……う、うぅ」


 隣の部屋からファインの呻き声を聞くと、彼はすぐに隣の部屋へ向かった。

 扉と壁に挟まれていたファインは、右手が大きく負傷しているほか、手足を何箇所か骨折しているようだ。


「意識があるなら話してもらおうか。聞きたいのだがね、お前たちのリーダーはなぜ生きているのだ?」

「う……う」

「『バケット・パニック』の発動は感知できる。スティープルと言ったか、あの女への攻撃が発動したからこそ私はここに来た。自分の安全が確保されたからな。だが、お前たちのリーダーに対しても発動したのは気になる所だ。まさか私を裏切ったんじゃあないだろうな?そしてなぜ生きている?」

「…………うぅ」

「ええい死にぞこないめが!話せないなら口を利くんじゃあないっ!!」

「げぐっ!!


 彼女のアゴに蹴りの一撃を叩き込む。

 衝撃で外れそうになった仮面をそっと手で抑えながら、男はブロードの元へ再び向かった。


「分からないならそれで構わん。目玉焼きに何をかけて食うのかと同程度のどうでもいい問題だ。お前たちなど所詮はチッポケな“その他大勢”なのだからな。それよりも重要なのは……」


 ブロードの横には邪眼人狼ブラックベリー・ウルフの眼球が転がっている。仮面の男はそれを見て声を漏らした。


「美しい……肉体に宿る神秘だ。薄汚い心の取り払われた真の美しさ。価値というものはこうして生まれる」


 眼球を拾ってポケットへと入れる。続いて目を向けた先には彼のもう一つの目的があった。

 二人の子供が倒れている。少女はうつ伏せで表情は見えない。少年は寝息を立てている。


「ふふふ……一目見たときから決めていたんだ。君を私の物にする。不要な要素は排除して真の価値を与えてやろう」


 倒れている少年を両手で花嫁のように抱き上げる。

 少女の方には目も暮れず、仮面の男はそのまま入口へと歩き出していった。




「無理だね、あなたの手に負えやしない」

「なにっ!?」


 少女の声がした。

 そんなはずはない。あの女は既に溺れた後のはずだ。

 仮面の男は振り向くが、既に少女よりも重要な問題に直面していることに気づく。


「っ!?ぐァァァァァーッ!!」


 少年の体が床に落下した。彼を抱きかかえていた男の両腕は無惨な姿で真っ赤に染まっていた。




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「う、腕が……私の腕がァァァーッ!」

「あなたがブロードの依頼人ね……!」


 仮面にマント……聞いていた通りの服装だ。確かに顔は分からないが、あたしの知っている人物だとすぐに確信した。


「ば、馬鹿なっ……なぜ!?」

「来ると思ってたよ。あなたが欲しがっているチョキに『ファングド・ファスナー』を仕込んでおいたんだ」


 そう言って、あたしは自分の手に口を発現させて相手に見せる。

 プレーン能力。さすがに相手も理解が早かった。


「ぐ……!だがなぜだ!?私の『バケット・パニック』はお前を完全に攻撃したというのに!なぜのうのうと生きていられるのだ!?」

「別に不思議なことじゃないよ。あたしに与えられた条件を考えさえすればね」


 自分自身の思考を思い返す。

 攻撃される直前にあたしが思っていたことは、奴隷商たちが殺されていたということだ。その結果、あたしが何かを諦めたことで攻撃が発生した。

 何を諦めたか、なんてことはすぐに分かった。奴隷商を討伐することだ。死人は討伐できないからな。


「そこでふと思ったのよ。奴隷商ならヴェラム王国にだっている、あたしの討伐対象はまだ残っているんだって。そう考えた瞬間、あたしを襲うバケツが外れたの」

「な、何を言っているのだ!?お前がギルドから受けた依頼は──」

「“パーチメント王国に潜む”奴隷商の討伐のこと?確かに国の名前が明記されているけど、そんなのは関係ないでしょう?あたしが諦めかけたのはあなたからの依頼なんだから」

「……!!」

「あたしたちがギルドから受けた依頼の内容を反芻するように見せかけて、あなたは自分の依頼を受けさせた。“奴隷商に然るべき裁きを与える”……こっちには国の指定は無い!」

「ぐ……ううううぅぅぅ……!!」


 仮面の男がよろめいた。


「もうバレてるのよ、仮面を取りなさい……バンケシー!」


 仮面が落ちる。露わになった彼の表情は冷や汗に塗れていた。

 ギルドの依頼を受託した冒険者に、ナギナタ老の友人という立場を利用して接近し、達成不可能な依頼を付け加えて、その能力で暗殺する。

 そうやってこいつは自分の仕入れ先を維持してきたのだ。


「あなたの能力は把握した。もう二度とあなたの頼みを聞くことはない」

「ひっ……!」


 バンケシーはその場にへたり込む。彼もプレーンなら既に理解しているはずだ。自分の能力であたしと正面から渡り合えった所で結果は見えていると。


「わ、私を……わしをどうする気だ……殺すのか……!?」

「さぁね、それを決めるのはパーチメント王国よ。でも……そうね、一つだけ言えることがある」

「え……?」

「今度はあなたが頭を冷やす番よ、薄暗い牢獄の奥底で。そうやって自分が積み上げてきた罪と向き合うの。せいぜい頑張ることね」




 この日、パーチメント王国で暗躍してきた奴隷商グループは壊滅した。被害者遺族たちはその知らせを心の底から喜んだが、その実行犯は決して讃えられることなく、むしろ奴隷商以上の邪悪な罪人として名を知られることとなった。

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